十七話
「お久しぶりです。殿下」
「おおっ! 此度は大活躍であったな。さすがは、ワシの義息なだけはあるわ」
関東地方を有する北条氏攻めは、以前の常識を覆す戦いでもあった。
緒戦で北条氏の本拠地である小田原城までの道を打ち破ると、そのまま小田原城を大軍で囲み、石垣山に城を作らせたり、主だった諸将などに別邸を立てさせたり妻妾を呼び寄せさせたりと、今で言うところの心理戦を展開する。
実は六月に入ると、豊臣軍の兵站を担っていた長束正家が忍城攻めをしている石田三成の副将としていなかったために、兵士の中で乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになったし、五月には秀吉がその才能を認めて重用していた『名人久太郎』こと堀秀政が戦没するなどの不運もあったのだが、北条方はそれ以上に追い詰められていて、戦況を覆すまでには至らなかった。
何しろ、ほとんどの支城が落とされて領土が占領されているのだから、当然といえば当然でもあった。
それに、北条方もただ静かに篭城を続けていたわけではない。
南常陸の江戸重通や南方三十三館の国人衆の蠢動や、南下野の那須資晴、壬生義雄らの蠢動に、上総・安房の里見氏の暴走と。
里見氏の北条憎しの感情と、全盛期の頃の下総領有の野心を利用して、彼らを暴走させた手腕は見事なものと言えよう。
その分、シンイチが非常に苦労する事となったのだが……。
とにかく、これで北条氏も滅亡という事になり、他にも東北地方の各大名なども次々と小田原に参陣して所領を安堵されたり、逆に来なくて没収されたりと、シンイチが小田原にいない間にも色々と悲喜交々な話があったようであった。
一番有名なのは、一番の遅参を行って切り取ったばかりの旧蘆名を没収され、一時は百五十万石に迫る領域を実質支配していたにも関わらず七十二万石にまで減封となった伊達政宗であろう。
実は、まだシンイチは直接に会った事は無かったのだが。
「ところでの。これから、関東と東北地方への仕置きを行うのじゃが……」
「北条氏は、滅んでしまいましたからね。分配するのも大変でしょうね」
史実であれば徳川家康に与えられた旧北条領であったが、今の彼は秀吉に負けて三国を安堵されている普通の家臣でしかない。
なので、変に気を使って彼に大領を与える必要は無かったのだ。
だが、この関東は治めるのが非常に難しい土地である。
滅んでしまったが、北条家は極めて効率的な統治システムを有していたし、領民には善政を敷いてその評判も高かった。
下手な人物に任せると、再び関東騒乱という事態にもなりかねなかったのだ。
「相模・伊豆・武蔵・下総・上総・安房・上野・南下野・南常陸。一部、本領を安堵した大名などもいるが、残りは全部お前に任せる」
「えっ! 私がですか!」
伊予一国から、史実の家康をも超える大領土への転封にシンイチはただ驚くばかりであった。
「関東と、東北。共に、抑えたばかりでこれからも不安定な状況は続こう。それを抑えるためのものじゃ。本当は、久太郎と半分ずつ任せようと思ったのじゃがな……」
史実でも、秀吉は最初は家康ではなくて掘秀政を関東に転封させようと考えていたらしい。
だが、彼は史実通りに病死していたので、その話は完全に流れていた。
「殿下よりの大幅な加増に、私は感動の言葉すら出てきません。必ずや関東を安定化させますゆえに」
「そうか。期待しておるぞ」
自分ために懸命に働きつつも、一度も加増して欲しいなどと言って来ないシンイチであったので、秀吉は少し安堵した表情を見せていた。
それに、大幅に加増とは言っても、善政を敷いた北条氏を慕う関東の民達の統治に、これから本格的な仕置きの実務作業が始める東北地方への押さえと、決して良い話ばかりでも無かったからだ。
「ところで、一つ良いですか?」
「何じゃ?」
「南常陸なんですけど、佐竹家から文句が出ませんか?」
佐竹家は、常陸一国を安堵という条件で秀吉に臣従して兵を出している。
いくら緊急事態だったとはいえ、シンイチが指揮していた別働隊の指揮官である森長可が南常陸を完全に占領しているだけも彼らの神経を逆撫でさせているのに、今度はその領有権が自分に行くという話に、シンイチはかなり不安を覚えていたのだ。
「とはいえ、実質支配しておらぬからな」
「ですが、南常陸二十万石で佐竹家が忠実になるのなら安い物だと思いますよ。返してしまいましょう」
「お前の実入りが減るぞ」
「表面上の二十万石程度で、常陸五十五万石を反豊臣には出来ません」
「お前は本当に欲がないの。わかった、南常陸は佐竹家に返そう」
「それに、いくら鬼武蔵が殺しまくったとはいえ、南常陸は不安定な土地ですよ。俺は、関東の事で手一杯です」
とはいえ、その後の調整でシンイチには関東の大部分が与えられる事となり、その他の大名への領地の調整なども行われる。
今回の北条攻めで大活躍した徳川家康には、旧北条領の中から駿河に属する領地と南信濃から十万石ほどが加増され、越後の上杉景勝は越後、佐渡、出羽庄内三郡、信濃川中島四郡の合計九十万石が確定していて、既に上野の領有は放棄している。
葦名氏を滅ぼした伊達政宗であったがその旧領は没収されていて、一部越後は上杉家に返され、佐竹義重・義宣親子は常陸一国を安堵する代わりに、一部下野にまで広げていた領地を返す事になっていた。
その結果シンイチは、伊豆、相模、武蔵、安房、上総、下総、上野、下野などの大半を領有する事になり、同時に東国の責任者ともいうべき地位に任命されていた。
下総結城城十万石の結城晴朝、下野宇都宮城十八万石のの宇都宮国綱、北条攻めの原因となった上野国名胡桃城などの東上野の一部は真田昌幸に返還されていたのでこれらは除くが、それでも三百万石近い領地がシンイチの物になった事になる。
秀吉に仕官してから僅か十七年目の快挙であった。
「殿下、相模は豊臣家の蔵入地としますので」
「それは、すまないのぉ」
大領を得るという事は、明日の猜疑心を生む事になる。
そう考えたシンイチは、相模を豊臣家の蔵入地とする事を秀吉に伝えてから、色々と考え込みながら小田原城を後にする。
伊予から洗い浚い家臣を連れて来ても数が足りないし、ただ闇雲に牢人などを集めても後の反乱や騒乱の元になる。
それでも、旧北条家臣などから人材を募るしかなかった。
高野山行きが決まっている北条氏直とそれに随伴する人員を除き、牢人になるのが確定している人材を次々と集めて行く。
大道寺直次、小笠原康広・長房親子、太田輝資、松田直長、松田康郷、石巻康敬、清水太郎左衛門尉、内藤直行、垪和康忠、山角定勝、伊東政世などをかなり強引に誘って雇っている。
有名な武将である御宿政友、水軍を率いていた梶原景宗、北条家の諜報を担っていた風魔小太郎、石田三成がその居城を落とせなかった成田氏長・長忠兄弟などは、一万石以上の禄で雇おうと考えて、後にこれらの案は実現する事となる。
そして、東北地方においての領地割も確定していた。
伊達政宗から没収した旧葦名領会津四十二万石は、なぜか肥後から森長可が転封される事となる。
表面上の石高を見ると実質減封のような気もするのだが、なぜか長可は喜んでこの転封話を受けていた。
『つまり、この地にはまだ殿下の威光が理解できない連中がいるって事ですよね? 精強な東北勢との戦いが楽しみですな』
長可は、まるで隠す事なく自分の欲望を語り、勇んで家臣団を連れて会津黒川城に入り、戦と統治の準備を始める事となる。
勿論それは、もう少し先の事であったが。
そして、改易された大崎義隆、葛西晴信の旧領三十万石には、光秀の家臣であった木村吉清が任じられている。
五千石から三十万石という、倍率で言えばシンイチよりも大出世であった。
そして、長可と双璧と謳われる蒲生氏郷であったが、彼は史実とは違って越前に転封となっていた。
なお、以前のこの地を有していた丹羽家ではあったが、秀吉の天下統一に協力して越前と加賀二郡を領有していた先代長秀が死んで、息子の長重に代が変わると、越中討伐の際に家臣の中に佐々成政に内応した者がいるという嫌疑で越前を召し上げられ。
九州の役の際にも、家臣の狼藉を理由に若狭を取り上げられ、わずかに加賀松任(現白山市)四万石の小大名に成り下がってしまう。
小田原の役での勲功で、加賀国小松十二万石に加増移封されたが、これらの流れは明らかに丹羽家に領地を与え過ぎたので、それを是正する処置だったのであろう。
それと、長可の抜けた肥後は史実通りに加藤清正と小西行長に。
シンイチの抜けた伊予は、福島正則、生駒親正、中村一氏に分割して与えられている。
小田原から宇都宮へと移動してこれらの沙汰を伝えた秀吉は、関東の統治と東北への後詰はシンイチに、奥州安定化の仕事は会津の新領主である森長可と、浅野長政を筆頭とする奥州仕置軍に任せて大阪へと帰還する。
奥州仕置軍は、政宗の案内により八月六日に白河に到着し、その後は抵抗した葛西氏を退けながら八月九日には会津黒川城に入り、秀吉の天下統一の総仕上げはここに完了したのである。
勿論、これで平穏に終わるはずもないのだが、シンイチとしてはそれを他の人に教えてあげるわけにもいかず、それに自分の仕事も沢山あって忙しかったので、急いで関東統治の準備を始めるのであった。
「うーーーん、まだ家臣が全然足りないな」
シンイチは、関東に入ると小田原と江戸の二ヶ所に拠点を設置し、将来的には江戸の方に本拠地を築くと宣言して自分は江戸に、五万石に加増した片桐且元と、その弟である三万石に加増した片桐貞隆を置いて、同時に蔵入地である相模の管理を任せる事にする。
そして、佐久間盛政には十万石を与えて舟橋軍全軍の指揮を任せ、その弟である安政は七万石を与えてその補佐を。
領内統治などにも才能を持つ、柴田勝家に愛された元養子である勝政には、同じく七万石を与えて領内統治の責任者とした。
他にも、三万石に加増した河野通直を勝政の下に置き、旧河野家家臣などや旧北条家家臣なども次々と登用していく。
水軍を率いる来島通総と得居通幸は、本来で言えば秀吉の直臣扱いではあったのだが、小田原の役で北条方の水軍衆が潰滅していたので、これの再建のために二人を安房一国を転封し、他にも関東各地の港や造船所の整備・拡張や、以前から大阪などで始まっている鉄砲や大砲などの兵器工廠や大型ガレオン船建造のための仕事を任せる事にする。
更に、残存する旧北条・里見水軍を再編と、一部完成した新造船などの訓練や、豊臣家や舟橋家が直接に行う遠隔地との貿易など。
梶原景宗などの旧北条水軍の武将にも、これらの仕事を任せる事にしていた。
ちなみに、関東の統治については北条家家のシステムを応用して使う事にしていた。
早雲以来、直轄領では日本史上最も低いと言われる四公六民の税制を敷いていたし、代替わりの際には大掛かりな検地を行うことで増減収を直に把握していたし、段階的にではあるが在地の国人に税調を託さずに中間搾取を排除している。
また飢饉の際には減税を施すといった公正な民政により、安定した領国経営を実現していて、これは実は織田信長の物よりも先進的で洗練された統治システムであった。
他にも、家督を継承するにあたっては、正室を重んじる事によって、廃嫡騒動やそれに起因する家臣団の派閥化といった近隣諸国では頻繁に見られる内部抗争や離反を防ぐことに成功。
おかげで、関東では農民による一揆や家督相続に伴う内乱がほとんど発生していない。
それに、後世では悪い意味で伝えられている小田原評定であったが、これは定期的に家臣達が集まって合議制で大切な事を決めているという結果の現れでもあった。
実際に、史実の徳川家康がこの合理的な統治システムを上手く活用して、早期の領地の安定を獲得している。
更に、江戸幕府の施政にも多数応用されていた。
シンイチは、自分なりにこれらの統治システムに改良を加えつつ、これらを実行する人材として多くの旧北条家家臣達を登用している。
領民達には、北条家時代からの税率は変えない旨を布告していたし、シンイチは優れた統治を行っていた北条家には学ぶ点が多いと言及して、彼らを偲ぶ事などは一切禁止としなかった。
そして、関白豊臣秀吉の威光で北条家でも出来なかった関東統一が成されたので、これからはもっと皆が豊かに暮らせるように努力しようと宣言。
農地の大規模開発、水害を防ぐための大幅な河川改修や、用水路の整備や、堤防を作るなどの治水工事。
水田としては使えない痩せた土地における、困窮・商品作物などの普及など。
他にも、それらを集めて売るための町や自由市場の整備や、大幅で真っ直ぐな道路整備など。
シンイチは、後世の資料まで応用して効率的な大規模開発計画を立案し、それを家臣達に実行させていた。
「大規模開発計画は良いのですが、資金と人手はどうするのですか?」
シンイチの側近として五千石の知行を得た吾一が、自分の主君に質問をする。
「殿下や、大阪の商人達に借りた」
江戸城を大々的に新規建造して、その周囲を埋め立てて大きな町や港を作る。
更に、今で言う所の川崎、横浜、横須賀、千葉、木更津、下田の他にも多くの港などが拡張され、港町や周辺の町や城下町へと続く道路なども整備される。
そしてこれらを使って、遠方からの貿易品や、港の近くに作った職人などを集めた町からの特産品や、シンイチが領民達に勧めている一村一品特産などが領内・領外両方に運ばれて商売となる。
シンイチは、丁寧に関東開発計画を計画書に認めて、秀吉や商人達に渡していたのだ。
今までの努力が実って、次第に蝦夷や琉球・台湾・ルソンなどから荷がはいるようになると、彼らは喜んでお金を貸してくれるようになっていた。
シンイチの計画書が、資金の返済計画まで記載されているのに感心したという理由もあったらしいのだが、とにかくシンイチは軍勢の半分を治安維持と訓練に、もう半分を工兵扱いで各地の工事に借り出したり、農閑期には手の空いている農民達に日当を払ってでも計画を前倒しで進めようと考えていた。
なぜなら、このまま史実通りに計画が進むと、これから葛西大崎一揆が発生するし、九戸政実が反乱を起こすからであった。
更に、文禄元年(1592年)に入ると、秀吉は朝鮮に出兵する可能性が高い。
シンイチは、李氏朝鮮という国の貧しさと、格下の国だと思っている日本に降伏して、何千年もご主人様であった明侵攻の道案内役になる事は決してあり得ないのだという事実などを伝え。
それよりも、国内開発や琉球や台湾や南方の島々への殖民の方が利益が出ると秀吉に言いたかった。
だが、それを下手に言って彼に粛清されるのも嫌であったし、今の秀吉はそれが可能な権力を有している。
ならば、この無意味な出兵に巻き込まれないようにするべきであろう。
シンイチは自分を卑怯だと思いつつも、将来に備えて今は豊臣政権下の大名として生き残る道を選択するのであった。