十四話
「この度は、殿下の先陣を賜りながらも府内をただ固めるのみで島津軍に対して豊臣の武を示す事すらせず、しかも多くの兵士達を失ってしまいました」
「何を言うか。信一も、権兵衛も、元親殿に存保殿も良くやったではないか。あの島津軍を猛攻をこれだけの長期間防いで、彼らを豊後北部に一歩も入れなかったその功績は大きい」
天正十五年三月。
既に豊臣の姓を受けて関白を名乗っていた秀吉は、以前から出していた惣無事令に、つまり大名間の私闘を禁じた法令に従わない島津氏を討伐するために、自らが総大将となって二十二万人の兵で攻め入る事となる。
これに先んじて、豊後に四国勢などと先に上陸していたシンイチはこれらの軍の大将に任じられていて、軍監である仙石秀久と共に府内防衛の任を担っていた。
府内城周辺に、何重にも塹壕や馬防柵などを張り巡らせた野戦陣地を構築して島津軍に備えたシンイチ達であったが、天正十四年の年末に、豊後南部の大部分を制圧した島津家久を総大将とする彼ら約二万八千人の軍の猛攻を受ける事となる。
彼らの府内城攻撃は八日間も続いて味方に多くの死傷者が出ていたが、それに倍する損害を彼らに島津軍に与える事に成功していて、どうにか彼らを撤退させる事に成功していた。
ところが、この勝ちで判断力を狂わせたのか?
大友義統がシンイチの反対を無視して、自分の持つ大半の兵士達や別行動で豊後南部で抵抗を続けている諸将などとの軍勢を合流して島津軍に追撃をかけ、逆に多くの兵士や将を失って逃げ帰る羽目になっていた。
しかも、この逃げ帰った兵士達の中には、肝心の大友義統が存在しなかった。
彼は、島津軍に討たれてしまっていたのだ。
この事態に、再び府内城は最前線として島津軍の猛攻を防ぎ続ける日々が始まったいた。
大友軍のあまりの大損害に、彼らは再び府内を狙い始めたからだ。
シンイチ達の残存七千名弱に、大友義統の敗残兵達が約二千人ほどと。
以前の半分の兵士で府内を守る羽目になっていたが、シンイチ達はそれにめげる事も無く、宗麟の守る丹生島城や、杵築城の木付鎮直と連携を取りながら府内を守り続ける事になる。
「バカ息子がすまない……」
「いえ、あそこで討って出るのも、武士としては正しくもあります。ですが、宗麟殿も大変ですな。お世継ぎである塩法師丸殿は、まだ幼いわけで……」
大友義統の勝手な追撃とその死と、府内防衛に関する打ち合わせをしに丹生島城へと向かったシンイチを出迎えた大友宗麟はさすがは戦国武将であった。
実の息子の死にただ一言だけ述べると、すぐにシンイチとこれからの事を話し始める。
心の中ではシンイチを恨んでいるのかもしれなかったが、それを表に出すわけにもいかないので、ただ冷静にこれからの事を話し始めたのだ。
「今までは島津軍の猛攻に震えておった癖に、人の勝利で浅はかな追撃をかけるか。人は、慣れぬ事はせぬものだな……」
宗麟は、シンイチのお世継ぎという単語に内心で安堵していた。
既に老齢な自分が死んでしまったら、まだ幼い孫の塩法師丸はどうなってしまうのか?
それが心配だったのだが、シンイチは出来る限り秀吉に諮って大友家の相続について便宜を図る旨を口頭とはいえ約束していた。
その結果、宗麟は生き残った大友軍家臣達などの統制を再び行うようになり、どうにか豊後北部の崩壊を防ぐ事に成功していた。
だが、島津軍の包囲と猛攻は続く。
彼らは、府内城と丹生島城を断とうとしながら府内城への攻撃を三ヶ月以上も続ける事となる。
結果、また両軍に多くの死傷者を出していたが、どうにか秀吉到着まで府内城を守る事に成功し、それを秀吉に褒められるシンイチ達であったのだ。
「その功には後で必ず報いるとしよう。我々の上陸を察して、島津軍は九州北部を放棄したらしいので、信一達は暫くは軍の再編を行いつつ休んでくれ」
通常の戦争であれば、戦功を稼ぐ機会だという事で意地でも前線を希望するのであろうが、シンイチ達の保持する戦力は既に五千人を少し切っているし、多くの将も失っていた。
それに倍する損害を島津軍に与えていたのだが、実はこの死傷者のかなりの部分が豊後南部や日向北部の国人衆の兵士達であった。
島津軍は、なるべく古参の薩摩・大隈の兵を損なわないように、彼らを盾にしていたからだ。
それでも、その損害は決してバカに出来ないものがあったし、島津軍は実際に豊後から撤退もしている。
シンイチ達は自身の軍勢の再編を行いつつ、島津家討伐のために二手に分かれた秀吉や秀長達の後方で兵糧の輸送や、占領統治の任に就く事となる。
「とはいえ、領地から追加で援軍をというわけにもいかないし……」
「うちも同じだな。それと、尾藤の家臣達も面倒をみないとな」
連れて来た戦力の半分を失ったという現実に、シンイチや秀久は挫けそうになっていた。
しかも、長宗我部元親や十河存保とは違って二人は讃岐と伊予に領地を得たばかりであり、そう簡単に兵力が補充できなかった。
未だに不穏な動きを見せる一部国人衆に対して備えが必要であったからだ。
しかも、二人には府内城攻防戦で戦死した尾藤知宣が率いている兵士達の統率という仕事も存在していた。
とても、前線に出る余裕などは無かったのだ。
「信一殿、秀久殿。あなた達も余裕はないかもしれないが、我らとて、そこまでの余裕など存在せぬ。爪に火を灯す生活だわ」
「本当に、島津軍は恐ろしい相手であった」
とそこに、シンイチ達と行動を共にしている長宗我部元親と十河存保が現れる。
実は彼らも、多くの譜代の家臣を失っている。
福留儀重、佐竹親直、桑名吉成、桑名親光などの、まだこれからも活躍するであろう優秀な者達ばかりであったので、元親もその跡継ぎである信親も困り果てていたのだ。
「信一殿!」
「どうかされましたか? 信親殿」
「宗麟殿がお見えですよ」
シンイチに宗麟の来訪を伝える信親であったが、二人は同じく信長から名前に一字を貰った仲であったり、共に府内で奮闘したので友人関係になっていた。
信親は、シンイチを兄貴分として慕うようになっていたのだ。
この時代としては非常に大柄な自分よりも体が大きくて武芸に長けているのに、教養家で色々な特技を持っているシンイチを尊敬し、シンイチも自分を慕ってくれる信親に、欲しがっている本を写本をあげたり、色々と知らない知識などを教授してあげる事が多くなっていた。
彼らと秀久や存保は、以前は四国を巡って争う敵同士であったが、今回の島津軍との死闘でお互いの力量を認め合い、友人同士になる事に成功していた。
これも、怪我の功名なのかもしれなかった。
「信一殿。この度は、塩法師丸の相続に力をお貸しいただきましてありがとうございます」
「いえ、俺の口添えがどの程度役に立ったのか……」
宗麟は秀吉に、大友家の当主を戦死した義統の長男である塩法師丸に継がせて欲しい旨を頼んでいて、それにシンイチも力添えをしていた。
シンイチの力添えがどの程度有効だったのかは知らなかったが、塩法師丸はすぐに元服して大友吉鎮を名乗り、軍を率いて島津軍との戦いを続ける事になる。
勿論、その後見人には宗麟が付いていたのだが、豊後南部は国人衆の離反やら島津軍の侵入によって荒れに荒れていたし、多くの兵や将を失っていたので、後方を守るくらいしか任務しか与えられていなかった。
シンイチ達と共に日向方面に軍を進める秀長の指揮下に入っているのだが、任務といえばたまに島津の策に乗せられて再蜂起する一部の国人衆の討伐やら、敗残兵狩りくらいしか存在しなかったのだ。
「殿下ご自身の上陸で、この戦は終わりましたよ」
「そうでしょうな……」
合計二十二万もの軍勢を動員してその兵站を維持する秀吉に対し、宗麟は逆らうだけ無駄だと感じていたし、それは島津家側も同じであろう。
暫くは戦いはあるかもしれなかったが、じきに停戦になるはずであった。
「それに、大友家は戦争どころではないという現実もあります。義統のバカが全て道連れにしたので……」
あまりに多い家臣達の戦死に、大友家は豊後の復興と統治に支障を来たすまでに混乱していて、宗麟が老骨に鞭を打って動いている状態であった。
「我らも、手伝いますゆえに」
「かたじけない。ですが、戦功を挙げたいのでは?」
「この兵力ですからね。それに、日向方面にはあの男達がいます」
シンイチは、自分を勝手に義弟にしたあの二名の顔を思い出していた。
「鬼武蔵よ! どっちが多くの島津兵を狩るか競争だぞ!」
「言うじゃねえか、賦秀よ! 島津なんて、生き残れても領地が大幅に減るからな。沢山ぶっ殺して、後の諍いを減らしてやろうぜ!」
史実とは違って共に日向方面に派遣された蒲生賦秀と森長可は、共に競うようにして日向へと逃げ込もうとする島津軍を追撃し、鶴崎城の妙林尼に追撃を受けて負傷していた野村文綱や、頴娃久虎他、多数の手柄首を獲る事に成功する。
「義弟も不運だな。損害が大きくて後方任務とは」
「あながちそうとも言えないだろう。あれだけの敵を討ったのだからな」
「確かにそうだな。俺達も負けられないな」
その後は史実通りに、秀長軍は山田有信ら千五百人ほどが籠る高城を囲み、秀長は高城川を隔てた根白坂に陣を構えて後詰してくる島津軍に備えていた。
すると予想通りに、そこに島津義弘と家久が率いる四万人ほどの軍勢が攻め寄せる。
秀長軍は、宮部継潤らを中心にした一万人ほどの軍勢が空堀や板塀などを用いて堅守し、島津軍はそれを突破できずに戦線は膠着状態に陥る。
だが、そこに秀長軍が後詰を行い。
彼に後詰を強く進言した長可と賦秀が、秀長麾下の藤堂高虎や宇喜多秀家麾下の戸川達安、更に小早川隆景や黒田孝高までもが挟撃や後方からの強襲などに参加し、さすがの島津軍も敗走する事となる。
島津軍は、島津忠隣、上原尚近、上井覚兼、猿渡信光など多くの武将に、推定で二万の兵を失う大損害を受け、日向根白坂から薩摩・大隈との国境まで累々と島津軍兵士の死体が連なる事となった。
「薩摩と大隈は、あとの楽しみにするか!」
「その時には、信一もいると面白いだろうな!」
島津軍の追撃を最後まで行って多大な戦果を挙げた長可と賦秀は、この場にいないシンイチの不参加を嘆きつつも、戦闘後の高揚感に酔いしれるのであった。
島津軍の敗退後、日向は一部の城では篭城が続いていたが、既に大勢は秀長軍優位に進んでいた。
秀吉本軍も怒涛の勢いで肥後から島津軍の大半を攻め落とし、一部先鋒部隊は薩摩と大隈に侵入して城や町などを焼き始めていて、国人衆などにも動揺が広がっていたからだ。
「もはやこれまで……」
島津家の当主である義久は、頭を丸めて龍伯と号した上で五月八日に秀吉に降伏した。
史実であれば、ここで弟の義弘や歳久や新納忠元が反発してその説得に少し時間がかかるのだが、根白坂の戦いでのあまりの負けっぷりで、まるで憑き物が落ちたみたいにその強硬姿勢を変化させていた。
さすがに、これ以上の戦争は島津家を滅ぼすと考えたのであろう。
高城の山田有信や、かなり早期に降伏していた家久や伊集院忠棟などは既に薩摩と大隈以外の城を開城して本国へと帰還しており、その後の交渉でも、薩摩は義久の、大隈は義弘・久保親子の領土として認められる事となる。
だが、少し引き際を誤ったのは事実であろう。
島津氏の悲願である三州領有の内、日向は全て失う事になってしまったのだから。
そして、彼ら島津一族に更なる不幸が訪れる事となる。
「一部を除き、肥後は森長可に。日向には、高鍋の秋月種実と延岡の高橋元種、清武・曾井・飫肥の伊東祐兵、人吉の相良頼房の分を除いて佐々成政に与える」
共に戦だけでなく領地の統治にも長けた武将であったのと、薩摩・大隈に封じ込めた島津家への監視という役割もあったのであろう。
それと、成政に与えられた領地が少ないのは、以前には秀吉に逆らっていたという理由もあった。
元は島津家に統治されていたり、秀吉の九州仕置きに反発する国人衆を抑えながら、戦乱で荒れた土地を開発しないと収入が増えないのだから成政は苦労する星の元に生まれたようであった。
だが、それを上回る不幸を背負い込んだかもしれない男がここに存在する。
「信一よ。三成と一緒に薩摩に入ってくれ」
石田三成と共に、島津家が所領を安堵された薩摩・大隈両国への検地を行い、肥後や日向の所領を無くした家臣達への領地分配を手伝う。
まず反発が予想される任務であり、暗殺の危険がプンプンとする任務でもあった。
「かしこまりました」
シンイチは、それでも仕方がないと秀吉からの命令を受け入れ、僅かな護衛を共に薩摩に入るのであった。