二十二話
「秀次様! あなたは、一体どうなされてしまったのです!」
文禄四年の五月。
やはり、あの事件は発生していた。
亡くなった豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が、大和十津川で変死を遂げたのだ。
公式には死因は疱瘡の悪化とされるが、秀保の後見役の藤堂高虎は十津川に遊覧に出かけたところ、小姓が秀保に抱き付き、共に高所から飛び降りて転落死したのを目撃している。
この秀吉の甥で秀長の跡を継いだ秀保は、いくら高虎が補佐をしても先に亡くなった二代目秀勝よりも暗愚であり、どうやら多くの人達に恨みを買っているようであった。
でなければ、小姓が一緒に心中する覚悟で主君を殺害するはずがないからだ。
そして、再び当主を失った大和豊臣家の後始末を巡って、秀行の補佐で畿内にいたシンイチは、再び秀次と対立する事となる。
シンイチとしては秀次とは和解したいのだが、秀次はシンイチが秀吉の手先で、自分を殺しに来る存在だと思っているので、双方の和解は既に不可能な状態になっていた。
「仙丸殿が、跡を継げば宜しいではないですか」
シンイチは死んだ秀保の後継には、秀吉が丹羽家との融和のために秀長の養子にしていた丹羽長秀の三男である、現在は藤堂高虎の養子になっている藤堂高吉に跡を継がせるべきだと意見を述べる。
生前の秀長は、この優れた才能を持つ養子を愛し、自分の娘を嫁がせて自分の後継者にしとうとしていた。
ところが、秀吉は甥の秀保を秀長の跡継ぎにしようとして、仙丸を跡継ぎにしようとした秀長と対立してしまい、それを抑えるために高虎が彼を養子にしていたという事情があったのだ。
だが、こうして秀保も死んで他に適当な後継者もいない以上、シンイチは今度こそ秀長の意思に従って仙丸を後継者とするように秀長に献策する。
「秀保様の喪が明けてから、正室でいらっしゃった秀長様のご息女である、おきく様と再婚していただくという事で」
「しかし、仙丸は豊臣の血を引いておらぬ」
「ですから、それはおきく様とのお子に期待をして」
「おきくが、子を産まなければ? どこぞの側室しか子を生まないで、豊臣の血が無くなるのは勘弁だな」
結局、この件でもシンイチの意見は採用される事はなかった。
それに、それからすぐに秀吉が大和豊臣家の断絶を決めてしまったので、シンイチとしてはこれ以上の意見は出来なかったのだ。
それと秀次も、別に自分の叔父であった秀長が初代を務めた大和豊臣家の廃絶を狙ったわけではない。
秀保と時と同じように、親戚筋から誰か男子を連れて来ようとしていたのだ。
候補としては、ねねの実兄である木下家定の子供の誰かを考えていたが、これは結局秀吉が大和豊臣家の断絶を決めてしまったので、秀次も今回は自分の思う通りに事を進める事が出来なかった。
もはや、この二人の関係は行き着く所まで行ったのかもしれない。
「……」
そしてシンイチは、大和郡山城内で秀保の葬儀に参加してから数年ぶりに秀長の墓にお参りをしていた。
「暫く来れないで申し訳ありませんでした。秀長様、私はただ無力です……」
秀次の悲惨な最期を知っているので、彼と上手く付き合ってその悲劇を防ごうとしても彼の方から拒絶されてしまい、せめて恩人である秀長の大和豊臣家の存続を願っても、それも一蹴されてしまう。
家族や家臣達との関係は良く、関東や東北地方の開発は順調に進んでいるが、それが余計にシンイチの精神にダメージを与えていた。
「いらしていたのですか? 信一様」
「高虎殿ですか。貴殿も、色々と大変でしたな」
後世では色々と主君を変えたせいで一部で評判が悪い藤堂高虎であったが、彼も秀保の死と大和豊臣家の断絶にショックを受けている中の一人であった。
何回か主を変えて、ようやく秀長という理想の主君を見付けたのに秀長は病死してしまい、その後継者である秀保の後見役として頑張ったのに、彼も公には言えない理由で死んでしまった。
実際に、彼の表情には絶望の二文字が浮かんでいた。
「それがしは、出家しようと思うのです……」
実際に史実でも、その才能を惜しんだ秀吉に召喚されるまでは出家して高野山に篭っている高虎だったので、その目には本気と書かれているように見えるシンイチであった。
「大和は、増田長盛殿などが継がれるようですね」
増田長盛は大和国郡山城二十万石の所領を与えられる事になり、高田一英、浅井井頼ら大和豊臣家の旧臣の多くは長盛が召抱える事になっていたが、高虎はそれには入っていなかった。
「『関東に来ませんか?』と言っても駄目でしょうね?」
「申し訳ありません。今はただ、秀長様と秀保様の菩提を弔いたいのです」
シンイチの勧誘は、高虎によって断られてしまう。
「でしたら、高吉殿はどうですか? 共に付き合わせて出家させるには若過ぎると思いますが」
丹羽長秀の三男として生まれ、その才能を秀長に愛されたにも関わらず秀保に後継者の座を奪われて藤堂高虎の養子となった高吉であったが、その高虎ですら後年には遅くに生まれた実子に家を継がせるべく彼を冷遇してしまっている。
シンイチは、そんな可哀想な事になるのであったら、優秀な彼を自分の家臣にしてしまう事を考えていた。
「高吉をですか?」
「ええ、なかなかに優秀な若者とか? うちは常に人手不足ですので、一万石を出します」
「そうですね。まだ若い高吉を私に付き合わせるのは酷ですね……」
その後、高虎は史実通りに秀吉によって召喚され、伊予板島七万石の大名として復活し、後の始まる慶長の役にも水軍を率いて参加して戦功を挙げる事となる。
だが、高吉はそのままシンイチの元に留まり続け、後に藤堂家の別家を立てる事となるのであった。
そして、運命の文禄四年(1595年)の七月三日。
、聚楽第で政務を執っていた秀次の元へ、石田三成、前田玄以、増田長盛、宮部継潤、富田一白の計五名が訪れ、秀次に対し高野山へ行くように促す。
その理由は、秀次が謀反を企んでいるという物であった。
その他にも、秀次は比叡山での鹿狩りを行ったり、罪の無い人々を辻斬りで多数斬り殺したり、多数の妻や愛妾を囲って性風紀を乱したりと、そのほとんどが事実無根の言いがかりに近い物であり、その弁明を行おうと伏見城へと赴くも、福島正則に阻まれてしまう。
なぜなら、秀吉は最初から秀次を生かすつもりなど無いのだ。
自分の息子である拾丸の豊臣家相続を確定させるべく、自分が老いで死なない内に、秀次の排除をしようと決定していたからだ。
だが、それでも諦めずに石田三成は奔走していた。
秀次が、無実の罪で殺されるのを黙って見ていられなかったからだ。
先に秀次に高野山に行くように命令したのは、これは己の職責を果たしたに過ぎず、本当は秀次を処罰などしたくなかったからだ。
三成は、秀次の突然の出家に動揺する家臣達とも連絡を取り合い、秀吉は勿論、前田利家や上杉景勝などにも相談しながら、処分の撤回を求めて走り回る事になる。
だが、大半の大名達は既に秀次を見限っていた。
秀吉に消されるとわかっている彼を庇う危険性を、戦国大名である彼らは十分に理解していたからだ。
心情的には秀次に同情していたが、だからと言って己の家と領地をかけてまで秀吉に直訴する気持ちはサラサラ持ち合わせていなかったのだ。
そしてシンイチは、こうなる事を見越して公務であると称して伏見近くに滞在していたのだが、そこに三成が現れる。
「信一殿。秀吉様に、何とか秀次様の無実を認めて貰う方法は無いものでしょうか?」
「三成殿、今さらそんな事を言っているのか?」
シンイチは知っていた。
秀吉が、絶対に秀次を許さない事を。
なぜなら、彼は恐れているからだ。
絶対に自分は拾丸の成人まで生きておらず、もし秀次が自分の死後に幼い拾丸を殺して権力を奪い去ったら?
それを考えると夜すら眠れず、しかも既にここまでした秀次を許すくらいなら、最初から彼の心を動揺させてしまうこんな真似はしない方が良いのだから。
秀吉が、秀次を殺す事は決まっている。
シンイチは、せめてそのとばっちりで死ぬ人を減らすくらいしか、自分には出来る事がないと思っていた。
「拾丸様が成人するまでは、秀次様が後見を行う。下手な事をしたら、あなたも私達もいます。なのに、なぜ殿下は……」
「そうだな。俺や三成殿なら、拾丸様をお助けして豊臣政権を安定した物へとする努力はするさ。だがな、秀次様は愚かな事をなされた」
「徳川家や蒲生家の件ですか?」
「いや、それは俺が個人的に怒っているが、一応は正式に関白殿下がお決めになった事だからな。こちらとしては、受け入れるしかないのだ。そうじゃない。秀次様は露骨に人を集め過ぎたのだ。困窮する大名に個人的に金を貸し、その娘を側室として受け入れ、私的な交友を結び。わかるな? 三成殿」
もし、彼らが秀次を立てて天下を狙うとしたら?
秀吉にとっては、秀次は生きているだけで危険な存在成り果てていた。
「……。それでも、私は諦めません! ここで秀次様を失えば、せっかく纏まりかけた豊臣政権が致命的な傷を負ってしまいます!」
「……。伏見に行く」
「殿下を説得してくれるのですか?」
「期待はしないで欲しい……」
とは言いつつも、結局三成の熱意に押されて、秀吉に対して秀次を罰しないようにとお願いをする羽目になってしまったシンイチであった。
「駄目じゃ! 受け入れられん!」
「左様ですか……」
シンイチは、この秀吉のこの一言で諦めていた。
普段はニコニコとした表情でシンイチと話す秀吉が、秀次の件になると鬼のような形相になっている。
これ以上の説得は、危険だと理解していたのだ。
「そもそも、信一は秀次と対立していたではないか」
「それは、政策に関する意見の相違としか言えませんし、そこで感情的になるのもどうかと思いまして」
シンイチは、秀次が謀反を企んでいる件などについては何も言わなかった。
それが言いがかりである事など、秀吉本人が当に承知していたからだ。
それよりも、問題は秀次をどう死なせるかにある。
打ち首とするのか? 自分で腹を切らせるのか?
それに、彼の家族や、付けられている家臣達などへの処罰もであった。
シンイチは、釈明に来た秀次を追い払った福島正則も加えて、秀次に下す処分などの詳細な内容を話し始める。
いかにも卑劣な事をしているような気もするが、シンイチとて万能の神ではないし、背負っている物も大きいので、ここで下手に秀吉の勘気を喰らって処罰されるわけにはいかなかったからだ。
「腹を召していただきましょう」
「それがしも、信一殿の意見に賛成です」
昔は気性の荒そうな若武者であった正則は、今では貫禄もついて立派な大名になっていた。
世間のイメージでは武芸だけの端武者なイメージのある正則であったが、実はこのように政治的な流れにも対応できる、清正にも決して劣らない人物であったのだ。
「信一よ。何かあるか?」
「こうなった以上はただ一つだけ。秀次様のご家族には累が及びませんように」
「秀次には、四人の男児がおったな?」
秀吉はギロリとシンイチを睨み、その答えに注目していた。
「男のお子達は、可哀想ですが斬るしかないでしょう。ですが、妻妾は実家に帰せば済む問題ですし、女児はいずれ他所の家に嫁に行きます。これらを斬っては、殿下のご威光に傷が付くかと」
通常、武士で一族皆殺しとなるのは城攻めなどの戦の時くらいであった。
なのに、秀次の処罰と合わせて妻子などを処刑したら、それはせっかく平和になった畿内の民達を動揺させるだけであり、つい最近まで乱世であったこの時代の倫理観と社会常識から合わせても悪逆非道と謗りを受けない行為であった。
シンイチとしては、秀次の処断が避けられない情勢となった今は、いかに豊臣政権へのダメージを減らすかだけを考えていたのだ。
秀次と側近と、子供は男子だけ。
後は、いかに犠牲者を少なくするかでシンイチは奔走する事となる。
それでも、豊臣家の中では唯一とも言ってもよい成人した親族で、しかも諸大名にも人気があり、最低限必要な能力も持っていた秀次の死は、豊臣政権に大ダメージを与えるはずであった。
「長康殿。ここは涙を飲んで、秀次様を庇いたてるのは止めてください」
「信一よ。お前の言いたい事は良く理解できる。だが、ここは例え処罰される事になっても、秀次様を弁護するのが武士としては正しい道であろう」
だが、前野長康・景定親子も、木村重茲・高成親子も、その他の家臣や側近達も、秀次を擁護する事を止めなかった。
ただ、残された家族の事をシンイチに頼んでから、堂々と秀次の弁護を行い、秀吉の勘気に触れて賜死となっていく。
一方、石田三成の運動も効果を出していなかった。
秀次の謀反への関与を否定する事には成功していたが、結局彼の命を救う事が出来ず、七月十五日に秀次は雀部重政の介錯により切腹。
これに、東福寺の僧・玄隆西堂、山本主殿、不破万作、山田三十郎が続いた。
しかも、切腹をしたのにその首は三条河原に曝され、妻達や女の子供達はシンイチが強硬に秀吉に掛け合ったので助けられたが、仙千代丸、百丸、於十丸、土丸などの男児は同じく三条河原で磔に処される事となった。
そして、更に処刑の連鎖は続く。
秀次への補佐を怠ったという理由や、彼を弁護したせいで多くの側近や宿老級の大名に腹を切るようにと命令が下ったのだ。
先の前野長康・景定親子に、木村重茲・高成親子、羽田正親、服部一忠、渡瀬繁詮、明石則実、一柳可遊、粟野秀用、白江成定、熊谷直澄など。
更に、史実とは違って間の悪いというか、シンイチの反対で秀次の妻達が助けられた件でストレスが溜まっていたのか?
滝川雄利・正利親子、中村一氏・一忠親子、中村一栄、堀尾吉晴・忠氏親子、山内一豊、徳永寿昌などの、本来であれば逃げられたはず者達まで改易・賜死に処される事となる。
「そんな、バカな……。三成殿」
「私も、こんな話は聞いていません……」
三成ですら驚愕した大名達への粛清劇は、久々に自らが動いた秀吉自身の手によって行われる。
彼らは全員が例外なく腹を切らされ、家族への累はシンイチと三成が懸命に止めて避けられたが、多くの所領が豊臣家の管理に入り、残された家族や家臣達は秀吉直臣へと再編成されていく。
とにかく、少しでも秀次に関わっていた物を全て消し、それらの持っていた領地・財産・人材などを一旦自分に集めて、後に拾丸に与える意図が明白であった。
そして、やはりこの人物も処罰の対象となっていた。
「池田長政に切腹を命じ、池田家の所領は全て没収とする!」
後半に、厭らしいまでに秀次に接近していた池田長政は、やはり秀吉の勘気に触れて腹を切る羽目になっていた。
確かに、徳川騒動や蒲生家の転封に際しては、シンイチが嫌悪するほど秀次に擦り寄り、大した功績も無いのに領地を増やしていたので、秀吉の目に止まってしまったのであろう。
こうして史実では、江戸時代に外様大名としては破格の待遇を受けていた池田家は廃絶する事となる。
ただ、徳川家康との戦いで戦死した兄元助の子である由之、元信兄弟は秀吉の直臣としてそれぞれに五千石を与えられる事となる。
他にも、改易されたり、流罪となった者も多かった。
秀次の実父である三好吉房や、六角義郷、木下吉隆、浅野幸長、増田盛次、前野忠康、菊亭晴季、土御門有脩など。
武家だけではなくて、公家や里村紹巴が蟄居処分となって文化人などにも累は及んでいた。
そして、秀次やこれらの人達が大半を担っていた国内政治が滞る事となり、その分三成やシンイチに大きな負担がかかっていく事となる。
シンイチは、関東や東北の事を家臣達に任せならがら、石田三成、長束正家、増田長盛、前田玄以、浅野長政などと共同してこれらの処理に当たって行く。
だが、自分の子供達が流罪に処せられている長盛と長政に全力を求めるのは酷であろう。
その負担は、他の者達へと行く事になる。
「信一殿、関東は大丈夫なのですか?」
「三成殿は、お父上や兄上達が優秀な内政官で羨ましいですな。うちも、旧北条系の家臣達のおかげで助かっていますが」
シンイチは、三成に『与えられた領地が関東でかえって良かった』と話しながら、秀次ぐ事件後の処理に奔走する事となる。
世間や、池田家の関係者、秀次の旧家臣達の一部から一見すると秀吉に膝を屈して媚びたように見えるシンイチへの批判が出ていたが、そうは言いつつも彼らも理解はしていた。
秀吉が、既に関白であり多くの支援者もいた秀次の権勢など一瞬で吹き飛ばすほどの独裁者であり、彼に逆らう事がどれだけ危険なのかをだ。
彼らは、絶対に批判できない秀吉を敢えて避けて、シンイチや三成を非難する事で心の安定を得ていた。
それに、秀次の妻、女児、侍女達を救った影響で、余計に多くの家臣や関係者達が処罰された可能性がある事など言っても、彼らは信じてもくれないであろうし、シンイチも言うつもりもなかった。
そして、その忙しい間にもシンイチを尋ねる大名が増えていた。
実は、秀次は相次ぐ出兵や普請への負担などで困窮する多くの大名達に多くのお金を貸していた。
もし、自分が秀次に金を借りているという事実が暴露されたら?
既に秀次から離れていた『仏の茂助』とまで言われていた堀尾吉晴や、律儀者として有名な秀吉の旧臣中の旧臣である山内一豊までが腹を切らされた事実に、彼らはただ震撼して秀次との関係を否定しようと必死になっていた。
「信一殿、駒をお救いいただき……」
「しーーーっ! そんな余計なお礼はいらないのです! 駒姫と秀次様との婚約など無かったのです。いいですか! 駒姫は領地に戻していつもと変わらない生活を送らせるのです。ずっと、駒姫は山形城にいたのです」
シンイチは、もし秀次の妻子達が救えない事態となっても、最上義光の娘である駒姫だけは救おうと思い、最初に匿っていた。
彼女はまだ秀次へのお披露目が済んでいないので、正式には側室にはなっておらず、その存在確認が一番遅かったので早めに手を打っていたのだ。
シンイチの行動に、駒姫を可愛がっていた最上義光は大喜びでお礼に来たのだが、シンイチは頼むから騒がないで欲しいと義光に頼んでいた。
「此度のお礼に、駒を信一様の側室に……」
「頼みますから、駒姫は二~三年大人しく静かに花嫁修業でもさせていてください! 俺の側室とか騒ぎを大きくしないで、義光殿の家臣にでも嫁にやってください!」
そう言って義光を追い出したシンイチであったが、そこに更なる爆弾が訪れる。
どういうわけか秀次と仲が良く、一緒に狩りなどにも出かけていた伊達政宗であった。
「色々と、周囲が騒がしくなって来ましたな」
「政宗殿、弁明なら自分でやってくれ。政宗殿ならヘマを打つ事はしないと思うが、念のために口添えはする。それと、利家殿と景勝殿にも取り成しを頼んでおくように」
「上杉家はなぁ……。安全のためには仕方がないか……」
「上杉家は、困ったから助けて欲しいと本気でお願いすれば、案外聞き入れて貰えるはず」
伊達政宗に、弁明の前には前田利家や上杉景勝にも取り成しを頼んでおくように忠告するシンイチであった。
更に他にも数家の大名家への取り成しを頼まれるシンイチであったが、ここにあの人物も予想通りに現れる。
細川幽斎の息子にして、丹後宮津城主細川忠興の重臣である松井康之であった。
細川家は、以前に秀吉の会津への転封命令を拒絶してから加増の沙汰がないにも関わらず、相次ぐ戦への出費で困窮して秀次からかなりの借金をしていたからだ。
とにかく、これを急いで返さない事には秀次との謀反連座の疑いを晴らす事は出来ない。
そこで、各大名に借金のお願いをして回っていたのだが、大阪詰めの大名で財政状態が良好な者などほとんど存在しなかった。
特に、朝鮮出兵で兵士を出している大名家に余裕がある者など存在しなかったのだ。
「というわけで、何とぞご用立ての方を……」
史実では、これは家康に頼む事となるのだが、既に家康はこの世にいない。
しかも、前田利家はちゃんと蓄財をしていたにも関わらず、この場に金が無いと断られてしまったらしい。
シンイチは、大物なのにどこか抜けている利家に呆れるばかりであった。
「とは言いつつ、実は俺も持ち合わせが無いが……」
シンイチは、硯と筆を取り出すと一通の手紙を書き始める。
「これを持って、大阪に行ってください」
シンイチは康之に、手紙を持って自分が良く取り引きをしている商人の屋敷へと向かうように指示する。
「その手紙を見せれば、金は用立てて貰えるはずです」
「かたじけない。必ずお返ししますので」
「ちょっと、待ってください! 俺と細川家との間に金の貸し借りなんて存在しないんです! 康之殿は、細川家が売った名物の代金を受け取りに行っただけなんですから!」
シンイチが細川家に金を貸した事実が知れたら、下手をすると自分まで処分されてしまう可能性があった。
なので、これはあくまでも細川家が売った名物の代金を康之が受け取りに行くだけというシナリオにしたシンイチであった。
「その手紙は、絶対に他人には見せないように。相模屋伝兵衛殿は口が堅いから向こうからは漏れないはずなので、康之殿も忠興殿も不用意に口にしないでください」
「わかりました。感謝いたします」
その後もシンイチは、文禄四年が明けるまでは秀次事件の後処理で京都や大阪を走り回る事となる。
これも、秀吉の思惑通りなのか?
多くの大名達が改易・賜死となって多くの所領が豊臣家へと収公され、彼に近しい人物へと加増されたりしている。
主なところでは、尾張清洲二十四万石の福島正則や、福島正則が抜けた伊予には加藤嘉明が、処罰された中村一氏の旧領には、出家して高野山に篭っていた藤堂高虎に与えられていた。
他にも、池田長政が消えた越前では大谷吉継が十万石へと加増し、糟屋武則が播磨に二万石、平野長泰も大和に一万五千石、石田三成も近江佐和山に二十二万石、長束正家は近江水口に五万石を有している。
秀吉は、畿内に蔵入地と股肱の家臣達を用意周到に配置して、後継者である拾丸を厳重に防御するつもりのようであった。
「さて、これよりお拾は元服して秀頼を名乗る事となる」
年が明けて文禄五年。
一時休戦となっていた朝鮮との戦争はいまだに膠着状態が続いていたが、既に自分の残り人生が少ないと感じていた秀吉は、嫡男である拾丸を元服させて秀頼を名乗らせる事となる。
だが、いまだに秀次粛清のダメージは消えず、畿内には不穏な空気が流れるのであった。




