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HDの肥やしになっていた端折り戦国物   作者: Y.A


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二十四話

 慶長二年(1597年)。

 秀頼の元服と彼の次期豊臣家当主への指名と、それを補佐する五大老、五中老、五奉行体勢の構築と指名を行った秀吉は、明との講和交渉が決裂した後に、小早川秀秋を元帥として十四万人の軍を朝鮮へ再度出兵させていた。


 二度目の出兵でも、漆川梁海戦で李舜臣が整備した朝鮮水軍を壊滅させ、その後も順調に戦いに勝って進撃を続けていたが、やはりその支配は点と線にしか過ぎず、日本軍は一揆バラと補給状態の悪さに次第に士気を落として行く。


 勿論、戦闘になれば多くの敵兵を討って手柄を得るのだが、いくら敵を殺してもまるで状況に進展が無いのは同じであった。


 現地の状況悪化に、ここで始めて五大老の一人となった森長可は名護屋に三千人の兵士と共に詰めて、後方支援体勢の強化と現地の状況把握に努める。


 だがその結果は、長可が自身の渡海を躊躇うほどの深刻さであった。

 しかも、秀吉の命で朝鮮へと渡った小早川秀秋が、年明けの帰還後に突如越前北ノ庄十五万石への減・転封と、中老職の職務停止命令を受けるというアクシデントも発生していた。

 

 慶長二年(1597年)の七月に釜山へ上陸した秀秋は、周辺の守備を任され梁山倭城の普請を担当してこれを成功させている。

 無難に任務をこなしていたわけだが、秀吉からの帰還命令を受けた十二月に発生した蔚山城の戦いで、小早川勢は西生浦倭城経由で明の大軍に包囲された蔚山倭城の救援に向かっている。

 

 この時に初陣であった秀秋は、自ら槍を振るっていくつかの手柄首を挙げたらしいのだが、これが秀吉の帰還命令に違反していると激怒されて処分されてしまったのだ。


 だが、いくら帰還命令を受けていたとはいえ、戦力があるのに味方の援軍を断るのはあまりに現場を無視した判断であろう。

 実際に、救援された加藤清正などは、心から秀秋に感謝していたのだから。

 

 秀吉は、この時に秀秋が自ら前線で槍を振るった事実を知って、『それは、匹夫の雄で端武者のする事である』と言って激怒し、彼に腹まで切らせようとしたらしい。

 そして、秀秋を秀吉が詰問している席にはシンイチ達も同席していたのだが、彼の秀秋を叱る時の表情を見て反論する事を諦めていた。


 秀吉のその時の目は、あの秀次を粛清した時に見せた、秀頼を害する者は何人たりとも許さないという半ば狂気を宿した目であったからだ。


「何とぞ、若き秀秋殿に今後の機会をお与えいただきたく……」


 シンイチ、前田利家、上杉影勝の三名は、それを言うのが精一杯であった。

 秀秋は処分されて越前北の庄で謹慎する事となり、その際に多くの家臣達に去られてしまっている。

 筑前名島三十一万石から、石高が半分になってしまったので仕方が無かったのだが、秀秋からすれば踏んだり蹴ったりであろう。

 

「それがしが、旧小早川領の代官となりました。浅野殿と共同でですが……」


 同じく、没収された旧小早川領の代官に任じられた石田三成も困惑しているようであった。

 彼は、最初は秀吉からその地への加増・転封を命じられていたのだが、さすがにそれは断っていた。

 

 しかも秀秋への処分の発端が、自分の妹婿であった福原長堯の報告であったために、秀秋への処分は三成の陰謀で、旧小早川領への加増・転封を断ったのはその事実を隠すためという噂が流れていて、後に秀秋の処分を知った朝鮮在場の武将達からも三成への非難が集中している。


 三成にとっても、踏んだり蹴ったりの事件であったのだ。


「信一殿。それがしは、現地へと赴きますので」


「後に秀秋殿に返す事になろうから、しっかりと現状維持を頼むとしか言えないな。俺としては……」


「かしこまりました」


 シンイチの言葉は後に現実の物となったが、このような事件などもあり名護屋にいる長可は、ただ毎日黙々と書類を処理するだけの日々が続く。


「まるで、一向宗と戦っている時のようだな……」


 長可は、冷静に自分の軍の消耗を嫌って名護屋での政務に邁進すうる事となる。

 そして早くに秀吉が、朝鮮からの撤兵を決断する事を祈るのであった。


「お久しぶりです。長可殿」


「権兵衛か。久しいな、信一が会いたがっていたけどな」


 讃岐に十二万石を領する仙石秀久は、水軍衆を率いて朝鮮半島と名護屋を行ったり来たりしていた。

 だがその顔は、何の益も無い出兵と過度の負担によってやつれ果てているようにも見えた。


「そうですか。信一殿は朝鮮への出兵は無いが、関東と東北で苦労しているとか? 俺と安治殿は、今にも破産寸前であるが……」


 既に朝鮮へと出兵している大名達は、秀吉の命令なので仕方が無くという者が大半となっていた。


「せっかく開発を進めて増収になっても、全部持っていかれてしまうそうだ。その中での軍の整備と、新たな開発費用の負担だ。九州のように農民の離散は無いが、かなりカツカツでやっているさ」


 長可も借金などが無いだけマシであったが、同じような状況にあった。

 

『朝鮮派遣軍への兵站の負担が無ければ……』


 これは、長可の家臣達が一度は言う言葉であった。


「そうか……。もはや、どうにもならないのだな……」


 苦悩する長可であったが、噂になったシンイチはまた新しい事件に巻き込まれる事となっていた。




「はあ? 宇都宮国綱殿が改易?」


「はい、その身柄を宇喜多秀家様預かりになったとかで」


「改易の理由は?」


 シンイチには、宇都宮国綱が改易になる理由が思い付かなかった。

 物凄く優秀な人物というわけではないが、軍を率いても領地を治めても無難にこなす人物であり、シンイチの国力増強案にもすぐに賛同して協力し、下野宇都宮十八万石を実高三十万石近くにまで増やし、領内で産出される大谷石は耐火性・蓄熱性が高く、様々な建築素材や石釜などの材料として全国に出荷されていた。


 宇都宮家は代々下野を有していて、特に領内で悪政などを敷いた事もなく、シンイチは彼の改易された理由が良くわからなかった。


「噂によりますれば、浅野殿の讒訴が原因とか?」


 情報を持って来た舞兵庫は、今回の宇都宮家の改易に浅野長政が関わっているという噂を聞いていて、それをシンイチに話す。

 簡単に言うと、継嗣が無かった国綱が浅野長政の三男長重を養子として迎えたいという提案を長政に行ったものの、国綱の弟である芳賀高武がこれに猛反対して話が流れてしまい、これの激怒した長政が国綱を讒訴したという内容であった。


「まさか、それを鵜呑みにはしていないよな? 兵庫」


「それは、勿論。秀次様の家臣達が、大量に粛清されたのと同じでございましょう」


 つまり、家柄が古いだけで国綱に景気良く本領安堵をしてしまったが、その領地を取り上げて自分に従順な者に与えたいという事なのであろう。

 矢面に立って、了見の狭い男だと思われる長政が可哀想だと思うシンイチであった。

 そして、もう一つ嫌な予感もしていた。


「それで、暫くは旧宇都宮領を蔵入地とするので、その代官を信一様に務めて欲しいそうです」


「だと思ったよ……。吾一に任せてみようかな?」


「それも宜しいかと」


 シンイチが拾って育てた孤児の内、元服後に三名が戦死して残りは八名となっていた。

 その中で一番の年長者である吾一こと長江真継や、医者としての顔も持つ黒木重文は一万石超えの知行を貰っていたし、他の六人も既に五千石以上の知行を貰い、そのうちに一万石以上に加増される事は確実であった。


 彼らはシンイチから直接に多くの事を学び、一緒に育ってきた半ば親族のような者達ばかりであり、中でも吾一はシンイチの一番の弟子というべき人物であった。

 

 武芸でも、内政でも、財政でも、建設でも。

 超一流ではなかったが全てに一流に近い能力を持ち、秀吉から五万石で直臣に誘われた事もある人物であった。


「というわけで、旧宇都宮領の代官を頼む」


「かしこまりました」


「変な事をして処罰されるなよ」


「しませんよ」


 シンイチは弟代わりの吾一に軽口を利き、吾一もそれに気楽に答える。

 表立った場所では君臣のケジメは付ける孤児達であったが、普段は常にこんな感じであったのだ。


「国綱様が苦労して米処にした宇都宮が蔵入地ですか。その米を朝鮮半島に送っても糠に釘でしょうね」


「そういう意味で使うのか?」


「通総殿や、通幸が言っていたではないですか。半島沿岸部までの物資の補給は順調だが、内陸部までは責任が持てないし担当ではないと」


 文禄の役当時の日本水軍は船の数こそ多かったものの、大将や指揮官の乗る安宅船を除くと、大半は中型の関船や小型の小早が戦闘の主力であった。

 そもそも従来の和船の設計では大砲を乗せ難く、朝鮮軍も脆弱な陸軍とは違って水軍は対倭寇用に訓練や戦備が整えられていて旧式ながらも大砲などの装備率も高く、名将李舜臣などの活躍もあって互角に戦えている存在であった。


 これには、開戦当初に日本側が水軍同士の戦闘を想定していなかったという理由と、火器や弓を使っての遠戦指向である朝鮮水軍と、接舷切り込みによる白兵戦指向という日本水軍との戦術の違いがあったのだが。


 だが、さすがにこの頃になると日本側も鹵獲した朝鮮水軍の船などの研究をして対策を立てている。

 更に、以前にシンイチの立案によって大阪や江戸に完成していた造船所や火器工廠では、竜骨を構えた大型のガレオン船が完成し、改造された大砲が搭載されて、訓練がてらに朝鮮半島への物資の補給などを行っている。


 そして早速に、補給物資の焼き討ちに来た朝鮮・明水軍の小艦隊を易々と撃破する事に成功している。

 だが、これらの新装備を持っているのは、シンイチの下にいる来島通総、得居通幸、梶原景宗達と、九鬼嘉隆、脇坂安治、仙石秀久、堀内氏善、杉若伝三郎、桑山重勝などが豊臣家から預かっている分のみであった。


 何しろ大型の船で建造に手間がかかり、大砲の搭載などもあるのでまだそれほど隻数が完成しておらず、他は既存の船の改造で凌いでいる状態であったからだ。

 

 それにシンイチは、まるで利益の出ない朝鮮への輸送には最低限の船しか動員していなかった。

 残りは、蝦夷、樺太、琉球、高山国(台湾)、マカオ、ルソンなどの遠隔地と貿易を行い、その途上で海賊行為をしている倭寇や南蛮船などを鹵獲したり、遠くはノビスパン(メキシコ)、インド、オスマン帝国などにも船を派遣して貿易交渉を行っている。


 新造船や新造砲の製造には金がかかるので、これらの費用を貿易で稼ごうとしたからであり、遠隔地への航海で船員達を船の操作に慣れさせるためでもあった。

 

「朝鮮・明水軍との交戦経験も無駄にはなるまい。吾一、代官の任を頼むぞ」


「かしこましました」


 シンイチは吾一に旧宇都宮領の代官を任せ、彼はその期待に答えていた。

 そして、年が明けて慶長三年(1598年)の五月。

 遂に秀吉は病に倒れ、シンイチは急いで大阪へと向かう事になる。

 舞兵庫に警護の兵を率いさせて、完成していた大型のガレオン船で現地へと直行したシンイチは既に床から出られない秀吉と久しぶりに顔を合わせていた。


「信一ではないか。来てくれて嬉しいぞ」


 既にそこには、天下人秀吉の姿は無かった。

 ただ死にかけた一人の老人が床に伏しているだけであったのだ。

 

「信一に、秀頼の事を頼みたいのじゃ。頼まれてくれるか?」


 弱々しい手でシンイチの手を握り、残して行く幼いわが子を心配するか弱い一人の老人でしかなかった。


「お任せください」


 シンイチとて、秀吉の死後に再び戦乱となるのはゴメン蒙りたかった。

 早くに日本を秀頼の後見人をしながら纏め、太平洋を日本の庭とするための基礎作りをしたかったからだ。

 結局朝鮮への出兵は止められなかったが、早くに停戦・講和へと持って行き、まずは蝦夷、樺太、千島列島、琉球、台湾、海南島などへの移民と開発を進めつつ、アラスカ、シベリア、アメリカ大陸太平洋側、オーストラリア、ニュージーランド、パフアニューギニアなどが押さえられる基礎を作っておきたい。


 日本を、中華圏に匹敵する大国とする。

 このために、シンイチは舟橋博士にこの時代へと送られて来たのだから。


「信一が秀長に連れられてワシの家臣になったのは、本当に行幸であったのぉ。権六殿や家康殿の家臣になっておったら、ワシはこうして布団の上で死ねなかったかもしれん」


「残念ながら、彼らでは俺をここまで重用してくれませんでしたよ」


 生まれすら良くわからず、それでも能力は十分にあった。

 お互いにそういう境遇であったからこそ、秀吉はシンイチを重用したし、シンイチもその期待に答えたのだ。

 多分、柴田勝家や徳川家康では、出自の怪しいシンイチはここまでの大身にはなれなかったであろう。


「それもそうよな……。すまぬ、少し疲れた……」


 そのまま眠ってしまう秀吉であったが、彼は昏睡と覚醒を繰り返しながら病身を押してシンイチのみならず、多くの大名達を呼んで自分の死後の体制を口述で伝えていく。


 更に、十一箇条からなる遺言書を出して、これに五大老、五中老、五奉行とその嫡子などに連名で血判状を作成して返答させている。

 

 まさに、我が子を思う老親の執念と言っても過言ではなかった。


 そして時は進み、慶長三年(1598年)八月五日。

 秀吉は最後の遺言書を記し、数日後に辞世の句を読んでから安全な昏睡状態に陥り、八月十八日に遂にその波乱に満ちた人生を終える。


 辞世の句は、『露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢 』。

 

 出自すら良くわからぬ下賎の身から信長の下で頭角を現し、その死後に一気に天下を奪い取った彼に相応しい辞世の句であった。

 

 そして、秀吉の代わりに大阪で政務を見ていた毛利輝元と、上杉景勝と、前田利家にシンイチは、秀吉逝去の報を受けて急いで伏見へと向かう。

 

 既にその顔の上に白い布が被さられている秀吉の遺体が安置された室内で、彼らは複雑な気持ちに襲われていた。

 

 秀吉への多大な恩義と、無謀なのは明白なのに誰も止められなかった朝鮮への出兵、秀次事件における理不尽な功臣達の粛清劇。

 

 色々な感情がグルグルと心の中を駆け巡るが、それでもシンイチ達は動かなければならなかった。

 なぜなら、秀吉の残した秀頼はまだ数えで六歳であり、とても政治などを見れる年齢ではなかったからだ。


「色々と決めなければいけない事が多い」


「朝鮮派遣軍への撤退は、これはすぐに行なわないと」


「殿下の葬儀の件もある」


 秀吉が死んでも、差し迫った状況が止まってくれるわけではない。

 

「ささっ、秀頼様」


「利家、輝元、景勝、信一。あとは、任せた」


 横にいる生母淀君に促されて、良くわからないまま名護屋詰めでいない長可を除く五大老に言葉をかける秀頼。

 戦国大名である彼らは、もうひと波乱なければ収まるまいと心の中で覚悟を決めるのであった。

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