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三十話

「やれやれ、まだこの老骨を休ませないのか……」


「忠次殿、愚痴を言っても仕事は終わらないですぞ」


 徳川秀康が、その弟である秀忠の所領を取り上げようとした事に端を発した戦いは、最終的には親シンイチ派と反シンイチ派による大会戦へとその性格を変化させていた。


 そして、その戦いにシンイチの率いる東軍は大勝利を収めたのだが、戦いは勝てばそれで終わりというわけではない。

 その先には、面倒な戦後処理という仕事が待っている。


 中老の一人で今回の戦いの首謀者である徳川秀康の戦死を確認したシンイチは、秀忠に徳川家全ての領地を一時的に統治する事を命令していた。


 後に徳川家の家督は正式に秀忠の物となる予定であったが、それには秀頼の認可が必要なので、今は臨時という事になっている。


 秀忠は岡崎城に入り、降伏をした秀康の旧臣達の管理や、いまだに抵抗を続ける秀康の家臣達の討伐をしながらその旧領の把握に努めていた。


 そして遠江担当には、老骨に鞭を打って出陣をしていた徳川四天王のトップであった酒井忠次が赴任している。

 忠次は、秀康に殉じて討ち死にしてしまった忠勝や康政達を少し羨ましいと思いながら、残された立場の者として与えられた仕事をこなしていた。


「直政は、忠吉殿の付き添いか……」


「ええ。北陸への処置をしないと、信一殿は大阪にもいけません」


 先の会戦で相当の打撃を与えたはずの越後などを領地とする上杉家や、越中・能登・加賀などを領地とする前田家であったが、その勢力はいまだ健在であり、これを何とかしないとシンイチは上京する事すら難しい状況にあった。


 とはいえ劇的な解決策などなく、上杉家に関しては最上軍と舟橋家関東残留軍や、徳川軍、真田軍などで越後を包囲状態にして動けなくするだけにしていた。


 先の会戦でダメージを受けた上杉軍は、もはやこちらに攻め込む余裕は存在しない。

 だが、こちらから攻め込めば、徹底的に抗戦するであろうからその犠牲は大きくなるものと予想される。

 そこで、このような包囲作戦を取る事にしたのだ。


「それで、外交で決着か」


「義兄上が攻め込みたいのであれば、俺は止めませんが」


「嫌だね。窮鼠どころか、とんでもない事になってしまう」


 相次ぐ大老達の転落により、これからはシンイチの次の次席大老ととして豊臣政権の政治を見る事になる森長可は、昔のような無茶はもう出来なくなっていた。


「それで、前田家はどうするんだ?」


「利政殿には大幅な加増で、利長殿には大幅な減封しかない。これで、既に交渉を行っています」


 結局、あとで正式な領地替えを行う事とするが、利長を能登十万石へと大幅に減封し、利政に能登の残りと越中一国を与える事としていた。

 加賀の前田家の領地は全て没収であり、他にも上杉軍と行動を共にしている丹羽長重と、小早川秀秋の元家臣で同じく西軍に付いた山口宗永もその領地を没収する事とする。


 小早川秀秋が最後に愚痴を零していた山口宗永は、別に東軍に付いたわけではなかった。

 だが、領地の関係でその軍勢は前田軍と一緒にいたために、『なぜ元は俺の家臣の癖に傍に居なかったのか?』という半ば言いがかりに近い文句を言っていただけだったのだ。


「兄上……。なぜ、このような選択をしたのです?」


「父上が亡くなり、少し夢が見えたのだよ。私が筆頭大老となる夢がな……」


 戦に破れた利長はシンイチの講和条件を潔く呑み、多くの家臣達を利政側に移籍させ、僅かな家臣達と共に寂しく能登へと退避する事となる。

 更に上杉家包囲網にも参加し、これで上杉家には完全に逃げ道が無くなっていた。


「庄内と北信濃と佐渡は没収です」


「我らが呑まねば?」


「もう一戦あるのみ」


 交渉のために、僅かな随伴と共にシンイチの下を尋ねていた直江兼続は、そこでシンイチから上杉家減封の条件を聞く事となる。


「了承した」

 

 上杉家に残ったのは、わずかに越後一国のみ。

 これが多いのか少ないのかは、後世の歴史家達の間でも意見が分かれるところであったが、このまま領内で絶望的な抵抗を続けるよりはとこれを受け入れる事となる。


 北陸地方の裁定を済ませたシンイチは、その足で美濃・尾張・近江などで西軍に付いた大名達から所領を没収し、東軍に付いた大名やその家臣達に管理を任せながら、最終目的地である大阪へと到着する。


 シンイチが少数の護衛だけを連れて大阪城の正面門へと向かうと、そこには浅野長政以下、増田長盛、石田三成、長束正家、前田玄以、大谷吉継、土屋長安などの奉行衆が待ち受けていた。


 彼らはシンイチの指示通りに、秀頼と大阪周辺の治安を守りながら完全な中立を貫いていたのだ。


「東軍の勝利おめでとうございます」


 三成が代表してシンイチに挨拶をするのだが、彼の言葉は真意から出たものであった。

 もし西軍が勝っていたら、大老三人に若手中老三人が秀頼の後見を巡って血みどろの争いを続け、もしかしたら秀頼に害を成す存在になる危険性があったからだ。


 その点、シンイチならばどうにか秀頼の成人まで上手く後見してくれるであろう。

 三成も他の奉行達も、基本的にはそう考えていた。


「これから本格的に始まる戦後処理を考えると頭が痛い」


「我らも手伝おう。まずは、秀頼様への挨拶だな」


「秀頼様に饅頭を買って来たのですよ。何でも、京都の名物らしいけど」


「それがしが毒見をしてからです」


「三成殿はいつも毒見をするが、本当は食べたいからなんだろう?」


「何を言いますか。それがしは、秀頼様が万が一にも毒殺されないか心配しているのです」


「まあ、そういう事にしておいてあげよう。西国の領地割をどうしようかな?」


「ところで、ねね様から秀家殿と秀秋殿に対する赦免の要請が……」


「出家でもさせようかな?」


「それは、不味いのでは?」


 シンイチは、長政や三成や長盛と話をしながら大阪城へと入って行く。

 そしてこの瞬間より舟橋信一は大老筆頭となり、その数十年間に渡って関白豊臣秀頼を支え続ける事となるのであったが、それまでには当然の如く様々な苦労をする事となるのであった。






「この中で転封したい者は?」


 大阪城に入ったシンイチは、奉行達と共同して東北から畿内までの統制を回復させる事に成功していた。

 西軍に付いた大名家から領地を没収し、彼らや主だった家臣達などを家族と一緒に大阪にある武家屋敷に監禁する事に成功していたからだ。

 そして没収した領地は、とりあえずは奉行衆が派遣した者達が管理する事になっていた。


 そんな中でシンイチは、最初から自分に付いて来てくれた東北地方の大名達の領地を増やそうとしたのだが、ここで一つ問題が発生していた。


 東北と関東には、西軍に付いて領地を没収された者が極端に少ないので、あまり与えられる領地が少ない。

 いや、一人も存在しなかったのだ。

 そこで、転封を条件に領地の大幅な加増を提案したのだが、これに手を挙げる者は皆無であった。


「あれ? 誰もいないのか……」


「蝦夷が遠くなるからな」


 政宗の言う通りであった。

 確かに東北は寒いし、冬は雪で動けなくなるかもしれない。

 だが、あの蝦夷に近いという利点があった。

 

 米は取れないがいくらでも開拓可能で、蝦夷の産品には西国などで高く売れる品物が多く、更にその北には択捉や千島列島やシベリアなども存在する。


 これから探索を行うのに、離れたくないというのが本音なのであろう。

 それに、暖かい土地が欲しいのであれば、南方の土地に殖民をすれば済む話であった。


「しょうがない……」


 シンイチは、東北大名達への領地の加増で頭を悩ます事となる。

 蝦夷への権利を増やしたり、開発資金として豊臣家から金銭を与える約束をしたり、蔵入地の返還などで対応したりしていた。

 それと、上杉家から取り上げた庄内や、あの大名の領地を分割する事にする。


「下野を代わりに与えますので」


「俺は別に構わないが、佐竹はどうするんだ?」


「下総から十万石ほどを与えます」


「お前の領地ばかりが減るな」


 シンイチからの提案に森長可は特に文句を言わず、逆にシンイチの領地が減ってしまう事を心配していた。

 長可から見ればシンイチは豊臣家の忠実な家臣であったが、それは逆に彼を韓信のような存在にもしてしまっている。

 

 なので、舟橋家の安全のためには力を落とすのは良くないと考えていたからだ。

 西の豊臣政権に、一番の大老で北方の開発を行う舟橋家。

 これが、今のところは順当であろうと考える長可であった。


「そこまでお人好しではないので。甲斐の浅野長幸殿を越前の大谷吉継殿と一緒に加賀へと転封します。それと、信濃の大名はほとんどが西軍に付いていますし、北信濃四郡も上杉家から没収しましたし」


 シンイチは、沼田の真田家を三万石ほどから信濃から十万石へと加増し、同じく東軍で戦功を挙げた浅利頼平も上野で五万石へと加増する。

 だが、残りの信濃と甲斐に、西軍に組した金森長近から飛騨を没収して自分の領地に加えていた。


 なお、徳川秀康の元養父で、松平忠吉に下総の結城領を譲った代わりに南信濃に領地を得ていた結城晴朝は、秀康の戦死後に自分は処刑されるとでも思ったのか?

 一部の側近達と領地を捨てて逃亡しようとしたところを、落ち武者狩りの農民達に襲われて首を獲られるという結末を迎えている。

 シンイチは秀忠には悪いと思ったが、この南信濃の領地は全て没収して自分の物にしている。

 

「北条家討伐前の父の領地に戻れたので、これで十分ですよ」


 史実とは違い、偉大なる父が天下を取らなかった秀忠は三国の太守となれた自分に満足しているようであった。

 それに、兄秀康との争いで忠実なる三河武士達が多数戦死して、あまり多くの領地を管理できないという現実的な事情もあったのだが。


「福島正則には、尾張一国に加増。引き続き、那古屋の開発に邁進させる事とする」


「美濃は?」


「俺の婿殿である松平忠吉殿に岐阜二十万石を。宇都宮国綱殿には、二十五万石に加増転封を。残りは、豊臣家の蔵入地だな」


 シンイチは、自分の領地内の蔵入地を相模一国以外は全て解除し、代わりに西軍に付いた大名から没収した領地を当てる事で、戦前よりも豊臣家の財政基盤を強化していた。


 徳川家内で発生した家内騒乱を止めに入った大老舟橋信一の心情すら鑑みず、勝手に秀康に加担して軍勢を送り西軍などと名乗って、いつの間にかシンイチ排除を目的とするようになった。


 東軍は、それを抑えるためにシンイチに協力したに過ぎない。


 これが、今回の戦いの発生理由という事になっていた。


「宇都宮殿が加増とはいえ良くその案を呑んだな」


 長可は不思議がっていたが、彼は巨大な豊臣政権の力によって一度領地を奪われている男であった。

 その彼が、大老である舟橋家と森家の間にある重要拠点宇都宮に拘る事によって再び領地を奪われる事を恐れたのであろう。


 旧家臣達などを率いて今回の戦いに参戦して、毛利家の家臣数名を討ち取って戦功を稼いだ国綱は、領地割りで悩んでいるシンイチの元に現れて、『大名に復帰できるのであれば、どこでも構わない』と言いに来たのだ。


 そこで、織田秀信の影響でほぼ全員が西軍に付いて領地を没収されていた美濃へと彼を加増移封させる事が出来たのであった。


「越前は、蒲生秀行に返す」


「そうだな。これは、氏郷との約束だからな」


 二人は、氏郷が亡くなる寸前に秀行の事を任せれている。

 秀行に器量が無ければあまり大身である事に拘らないとは言っていた氏郷であったが、彼はその力量を試す間もなく秀次によって大幅に減封されてしまう。


 その原因の一つに自分と秀次との対立もあったので、シンイチはいつか秀行を越前に戻そうと自分の二の姫である『伊代』と婚姻させ、いつ大領を与えられても大丈夫なようにと、時にはシンイチ自らが秀行への教育も行っていた。


 確かに秀行には、父ほどの才能など無かった。

 だが、懸命に偉大な父の二代目として努力はしていたし、家臣達の補佐があれば十分に一国は治められるはずであった。


「俺も、後見に入るよ」


「たのみます。それで、伊勢ですが……」


 ここも、西軍に付いて領地を没収予定の者が多かった。

 だが、一人考慮しないといけない人物もいる。


「一益殿に頼まれてしまったからなぁ……」


 史実とは違って、滝川一益は対徳川戦後に頭を丸めて完全に出家してしまい、その所領は全て息子の一忠へと受け継がれていた。

 彼は、秀吉の死後に同じく養子の佐久間勝之こと佐々成之に家督を譲って隠居していた佐々成政のツテでシンイチと面会して、息子の改易だけは勘弁して欲しいと願い出ていたのだ。


「とはいえ、まるで無罪なのもおかしいので、北伊勢十万石に減封という事にした」


「まあ、妥当なところだな。ところで、富田信高はどうするんだ?」


 富田信高は、秀吉に奉行の一人に任じられた富田一白の息子であったが、父の死後に彼は奉行には任命されていなかった。

 なので、同じく奉行に任じられたものの、その死後に息子が奉行に任じられなかった宮部家と同じく西軍として戦いに参加し、その所領は没収される事となっていた。


「どうやら、秀家殿らの線で奉行にすると言われていたらしい」


「ならば同情の余地はないな」


 他にも、伊賀の筒井定次などが改易の憂き目に遭っている。

 そこで、東軍に属して大活躍をした島津家へ日向から加増を行うべく伊賀と北伊勢に一部に佐々成之を転封し、残りの伊勢へは堀秀治や藤堂高虎などを加増移転。

 志摩に領地を持つ九鬼嘉隆にも、志摩と隣接する伊勢に二万石を加増していた。


「これで、大阪周辺もスッキリしたな」


「とにかく、豊臣家の直轄地を増やさないと……」


 摂津・和泉・河内・播磨・丹波・山城・大和・紀伊などの大部分を豊臣家の蔵入地とするために、大和郡山城の増田長盛や西軍に付かなかった大名達は近江・若狭・丹波・丹後などへと移封し、代わりに細川忠興は美作と備前に移封する事にした。


 今回の戦いでは細川家は中立の立ち場を貫いていたが、それはあくまでもシンイチのお願いによってであり、以前に会津への加増転封を断って以来、まるで加増がないために困窮している細川家を救うためでもあった。


「蜂須賀家政は、改易だな」


「ああ」


 シンイチとしては、彼の父であった小六には世話になっていたので改易は避けたかったのだが、家政は東軍寄りの中立であると宣言しておきながら、西軍に家臣を潜り込ませていてからだ。


 なぜ彼がこんな卑怯な事をしたのかはわからなかったが、このまま無罪というわけにはいかなかった。


「権兵衛殿を阿波に移転して、その旧領の一部を淡路の安治殿に加増する。勿論、存保殿にも加増は行う」


 シンイチの羽柴家時代からの先輩であり、逸早くシンイチに軍を派遣して上杉軍の藤田重信と栗田国時を討ち取った仙石秀久には、蜂須賀家政の旧領である阿波を。

 讃岐は一部を淡路の脇坂安治に加増して、残りは十河存保に加増する事にした。


 最近では、豊臣家の水軍を預かる事が多い安治を他の地に移すわけにはいかなかったからだ。


「伊予は、長宗我部信親殿に十五万石を加増して、加藤嘉明殿には伊予松山城二十万石へと加増だな」


 この二人も、共に水軍を仕立てて急いで東軍へと参加している。

 シンイチが、水軍の強化や貿易・殖民・未開地探査に興味を持っていて、それに多くの労力を割いていたので、大半の有力な水軍を持つ大名達は東軍へと参加していたからだ。


「さて、ここまでは順調に進んだか……」


 この領地割は、シンイチと長可が独断で進めているように見えるが、実は既に全ての奉行衆に交渉をして許可を得ているものであった。

 

 だが、これから始まる中国・九州地方への領地割りには色々と難しい面も存在していて、なるべく当事者を呼んで意見を聞こうと考えていた。


「この度は、戦勝おめでとうどざいます」


「見事なまでの勝利でしたな」


「如水殿は、本当にそう考えていますか?」


「我らは武士ですからな。勝てれば、先がありますよ」


 まず最初に姿を見せたのは、豊前中津城十七万石の太守である黒田如水・長政親子であった。

 彼らは加藤清正の家臣達などと共同して、旧小早川領の接収と、同じく毛利家への牽制などに功があったので加増される事になったのだ。


 朝鮮の役で荒れた九州に領地を持つ大名で、今回の戦いに参加した者の数は少ない。

 島津家と立花家と小早川家と加藤家くらいであったが、小早川家を除けばほぼ全員が東軍に参加している。

 他にも、大友吉鎮の豊後復帰の件もあったので、領地を大幅に変える必要があったのだ。


「では、安芸と石見です。石見銀山は、今までと同じで豊臣家の直轄ですが」


 二ヶ国を貰えるとあって、黒田親子の表情はご機嫌そのものであった。

 史実では関が原の戦いの時に天下を狙ったとされる如水であったが、その最大の障害であるシンイチの年齢なども考えて、今回はそこまでは考えなかったようだ。


「ほほう。毛利は、長門と周防に封じ込めますか」


「それと、輝元殿の戦死が確認されました。毛利家は、秀元殿に相続させる必要があります」


「吉川家と小早川家はどうします?」


「毛利両川ではないですか。当然、一緒ですよ」


「確かに、毛利家の影響力は大でしたからなぁ」


 輝元は、今回の戦いでは本来の首謀者である秀康を利用してシンイチを倒し、豊臣政権内でその影響力を拡大させようと考えていたらしい。

 だからこそのあの大量動員であり、中国地方の大名はほぼ全員が西軍としてシンイチ達に逆らっていた。

 これから円滑的な政権運営を進めるのに、毛利家は邪魔だとシンイチは考えていたのだ。


「秀秋殿はどうするのですか?」


「小早川家は、秀包殿に継いでいただく」


 その代わりに、毛利・吉川・小早川の三家で周防・長門のみなのだから、それだけ輝元はシンイチの怒りを買ったという事なのだと如水は思っていた。


「それと、旧小早川領には肥後半国の小西行長殿を。彼には、博多と豊臣家直轄の長崎の整備という仕事を加えます。肥後は、人吉の相良頼房殿を三万石に加増して、残りは全て清正殿に任せます」


 更に、日向は北部の延岡城周辺五万石を伊東祐兵に加増移封し、残りを全て島津家に与えていた。

 島津家とは、これからも琉球や高山国を含む南方地域探査・殖民・貿易などで活躍して貰わないといけないし、今回の戦いでは鬼島津に相応しい活躍もしている。

 シンイチは、日向の半分以上を加増していた。


 続けて豊後は約束通りに大友吉鎮に返却し、島津家と同様に大活躍をした立花宗茂は豊前一国に加増転封。

 ここは検地上では十四万石ほどしかなかったが、実際にはその倍以上の三十万石以上の石高を有している。

 宗茂は、再び吉鎮の後見役と共にこれを喜んで引き受けていた。


 なお、空いた筑後柳川には、高橋元種と毛利勝信が転封されている。 

 それと、豊後にいた石田三成の妹婿である福原長堯は、旧毛利領である出雲へと転封となっていた。

 畿内にいた東軍に参加した大名を加増して、旧毛利領や西軍に参加した中国地方の大名の旧領に移封してしまったのだ。


 これにより、三人の大老と三人の中老がその力を大きく落とし、これに加勢した多くの大名も改易の憂き目に遭っていた。

 可哀想な気もしないでもないが、これが付く勢力を間違えた者達の当然の末路であり、実際に選択を間違えなかった者達もいる。


「加増をして貰えるのであれば不満はないですな」


「同じく」


 朝鮮の役の影響で仲が悪くなってしまった清正と行長は、お互いに睨み合いながらシンイチの提案に賛成していた。


「お二方、今さら朝鮮での事で無用な争いは止めて欲しい。仲良く成れとは言わないが、お互いに足を引っ張る事だけはしないように」


「つまり?」


「良い歳をした大人なのですから。家に帰って裏で悪し様に言っても、仕事の時には引き摺らないように。とにかく、九州の復興を急いで欲しいのです。我ら関東や東北の大名達が北方・東方海域の担当なように、大阪から西の大名達は西方・南方海域の担当となるのですから」


 ようやく国内が纏まりつつあるので、余った武士や困窮する貧民などを豊臣政権補佐の元で国内の未開発地域に送ったり、これより拡充するであろう水軍や、貿易船の船員とするべく訓練所へと送り、更には蝦夷・択捉・琉球・高山国・海南島の日本化を進める。 


 他にも、南洋諸島、フィリピン、ジャワ島、ニューギニア島、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ大陸へと進出するための下準備なども進めたいと考えるシンイチであった。

 

 外交では、キリスト教を尖兵として浸透を図る欧米諸国などとの付き合い方などもある。

 実際に日本では、キリスト教徒の数も増えていた。

 シンイチとしては、宗教の完全な禁止などは現実的には不可能だと考えていたが、宗教を利用しての日本への侵略は防がなければならず、これは大きな課題になると感じていた。


 内政でも、造船・航海・測量・製地図技術などの発展も必要であったし、これからは農業・畜産・工業・鉱業などのありとあらゆる技術開発や普及なども必要であった。


 豊臣政権安定のための、統治機構などの充実も必要であろう。

  

 つまり、内乱は二度と勘弁して欲しいと思っていたのだ。


「日本は、これにて統一されたものとする。あとは、いかに外国などと付き合いながらその勢力を広げて行くかだ」


 シンイチの理想を聞きながら、黒田親子、加藤清正、小西行長などの大名達は、『こいつには逆らうのは止めておこう』と真剣に思うのであった。





「ところで、秀秋殿と秀家殿はどうしますか?」


「ねね様から言われていたのを忘れていた……。秀家殿には備後を。秀秋殿には、出雲に減移封するものとする」


 シンイチは、ようやくに国割を終えてからこれを大阪城にいるねねや淀君へと報告していた。


「大幅に減封されるも、一国の太守としては残してくれましたか。感謝しますよ。婿殿」


「この手の作業は、煩わしいし恨まれるだけで何の利益もありませんからね。終わって良かったですよ」


 小早川秀秋は、小早川家の家督を本来であれば家を継ぐ立場にあった秀包へと返還し、自分は豊臣秀秋として出雲へとその領地を移していた。

 宇喜多秀家も備後一国へと移封となったが、以前の家督騒動で出奔してシンイチの元にいた家臣達は、宇喜多家に戻る者、豊臣家に雇われる者、シンイチの家臣になる者と、その進路は様々であった。


「とにかく、これで本当に戦は禁止です。限りある饅頭の切り分け方を争うのではなくて、分ける饅頭を増やす政策に移行するのです」


 それは、朝鮮や明の占領を図るというものではなく、他に日本に組み込める領地を確実に増やして行くという事であり、得た領地の質を高めるという政策でもあった。


「秀頼の成人までは、あなたに頼るしかありません。お願いしますね。婿殿」


「信一殿、秀頼をお願いします」


 ねねと淀君がシンイチに頭を下げたこの瞬間から秀頼が正式に成人するまでの約十五年間。

 シンイチによる施政がスタートする事となる。


 シンイチは、筆頭大老して前田利家が持っていた従二位・権大納言へと就任し、そのほとんどを大阪に詰めて政治を見る事になる。

 それと同時に、自分の嫡男である真一を元服させて舟橋秀真ふなはしひでまさを名乗らせてから、従三位・権中納言として関東の領地を任せる事にした。


「吾一達や佐久間兄弟がいるから大丈夫だと思うけど、多少の不安はあるな」


「父上、私は今まで父上や吾一や盛政にも色々と鍛えられていたのです。あとは、実践で経験を積むしかありません」


「それもそうだな。お前の母や妹達は、大阪に住んで貰う事にする。桃と仲良くしろよ」


「言われなくても、夫婦喧嘩になったら鬼武蔵が出て来ますから」


 シンイチよりは少し背が小さかったが、それでも百九十センチ近い身長にまで成長し、様々な勉学などをシンイチや吾一達から、武芸や馬術を盛政に教わっていた秀真は、親の贔屓目から見ても無難に二代目が勤まるであろう器量を有した若者になっていた。


 そして彼の正妻は、勿論長可の娘である桃姫であった。

 この史実では生まれていなかった娘は長可が特に可愛がっていて、しかも『桃をやれるのは、秀頼様か信一の息子だけだな』と言っていたので、二人は無事に婚約から婚姻への運びとなっていた。


 結局、シンイチは三人の男子と九人の女子に恵まれている。

 なかなか家に帰れない身で、三人の妻に四人ずつの子供を生ませたので、後世では『亭主元気で留守が良い』の典型例と言われる所以であった。


 長女の『愛』が松平忠吉に、次女の『伊予』が蒲生秀行に、三女の『歌』が森秀長(森長可の嫡男)へと嫁ぐ事が決まっていて、残りはまだ幼い娘ばかりなので全て未定となっている。

 

 だが、婚姻への問い合わせは多くの大名から来ていて、シンイチはこの件でも悩む事になるであろう。


 男子は、嫡男の秀真が長可の娘ともう少しで正式に式を挙げる予定であったし、次男の真二は佐久間家へ養子に行く事が決まっている。

 三男の真三は、これは生まれたばかりなので未定だが、多分兄である秀真の補佐をする事になるのであろう。


 ただシンイチは、真二と真三は大阪に置いて共に秀頼付きの小姓とする事を決めていた。

 他にも、全ての大名の妻子を大阪に呼び寄せ、その子供達を秀頼に仕えさせる事にしていた。

 寝食・勉学・修練・遊戯などを共にする事によって、将来の大名家の後継者達に豊臣政権への親和性を持たせるつもりであったからだ。


「なるべく、平穏な日々が続きますように」


 戦後処理でひと段落したシンイチは、豊国神社で神となった秀吉に祈り続けるのであった。

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