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十五話

 天正十五年の七月下旬。

 秀吉の九州仕置きは終了し、秀吉は大阪へと戻っていた。

 

 途中、九州のキリシタン大名が勝手に土地をイエズス会に教会領として寄進したり、領民に改宗を強要したり、その他の宗教の寺院などを破却したり、宣教師が外国人商人などと組んで日本人を奴隷として売却したりと。


 信長の家臣時代から一向宗との戦いで苦労して来た秀吉は、宗教が政治を凌駕する結果を恐れて、バテレン追放令を発している。

 だが、南蛮貿易などとの絡みでそれは極めて不徹底な物となっていた。

 それに、奴隷貿易に関してもただ禁止すいるだけでは意味が無かった。

 ここ数年の大戦乱に、農作物などの凶作と。

 これが解決できなければ、食えない人間は売られるだけであり、つまりは人を売らなくても食べて行けるように九州における農業開発などを進める必要があった。


 そのために、シンイチは薩摩へと派遣されていた。

 石田三成は戦火で焼かれた博多の復興や、イエズス会から取り戻した長崎の整備などにも関わっていたので、薩摩領内だけに関わっている余裕は無かったからだ。

 そこで、これから九州で一番問題になりそうな島津家担当という事で、内政にも長けているシンイチが派遣されたという事情が存在していた。


 シンイチは、伊予に護衛役の勝之を除く佐久間三兄弟と片桐兄弟を伊予に戻し、盛政や片桐兄弟に次の動員に備えての兵士の徴募や訓練を任せ、越前勝山城主時代に統治実績のある勝政と、先に雇った河野通直と旧河野家家臣達で政治に長けた者達に領内の統治を開発を任せ、自身は薩摩で単身赴任生活をする事となる。


 既にお蘭や虎姫は女児を出産していて、咲もお腹が大きい状態にあった。

 まさに、亭主元気で留守が良いというのを地で行っていたのだ。


「さてと……。肥後や日向から戻って来た家臣達も含めて、これが所領割の素案です」


「全員を均等に削っているのか」


「そうですね。ここで下手にエコ贔屓とかをすると、余計に揉めますから」


 一時は九州の大半を領有していた島津家が僅か二か国に減封され、新領主に追い出されて来た彼らの不満は大きかった。

 このまま最後まで戦えば島津家は確実に滅亡していたのだが、そんな事実は実際に領地を奪われた彼らには通用しない。

 

 それでもシンチイは薩摩内城内において、島津義久に対して彼らも含めた家臣達の所領割の素案を提出していた。

 どの家臣も、義久や義弘などの直轄地も平等に比例算で大幅に削減するという物で、これには早期に秀吉に接触してその覚えも目出度い伊集院忠棟も例外ではなかった。


「確かに、全員が平等に領地を削られているな」


「これしか手が無いという事でもあります。ですが、悪い事ばかりでもありますまい」


 薩摩と大隈の合計石高はせいぜいが三十五万石程度であり、江戸時代には七十七万石を主張していたが、これは籾高を表した物であって、実際にはその半分程度の石高しか有していない。


 更に薩摩や大隈は、その領土のほとんどが農業に適さないシラス台地であり、土地単位辺りの米の収穫量も全国の半分以下と、なぜ島津の兵がこんなに精強なのかを実感できるほどの貧しさでもあった。


 貧しいから多くの領土を得るか、戦争で略奪するしか生きる道が無かったのだ。

 

「すぐに成果は出ませんが、農業開発などは地道に行うしかないでしょう。農業書などを持参したので参考にしてください」


 とにかく、薩摩でかなりの部分を占めるシラス台地は農業に適さない。

 なので、史実の江戸時代などの情報に従って、大豆、アブラナ、陸稲、粟、稗、蕎麦、小麦など栽培を効率良く進めるしかなかったのだ。


 他にも肥料や農機具の改良や、その人口に比例して異常に多い武士階級の人間達にも農業を行わせる事を提案する。

 更に、漁業に製塩に、南方の島々でのサトウキビの栽培と製糖業なども、シンイチは出来る限りの資料を義久に提出する。


「とにかく、ちゃんと食べさせて不満を抑えるしかないですよ」


「であろうな」


 シンイチは、情報は出したが口と手はなるべく出さない方針を貫いた。

 余所者が余計な口を出すとまた拗れてしまう可能性もあったし、島津兄弟は俊英が揃っているので、ヒントさえ与えれば上手く領内の開発を行うであろうからだ。


「ところで、信一殿は今回はどんな報償を?」


「領地は無しですね」


 信一は、今回の戦いでは領地を加増されていなかった。

 多少の金銭と茶器や刀剣などを十数点のみであり、仕方なしに家臣達にはそれらの一部と伊予国内の自分の直轄地から加増を行っている。


 仙石秀久と十河存保は、戦死した尾藤知定の領地からそれぞれに加増されているのに不公平ではないかという意見もあったが、シンイチは既に国持ち大名であり、それは仕方のない事でもあった。

 そう簡単に領地を加増していたら、いくら領土があっても足りないからであった。


「信一殿も大変ですな」


 それから暫くは、シンイチは薩摩領内に留まって島津義久や義弘の領内統治と家臣団の把握に協力する事となる。

 提案はするが強要はしないし、府内城で多数の島津家家臣達を討ち取っていて恨みを買っているにも関わらず、精力的に各地を歩き回って教えを請う者には遠慮なく知識を伝授する姿勢に、次第に島津家の家臣達から好感を得るようになっていくシンイチであった。


「兄上、あの舟橋信一という男は大したものですな」


「戦場では猛将なのに、知識も豊富で教養もある。しかも、我らに無理に何かを強要する事もしないが、その提案は非常に使えて採用したくなる。確かに、凄い男だ」


 義弘・義久の兄弟は、財政的に困窮している島津家を救おうと様々な提案を出し続けるシンイチに素直に感心するのであった。


 そしてシンイチは、もう一つの提案を行っている。

 それは、秀吉の新しい国割りに不満を持って蜂起を行った、その他の地域の国人衆や一揆衆を鎮圧する際に島津軍を傭兵として出すというものであった。


「なるほどな! 信一の言う事にも一理あるんだな!」


 肥後の大部分を領したものの、反抗的な肥後国人衆達に手を焼く森長可は、先年に領していた信濃と同じように一揆衆には苛烈な対抗処置を取っていた。

 そして、そんな森軍と共同して一揆勢を挟み討ちにして討ち取って行く島津軍の精鋭達。


 島津応援軍は、まずは成功を収めたようであった。


「佐々殿の居る日向にも、兵を出しているそうです」


 森家家臣の各務元正は、肥後国人衆に対して猛攻を続ける島津軍を見ながら長可と話をしていた。


「応援としては、最強だろうからな。それと、支払われる代価で困窮する薩摩を救うか」


「彼らを戦争で忙しくして、余計な事を考えさせないという考えもあるようです」


「信一は頭が良いな。さすがは、俺の義弟」


 そこまで言うと、長可は自ら槍を持って敵軍へと突撃を行う。

 長可は、その後も徹底して反抗する肥後国人衆を殲滅するも、その後は善政を行って多くの領民達の支持を得る事となる。

 それと、シンイチから多少の助言も貰っていて、史実では加藤清正がしたような隈本城の建設や、白川・坪井川大改修、緑川の鵜の瀬堰、球磨川の遥拝堰、菊池川に於ける各種改修、熊本平野・八代平野・玉名平野への干拓と堤防の整備、白川水系の主に熊本平野への灌漑事業に於ける、非常に実験的な用水技術『馬場楠井手』など。


 肥後を穀倉地帯に変化させるために、実際に現地に赴いて図面を引いて長可に渡していたのだ。

 勿論、シンイチはこれを歴史の知識として知っていたに過ぎないのだが、何も知らない長可やその家臣達は、シンイチの測量や土木工事に関する知識に素直に感心していた。


 長可は、『さすがは、俺の義弟だな』とシンイチの背中をバンバンと叩いていたのだが。

 他にも、これらの工事は農閑期に農民達に日当を払って行った方が良いという意見と、農業開発が終わるまでは稗、粟、蕎麦などの荒地でも良く育つ作物などを植える事なども提案する。

 

 シンイチは提案はするが強要はしないので、彼の提案の良さがわかる人しか採用しない。

 肥後の長可や日向の成政は優れた人物であったので、それを素直に受け入れただけの事であった。


 鬼武蔵は逆らう者には一切の容赦はしなかったが、普段は優れた内政家でもあった。

 そうでなければ、あの信長がエコ贔屓などするはずが無いのだ。 

 同じく、日向も次第に安定化へと向かっていて、次第に九州は港や町の拡張・復興工事が進み、治水や農業開発なども進んで行くようになる。


 だが、これより数年後には、九州が再び荒れる原因となる戦が始めるかもしれなかった。

 シンイチは、ただその時に備えて出来る限りの準備をするしかないと考えて、帰りに長崎や博多に寄って、石田三成・滝川雄利・小西行長・長束正家・山崎片家などの奉行衆や、神屋宗湛や島井宗室などとも会って話をしている。

 

 更に、筑前・筑後・肥前一郡の合計三十七万石に封じられた小早川隆景や、豊前国六郡の合計十二万石の黒田孝高。

 筑後柳川城十三万石に独立した大名として封じられたものの、先に急死した大友宗麟の代わりに豊後一国を継いだ大友吉鎮よししげの後見役にも任じられた立花統虎(宗茂)に。

 肥前に領地を持つ龍造寺政家、大村喜前、松浦鎮信、鍋島直茂に、対馬の島主である宗義調・義智親子などとも直接に会って話をしている。


 戦乱に明け暮れた九州もようやく落ち着きそうなので、国人衆や一揆衆などを抑えつつも、彼らを戦いに駆り立てる貧しさからの脱却を行う。

 そのための知識を、主に史実の江戸時代以降に行われた開発などを参考にいくつかの提案を行うという行動を繰り返していたのだ。


 これも、シンイチが秀吉から命じられていた任務の一つでもあったからだ。


「長かったなぁ……」


 天正十四(1586年)年の後半から、天正十五(1587年)の後半まで、約一年を九州で過ごしたシンイチは、疲れた体を引き摺って自分の領地である伊予にへと戻っていた。


「信一様、私の子も女の子でしたよ」


 側室も咲も既に子供を生んでいたが、三人目の子もやはり娘であった。

 

「いいなぁ。娘は可愛いなぁ」


「次こそは、お世継ぎを頑張りますので」


 正妻のお蘭が長女のあいを抱きながらシンイチに話しかけるが、シンイチはあまり子供が男だとか女だとかは気にしなかった。

 女の子なら、優秀な婿を取れば良いじゃないかと思っていたからだ。


「あまり、無理をするなよ」


「いえ、これから頑張るのは旦那様ですので」


「すぐに大阪に行かないといけないんだけどな……」


 シンイチは、家臣の河野通直や佐久間四兄弟や片桐兄弟に伊予の統治に関する新しい命令を出すと、その後すぐに大阪へと向かう。

 だが、その間に戦国大名としてのもう一つの義務もちゃんと果たしていたようだ。


「また懐妊しました」


「お蘭様、私もです」


「私も」


「戦場でも閨でも、うちの殿は一発必中なんだな」


 三人はほぼ同時に子供を妊娠していて、それを聞いた盛政は他の兄弟や家臣達と思わず感心してしまうのであった。


 


 そして、年が明けた天正十六年の四月。

 いくつもの仕事を抱えて忙しいシンイチではあったが、秀吉は去年に完成したばかりの聚楽第に後陽成天皇を迎え華々しく饗応して、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせる事に成功する。

 同じく、同年には刀狩令や海賊禁止令を発布、全国的に施行してその力を日本中に示したのだが、まだ秀吉の天下統一は完成していなかった。


 水軍力の強化と海外貿易の促進のために必要な大型造船設備が完成し、ガレオン船の建造を開始したのを確認したシンイチは、急遽秀吉に呼び出されていた。


「すまぬな、信一よ。急に呼び出して」 


「いえ、俺は殿下の家臣ですので」


「そんな悲しい事を言うでないわ。お前の妻であるお蘭は、義理とはいえワシの娘じゃぞ。つまり、お前はワシの義息子なのだからな」


 確かに呼ばれた席には、秀吉の他には秀長、秀次、秀勝、秀秋と。

 秀吉の親族ばかりが集まっていた。


 ちなみに、これら豊臣一族とシンイチとの仲であったが、秀長は自分を秀吉に推薦してくれた恩人で、多くの事を教わっている尊敬すべき上司であった。

 秀長も、シンイチには特に目をかけている。


 秀次は、家康との戦いでは共に信濃や甲斐に侵攻した仲である。

 シンイチは、農民の子供ながらも懸命に秀吉の一族として努力している秀次を認めていたし、次第にその成果を発揮しつつあった。

 戦闘よりも内政に関する能力が高く、これは秀吉の後継者候補としては優れた資質でもあった。


 秀勝は、前にシンイチが仕えていた先代とは別人であったが、基本的にはあまり好ましい人物とは思えなかった。

 秀吉の七光りで偉くなっただけで、秀次のように努力をしているわけでもない。

 

 先の九州の戦いでは戦功を挙げていたが、その褒美として領地の加増を秀吉にお願いして怒りを買い、逆に領地を奪われてしまうなど。

 かなり浅薄な性格をしているようであった。

 

 シンイチは、表面上の付き合いしかしていなかった。


 秀秋はまだ幼いのだが、シンイチは彼が勉強をするのに必要ないくつかの書物を贈っている。

 幼いながらも、懸命に努力をしている子供という印象を持っていた。


「あの。今日の集まりは、どのような用件で?」


「大した用事ではない。ただお前の意見を聞きたいだけじゃ」


 九州を征服して西日本を統一した秀吉であったが、まだその権威に従わない大名達が東国には多数存在する。

 関東の北条氏、佐竹氏、里見氏などや、奥州の伊達氏、最上氏、南部氏などであった。


「殿下に臣下の礼を取れば良し。しなければ、討つしかないくらいしか思い付きません」


「そうか……」


 秀吉は、シンイチにしては何という事もない意見だと思っていたが、もう一つだけ付け加えた事があった。


「臣従するにせよ、戦うにせよ。あまり彼らに余力を残さない事が肝要かと。殿下が大阪に戻ってから再蜂起されると、これは余計な手間を労力を使ってしまうが故に」


「確かに、そうじゃの。北条などは、長政が氏直に上京するように交渉しているのじゃが……」


 浅野長政としては、北条に生き残って貰って毛利家のような存在になって貰いたかったのであろう。

 だが、そんな彼の努力はすぐに吹き飛んでしまう。


 翌年、真田家との間で領有権を巡って揉めていた名胡桃城を、北条方で沼田城将の猪俣範直が奪うという事件が発生したからだ。

 

 秀吉は、北条氏の惣無事令違反を非難して、その討伐令を全国の諸大名に通知し、当然のようにシンイチも関東へと出兵する事となる。

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