二十三話
「さて、これよりお拾は元服して秀頼を名乗る事となる」
文禄五年の九月。
秀吉は、自分の嫡男である拾丸を元服させて秀頼と名乗らせていた。
そして秀吉は、朝鮮にいる諸将は後回しとして、全国の大名に秀頼を次期豊臣家当主として忠誠を誓うという血判状を提出させ、自身の独裁政治ではなく、豊臣政権に、御掟・御掟追加などの基本法や五大老・五中老・五奉行などの職制を導入して秀頼を補佐する体制を整える。
シンイチは少し史実とは違った職制に驚きながらも、秀吉からの話を聞いていた。
「五大老には、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、舟橋信一、森長可を任命し、筆頭は利家殿とする」
本当は小早川隆景も入って六大老とするつもりだったらしいのだが、彼は最近では体調不良に悩まされる事が多く、大老就任は丁重に断られていた。
それと、大老の順位は読まれた順番のままであった。
普通であれば、一番石高の高い信一が筆頭なのであろうが、そこは先の三人に秀吉が気を使ったという事なのであろう。
「続いて、宇喜多秀家、小早川秀秋、結城秀康、島津義弘、伊達政宗を中老に任命し、筆頭は秀家とする」
中老は、史実では半ば名誉職的な物で、生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏が命じられていたが、秀次事件の連座で二人が既にこの世に亡く。
大老を補佐する、実務的な役職へと変化したようであった。
筆頭は、秀吉が幼い頃から傍に置いて一門衆扱いしている宇喜多秀家であり、次席と三番目の小早川秀秋と結城秀康は秀吉の養子であった事もあった。
大老見習いとでも言うのか、外様が多い大老への牽制役としても設定されているようであった。
「最後に、浅野長政、石田三成、増田長盛、前田玄以、長束正家、大谷吉継、宮部継潤、富田一白を五奉行として任命し、筆頭は浅野長政とする」
八人なのに五奉行というのも変であったが、特に意味は無くて語呂合わせに近い物であるらしい。
浅野長政が司法を、石田三成が行政を、増田長盛が土木関係を担い。
前田玄以は京都所司代を兼ねていて、御所・朝廷・公家・寺社などとの折衝という特殊な任を任され、 長束正家も財務という同じく特殊性のある職務を任されていた。
更に、富田一白は外交を主に任され、宮部継潤は鉱山関係を任されていたが、実は彼の下にはあの土屋長安が居て、実質的に全国の鉱山関係の仕事を一手に引き受けている状態であった。
「明との講和は失敗に終わった。此度こそ諸将達に力にて朝鮮を完全に占領する事としよう。次は明を征伐して、秀頼を三国の王としよう」
秀頼を中心とした後継体勢の完成にご機嫌な秀吉は、シンイチを含む多くの大名達の前で自分の夢を語っていた。
だが、長年の何の益も無い出兵に、主に西国の大名達は破産寸前の状態に追い込まれていた。
三成などの五奉行は、西国で重税に苦しみ離散する農民達を捨てられた田畑に戻したり、検地などを行って大名達の収入向上などを行っていたが、それでも焼け石に水の状態でもあった。
それに、シンイチが後見人となって家督を相続させ、立花宗茂に後見役を頼んでいた豊後大友家の当主大友吉鎮が突如秀吉によって改易となり、大和一万石へと減封という事件も発生していた。
これは、吉鎮が文禄の役の時に戦闘で味方を見捨てて逃げ出したからとも、重要な機密を朝鮮軍に漏らしたからとも言われているが、ならばこんな時期に改易などする必要がなかった。
多分、朝鮮の役で次第に悪化する西国大名達に兵糧などを配るべく、豊後を蔵入地としたかったのであろう。
「(殿下は、何か考えておいでなのだ……)」
シンイチは、相変わらず自分には優しく常に配慮を見せるのに、他ではこのような無体な事をする秀吉が理解できなくなっていた。
それでも、自分は秀吉の一族に入っている人間であり、大老の四番席として政務を執り行う必要があった。
「信一は、長可と交代で関東と東北の方を頼むぞ」
どうやら、シンイチの役割は以前と同じで、関東と東北地方の安定化とその開発。
更には、朝鮮での戦争で兵站を負担するという物のようであった。
「信一、大阪への在番は俺が主に行う。だから、お前は関東に戻って開発を進めて欲しいのだ」
長可は、暫く戦闘に縁が無かったせいなのか?
年を取って落ち着いたという説もあったが、シンイチから様々な書物などを貰って独自に勉強を行い、会津の開発に邁進。
数年で、会津の実高を百万石超えにする事に成功していた。
他にも、まだ売り上げは微細であったが、青芋の量産と織物産業などの立ち上げにも成功している。
他にも、鉱山開発や、製鉄・製塩・酒造業、困窮作物としての雑穀類やサツマイモとジャガイモなどの栽培など開始と、昔の鬼武蔵とは思えないほどの内政家としての実力を発揮していた。
「たまに、うちの領地にも顔を出してくれよ。信一なら、家臣達も大歓迎だろうからな」
「わかりました。一年以上戻っていないので、色々と引き締めを行いたいと思います」
長可と別れの挨拶をしたシンイチは、秀吉に関東へと戻る旨を伝えて大阪から船路で帰路を急いでいた。
「本当に、ガレオン船を作ったのですね」
「これは、そんなに大きくないけどな。だが速度はなかなかのもので陸路よりも早く江戸に到着する」
シンイチは、秀次事件の余波で牢人となってしまった旧臣達を、三成などの奉行衆と相談して多く雇い入れている。
舞兵庫こと前野忠康や、大場土佐、高野越中、牧野成里などの若江八人衆を三成と分割して雇い入れていたのだ。
それと、この四人はシンイチに対して隔意を抱いていない者達であった。
秀次とは徳川家や蒲生家の相続の件で対立していたにも関わらず、男児以外の妻子を救う事に奮闘し、他の大名などの取り成しにも奮起していた事を知っていたからだ。
秀次の生存を諦めて売ったという批判もあったが、シンイチはそれでも自分なりに秀吉と交渉して、一定の成果を勝ち取っている。
三成以外の、他の明らかに秀次とは関わり合いたく無いという大名よりはちゃんと働いていた。
それに秀次の妻子や侍女達も、実家に戻したり、再嫁先や働き先を見つけてあげたり、養子先を世話したりと。
舞兵庫達四人は、シンイチの世間の噂通りの苦労性ぶりに、この人に仕えてみようと考えるようになっていて、八人で半分がシンイチに半分が三成にという結論を出していた。
他にも、横田村詮、野一色助義、朝倉在重、小倉正能、河村吉綱・秀久親子などの旧中村家家臣。
松田左近、五藤為重、祖父江一秀、市川信定、永原一照、乾 和三、柏原新之丞などの旧堀尾、山内家家臣。
他にも、旧池田家家臣なども雇い入れている。
シンイチなりの罪滅ぼしと、やはり人材不足の感が否めないので、常に且元や盛政などから頼まれていたからだ。
「舟橋家は、少し他の大名家とは毛色が違うかもしれないな」
「そうなのですか?」
舞兵庫達を連れて江戸へと戻ったシンイチ達であったが、江戸は多くの人達が集まって賑わっていた。
とりあえず、手間のかかる天守閣などは後回しにして、必要な設備を詰め込んだ江戸城の改築はある程度進んでいて、その城下にも家臣達の屋敷や、兵士達の詰める番所や家族達の住む住居、計画的に並んだまだ外に向かって工事が進んでいる城下町、海沿いではシンイチが開発した事になっている秩父製のセメントを使ったコンクリート港の工事や埋め立てなども進んでいて、他にも道路建設や上・下水道の工事など、江戸中が熱気に溢れていた。
「凄いものですな……」
後半では意見が対立する事が多かったシンイチと秀次であったが、彼はシンイチの行政官としての力量は認めていて、その領地に手を出す事はしなかった。
大々的に開発を進めながら、豊臣家の国庫にノルマより少し多い米や金を入れつつ、朝鮮派遣軍への一部兵站の負担やその輸送任務への貢献などにも貢献。
秀次は良く舞兵庫に、『殿下が、関東を信一殿に任せた理由が良くわかる』と話していたからだ。
「色々とあったし、船旅で疲れただろうから、数日は江戸の町で家族とゆるりと休んでくれ。その間に、任務と赴任地などを割り振るから」
関東では、よほどの重臣でなければ土地を与えられる地方知行ではくて、蔵米知行制へと移行していた。
多くの中級や下級武士達は、米・銭・特産品などを選択して二ヶ月に一度給料として貰い、その中でやり繰りをしていく。
他にも、戦や開発などで功績のあった者には別途で褒美などが支給されるが、これも銭などで済ます事が多かった。
大半は任命された任地に留まっているが、数年に一度移動のある者もいて家族と共に家臣専用の屋敷に引っ越す事もあったし、功績によって昇給して土地持ちになる者もいた。
まだ一部地方などでは、地元の地侍層などの反発を考慮して古い制度を維持している地域もあったが、大半の特に旧北条領などでは意外とスンナリと受け入れられている制度であった。
これによって、関東は急速に開発が進んでいる。
農閑期に農民達に出稼ぎをさせたり、軍は緊急動員時を除いて警備・訓練・工作訓練・休暇と四交代で繰り返して任務を行っていた。
ちなみに工作訓練とは、工事現場で工事をする事である。
他にも、家臣達を教育するためにそれぞれの職責に合わせたマニュアルがあったり、家臣の子供達は無料で教育が受けられたりと、一種独特な統治が行われているのがこの関東地方であり、東北、蝦夷、駿河、甲斐などでも次第に取り入れられつつあった。
北条氏滅亡より僅か五年ほどで、西国などとは違って関東はある種の平和と繁栄を迎えていたのだ。
「殿、お戻りでしたか」
そこに、舟橋家の筆頭家臣である佐久間盛政が現れる。
いくら内政に主体を置いているとはいえ、そこは戦国大名の端くれ。
シンイチは、油断無く軍備の準備も進めている。
盛政が筆頭家臣であり、その差配を任されいる事からして、軍備に手を抜いている事などあり得なかった。
「勝之殿が抜けて余計に人材不足だったけど、何とか新しい家臣を雇って来た」
「おおっ! 若江八人衆の方々ではないですか! 良く来てくれましたね?」
シンイチの取っている特殊な人事制度のせいで、実は大領にも関わらず人材の集まりが悪いのが舟橋家であったからだ。
旧北条系家臣達の一括採用と、小物でも多くの人材を集めて、人を教育するところからスタートする。
雇われてみると、彼らは土地を渡されるよりも収入が安定する事に気が付き、その紹介で人が集まり始めたなどで、ようやく最近は落ち着いている状態であったからだ。
それと、抜けた佐久間勝之の件で会ったが、別に仲違いをしたわけではなかった。
実は、彼は日向を領有して朝鮮にも兵を出している佐々成政の娘を妻としていて、息子のいない彼の後継者候補であったのだが、成政が秀吉と対立していた時にその関係が断絶してしまっていたのだ。
勝之は、シンイチに仕え始めた時に成政の娘と離縁をしようとしたのだが、それはシンイチが止めていた。
『誰の奥さんだから駄目とか、敵になったから離縁するとか。こんな時代に気にするだけ無駄』と、勝之にキッパリと言ったのだ。
それと、自分では嫁さんは紹介できないとも。
何しろ秀吉以上に親族がいないのが、舟橋信一という若者だったのだから。
その話を聞いて、のちに成政はシンイチに感謝したという。
そしてその後、日向の統治に朝鮮への出兵と、次第に年老いていく成政は将来に不安を感じたらしい。
秀吉に依頼して、勝之を後継者として受け入れたいという話になり、彼は佐々成之と改名して日向へと行ってしまう。
シンイチは、内政にも才能のある勝之の離脱に少し泣きそうになっていたが、代わりの人材が沢山来てようやく安堵していた。
「まずは、江戸の町で買い物でもして鋭気を養って欲しい。ここ暫くは暗い空気だったからな」
秀吉の秀次処断は、誰の目から見ても過酷な物となっていた。
シンイチが強硬に反対したおかげで妻や侍女や女児は助けられていたが、まだ五歳にもなっていない男の子四人は三条河原において磔にされて河原の端に埋葬され、そこに側近や秀次付きの家老や宿老達も埋められてから、秀次の首を収めた石櫃が置かれた。
残された遺族達は自分の父や祖父達の葬式すら行えず、しかも領地や財産を一度全て収公されてから、改めて秀吉の家臣とされて以前よりも遙かに少ない領地などを与えられていた。
いや、それはまだマシな処分をされた人達であった。
木村家、堀尾家、中村家、山名家などは、完全に大名としてどころか、旗本としても残る事が出来なかったのだから。
そして、多くの家臣達が路頭に迷う事となる。
ある程度有名で有能な者ならば、他家からの誘いや秀吉からの誘いもあった。
だが、少領であった者達などはその限りではない。
シンイチと三成は彼らの再仕官先を探すのに奔走し、結局かなりの人数を大領を持つシンイチが受け入れている。
さすがに三成の知行では、雇う人数に限界があったからだ。
「盛政、あとを頼む」
「真一殿も大きくなりましたぞ」
「そうか。その内に馬の乗り方を教えてやらないとな」
舞兵庫達の事を盛政に任せたシンイチは、お蘭や他の側室達の待つ奥へと移動する。
「お帰りなさいませ」
奥では、お蘭、虎、咲の三人の奥方と、十二名の子供達からの出迎えを受けていた。
特に子供達は、久しぶりに会うシンイチに次々と飛びついて来て、彼の歩行を困難にしていた。
「お前ら、みんな大きくなって重くなったな……」
今度こそは男の子をともう一回子供を作ってみたシンイチであったが、結果は虎が男の子を産み、その子は真二と名付けられて将来は佐久間家を継ぐ事になっていた。
「父様、お本を読んで」
「父上、真一は馬に乗ってみたいです」
なかなか会えないのでほぼ珍獣扱いのシンチイであったが、彼はそんな子供達のために木製の玩具を作ったり、絵本を書いて、江戸へと送ったりしている。
積み木、組み木パズル、独楽、凧、羽つき、手まり、人形、おままごとセット、木馬、ジャングルジム、滑り台など。
自分で作ったり、職人に設計図を渡して作らせたのだが、その出来の良さに、職人達は量産を行って領内で売り出したり、他領へと輸出するようになっていた。
他にも、クロスワードパズル、迷路、数独、お絵かきロジック、すぐろく、将棋、囲碁、トランプ、チェス、カルタ、百人一首、知恵の輪や、絵本は童話などの粗筋を職人や絵師に渡して作成させている。
一緒にいられないので、せめて玩具や絵本くらいはと思ったからなのだが、少し前に完成品を長可の子供達に贈ったら、『お前、これで生活できそうだな』と言われるほどの種類の多さと出来の良さであった。
「子供達のためにも、これからも頑張らないとな」
「旦那様、大阪の事はあまり気にしないでください」
お蘭はねねの親戚であり秀吉の養女であったが、さすがに今回の件では付いていけないものを感じているようであった。
「旦那様が気に病んでも、今の殿下は誰にも止められません。今は、大阪から離れられたのを良しとしないと」
「そうだな……」
「実家からも手紙が来ていました。まさか、菊亭晴季様や土御門有脩様までもが処罰されるとは……」
咲は、公家衆達の間でも秀次粛清の余波で大混乱していた事実をシンイチに伝える。
公家は固有の武力を持っているわけでもなく、ただその古来からの教養や文化を伝え、天皇を補佐する立場にある権威のみを武器とした存在である。
秀吉が、その公家達に不信の芽を植えてしまった事は、彼には影響がなくてもその子供である秀頼に将来仇を成す可能性があった。
シンイチとしては、秀吉死後も何とかして秀頼を支えて政権を運営して行きたかった。
シンイチが加わった影響なのであろうか?
史実では豊臣家を滅ぼした徳川家康は、不運にも朝鮮半島で病死してしまい、その後は家督相続で家を三つに割ってしまっている。
なので、今のところは豊臣家を潰そうとする者は現れないであろう。
シンイチはそんな事を考えつつも、妻達と話をして子供達とも出来る限り遊んであげる。
翌日からは、引き連れて来た新しい家臣達を元々仕えていた大名家ごとに変な派閥を作らないように関東各地に赴任させ、溜まっていた書類を整理しながら、領内を見回って新たな開発や改めるべき部分を指示していく。
ここ数年、関東地方は大した戦乱などもなくドンドンと開発が進んでいる状態であった。
朝鮮半島に兵力を出していないので、多くの食糧・物資・武器弾薬・金銭などを供出しているが、領内の経済力や生産力が右肩上がりなので餓死者や逃亡者などは発生していなかった。
むしろ、最近ではどうやって来たのか?
西国から逃げて来た農民達に、新しい開拓地を与えている有様であった。
大量の兵員の動員と経済的負担で、西国の大名達は多くの税や兵役を領民に課し、それに耐え切れないで逃げ出す者が増えていたのだ。
シンイチ達が収めた分だけでは、さすがに全軍を養う事は不可能であったし、豊臣家側はどういうわけか自家の財産などは年々増やしているのだが、朝鮮半島に兵士達を出している大名にはなるべく自己負担をして貰うように食糧などを補給している。
もはや、彼らの財政状態は限界ギリギリと言っても過言ではなかった。
「色々と考えても仕方が無い。今は、出来る事をするしかない」
ようやく関東へと戻ったシンイチは、ただひたすらに国力の増強と軍と家臣団の編成に当たるのであった。
もはや、それほど長く生きられない秀吉の死後に何があっても良いように……。