十三話
「何か、領地の移封が激し過ぎる気がするな」
「気がするのではなくて、実際に激しいのです」
天正十四年(1586年)の二月。
佐々成政が持っていた越中を有していたシンイチは、今度は伊予一国へと移封される事となる。
と同時に、今まで管理していた丹波や若狭などの面倒からも解放されたのだが、要はシンイチが領内をある程度安定化させたので、豊臣家の直轄地としたり、秀吉が最近養子として秀勝の名前を与えた甥の小吉に領地を相続させるためであった。
シンイチからすればどうでも良い事であったのだが、盛政としてはこの処置に不満があったらしい。
とはいえ、今の秀吉に不満など述べたらどうなるか想像もしたくなかったし、自分だけが罰を受けるのであれば仕方がなかったが、シンイチが罰せられるのも困ると、盛政はその不満をシンイチだけにしか言わないようにしていた。
「盛政殿。これは内緒だが、亡くなられた前の秀勝様は、お体は弱かったがさすがは総見院様のご子息であらせられた。俺は秀勝様の家臣で何の不満もなかった。だが、今の秀勝様は駄目だろう」
羽柴秀勝は体が弱くて武将しては駄目だったが、それでも賤ヶ岳の戦いでは出陣していた。
そもそもシンイチは、彼の武将としての能力に期待していたわけではない。
体が弱いのを自覚していた秀勝は、それでも政治では役に立とうと良く書物などを読んで勉強していたし、家臣に対しても優しく家中は上手く纏まっていた。
ところが、今丹波亀山城を領有している豊臣秀勝は、自分が秀吉の養子である事を鼻にかけてあまり家臣達からの評判も良くなかった。
叔父・養父の七光りで今の地位にいるのに、それが自分の実力だと勘違いしているのだ。
シンイチは、秀勝担当から外れる事が出来たのはラッキーだと思っていた。
秀勝の亀山移封後に越中は前田利家に加増され、シンイチは伊予一国と讃岐と阿波に一万石づつの領地を貰う事となる。
だが、この地にはまだ反抗的な地侍衆なども多く、完全に領地が安定しているわけでもない。
シンイチは、妻子を大阪の秀吉から借りた屋敷に残し、佐久間四兄弟、片桐兄弟、吾一などの孤児出身の家臣達や、秀勝の旧臣であった藤掛永勝などと一緒に伊予統治に入る事となる。
なお本当であれば、この伊予は小早川隆景に与えられる予定であったのだが、それは中止となっている。
だが、代わりに大量の財貨や食糧などを毛利家に贈り、来年に始まる予定の九州討伐で、その地に隆景に領地を与える約束をしていた。
秀吉が、いかに毛利家に気を使っているかの証拠であった。
ただ、秀吉が、毛利家の家臣である隆景にわざわざ領地を与えようとする意図は明白である。
彼を毛利から引き離して直臣としたいのであったが、それは隆景も理解していたので、ここ数年の戦争で財政が厳しかった毛利家に金銭と兵糧の支給があった事を逆に喜んでいたという。
しかも、伊予は毛利家の影響力が非常に強い土地でもある。
シンイチは、結局は隆景の助けも借りる事となる。
「初めて直接にお会いするかな。信一殿には、上月城での戦いの折にお世話になりましたな」
美中年のナイスミドルで、戦に内政にと何でも活躍する毛利家のスーパーマン小早川隆景。
シンイチは、秀吉がその才能を賞賛した彼と初めて直接に顔を合わせる事となる。
「あれは、我々の負け戦でした。ただ逃げただけですよ」
「殿で、追撃隊を負傷させる事に主眼を置いて、獲った首は完全に放置。武士としては予想外の手に、我々は翻弄されましたよ。しかも、まだこんなに若いとは」
隆景は、羽柴家でも随一の出世頭であるシンイチの若さに改めて驚いていた。
「ところで、伊予の地をどう治めるつもりで?」
「まずは、小早川殿には悪いですけど、河野通直殿を家臣にしようかと思います」
「悪くない手ですな」
伊予を統治していた河野家最後の当主である河野通直は若年の武将ではあったが、温和で優しい性格をしていて人徳厚く、多くの美談を持っていた。
反乱を繰り返した伊予の豪族大野直之は、通直に降伏後にはその人柄に心従し二度と裏切らなかったという。
秀吉による四国攻めが始まると、河野氏は進退意見が纏まらずに小田原評定の如く湯築城内に篭城するが、小早川隆景の勧めもあって降伏した。
この際に通直は、城内にいた子供四十五人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したという。
この時代の大名としては生き残れる素質は持っていないのかもしれないが、毒にも薬にもならない存在として家を残すのは良い手だと思うシンイチであった。
「何かありましたら、私も手を貸しますので」
「ありがとうございます。小早川殿」
シンイチは、早速に河野通直を呼び寄せると、彼に五千石の知行を安堵して領内の統治を手伝わせる事にする。
僅か五千石とはいえ、河野家を存続させた利点は大きく、旧河野家家臣達の好意的な感情と協力を得る事にシンイチは成功していた。
シンイチは急いで伊予国内の状況把握に務め、検地を行ってそれを家臣達に振り分けて行く。
当然、反発する国人衆なども存在したが、シンイチは彼らには容赦しなかった。
「一度、機会は与えたのだ。それが理解できないアホウに用はない」
シンイチは、容赦なく彼らを討伐していく。
シンイチ自身と、佐久間四兄弟と片桐兄弟を始めとする家臣達が率いる軍勢に彼らは容赦なく斬られる事となる。
だが、それと同時に戦乱で荒れた町や農地の復興も出来る限り行い、新たな農地の開発から治水などの新規事業も進めて行く。
その結果、シンイチは伊予の民達からは良い殿様だという評価と支持を得る事に成功していた。
だが、伊予にはもう二人ほど厄介な人物がいた。
「来島通総でござる」
「得居通幸と申します」
来島村上氏当主である通総は、早くに秀吉の勧誘を受けて織田方に裏切り、その結果毛利氏や河野氏に攻められて本拠地を追われ、一時は秀吉の元に身を寄せていた事もあった。
だが、四国攻めで旧領に返り咲き、兄で得居家を継いでいた通幸と合わせて二万四千石を与えられていた。
二人は、形式上はシンイチの家臣として伊予の知行を受けているが、実際には秀吉の直臣扱いでもある。
越中時代から考えれば普通に減封であり、確かに盛政が怒っても仕方がないなと感じるシンイチであった。
「四国攻めでは、俺は後方支援が多かったからな。直接に顔はまだ合わせていなかったか」
「越中から伊予への転封といえば聞こえは良いですが、我々の領地もあって事実上の減封ですか。良く腹が立ちませんな」
「実は、二人がいて大歓迎なんだけどな」
シンイチは、この二人を得た事で海軍力の強化を行おうと考えていた。
織田家で有名なのは九鬼水軍であったが、西国といえば村上水軍であり、彼らは強力な水軍を有していたからだ。
「我々に何かをさせるのですか?」
「水軍なんて、このままだと頭打ちだろう? だから、新しい事業を始めようと思ってな」
秀吉の天下統一事業が進んで各地から戦乱が無くなると、水軍衆の出番は減ってしまう事になる。
いや、むしろ商船から通行料を取るなどの行為が、国内の発展を妨げる可能性もあったのだ。
史実で秀吉が海賊禁止例を打ち出す事を知っていたシンイチは、彼らに事業転換を進めていた。
「まずは、雑多な海賊などの取り締まりや、戦の際の兵や物資の輸送の任は変わらないな。だが、これからは海外に出る!」
そう言うと、シンイチは自分で清書した多数の本を二人に渡す。
それは、遠方や海外などとの交易には必須の、大型の龍骨を持つガレオン船の設計図から、羅針盤などの周辺機器の設計図とその使い方。
航海に必要な船の動かし方のマニュアルから、航海図などの作成方法まで。
出来る限り、この時代では最新の航海技術を図解入りで写本したシンイチであった。
「どうやら、南蛮の本を明の連中が翻訳して本にしていたらしい。どういう経緯で日本に来たのかは知らないが、俺が昔に小坊主をしていた寺に置いてあった。それを覚えている限り書いてみた」
勿論シンイチの大嘘であったが、共に船と海の専門家である二人は数冊の本を奪い合うようにしてその内容を確認し始める。
「まずは、既存の造船設備で少し小さ目な船から作った方がいいな。それで、船を建造する大工と、船を操作する人員を育成しつつ大型船用の造船所を作る。訓練は、実際に荷を積んで遠隔地に運び込む訓練からだな。最初は九州・東海・関東・東北・北陸・蝦夷くらいまでか。琉球や高山国(台湾)とも交易をしたい。となると、ただ船が大きいだけでは駄目だろうな。大砲などで武装する必要がある。倭寇やら、南蛮の海賊やらも跋扈する時代だ。天候の影響で遭難する船の増えようから、それに対応した優れた航海術の習得も必要だな」
シンイチは、思い付く限りの提案を二人に話す。
「何とも、稀有壮大な話ですな」
「それと、こんな物もある」
シンイチは、一枚の地図を二人の前に広げる。
それは、地形などはかなりボカしてあったが、蝦夷・樺太・千島列島を含む日本列島と、インドまでの東南アジア、オーストラリア、ニュージーランドなどが書かれた地図であった。
「ここには、金や鉄の取れる島もあるであろうし、あまり人が住んでいない場所もあるだろう。南方などは暖かいので、琉球などで取れる砂糖キビも栽培可能だし、米も容易に収穫可能なはずだ。これからは、農家の次男・三男は戦に行くのではなくて、新しい領地を開発する時代となろう。となると、水軍がいかに重要になるかわかるよな?」
人の移動に、交易に、その際の海上警護に、倭寇や海賊の取締りに、場合によっては他の国との交戦もありえる。
そのために、船を大型化・高速化して搭載火器などの改良と量産も行わないといけない。
しかもそれらは、九州や、もしかすると関東や東北に秀吉が出兵するかもしれないので、その動員と合わせて行わないといけないのだ。
「勿論、大計画だから殿下には既に話は通してある。資金も出してくれるそうだ。多分、大型船の造船所は、大阪の近くに建設されるだろうな。船に乗せる大砲の改良と生産もあるから、その工房も作られるはずだ」
「つまり、豊臣方の水軍衆は勢ぞろいという事ですな」
「九鬼殿は、乗り気だったな」
九鬼水軍の当主である九鬼嘉隆は、シンイチの提案に賛同して協力を惜しまない旨を伝えていた。
他にも、秀吉からの資金だけではなくて島井宗室、神屋宗湛、千利休、津田宗及、今井宗久、小西隆佐などの商人達の協力も得るようにと助言もしている。
シンイチは、大型の船を建造して海外と交易を行ってその利益を分配する合同会社のような組織の成立を目指していた。
豊臣家、他の大名家、大商人などが資金を出して船を建造し、運用は全国の水軍衆から人材の派遣を受け入れる。
出た利益の中から、その貢献度に比例して分配金を渡す。
一種の株式会社のような物であった。
秀吉はシンイチの提案に関心し、小西行長と石田正澄を若いながらも担当者とする事を決める。
「では、我らも大喜びで参加させていただきます」
来島通総と得居通幸もシンイチが提案した水軍強化計画に賛同して、この時から無事に計画がスタートするのであった。
「ああ、それともう一つ」
「何でしょうか?」
「少し面倒を見て貰いたい新人が一人……」
『信一殿! 私は、水軍の指揮なんてやった事が無いんだ! どうしようか?』
『どうしようかって……』
四国攻めの功績で讃岐十万石に移転した仙石秀久の後に、脇坂安治が三万石で加増移封していたのだが、同時に彼は淡路水軍を傘下として治め、これからは水軍の大将としても働くようにと秀吉から命令されていた。
当然、水軍を指揮した経験が無い安治は、領地運営の事も含めてシンイチに素直に相談していた。
なお、これと同時に秀久からも領地運営に関する相談を受けている。
更に自身の水軍衆の事もあって、現在のシンイチは伊予・讃岐・阿波・淡路などを統括的に統治しているような状態であった。
領地境などで揉めないように、土佐の長宗我部元親との折衝などもあるし、つい最近まで死闘を演じていた秀久や、同じく讃岐に領地を持っている十河存保との関係修復の仕事もあった。
何しろ、これから一緒に九州に派遣される同僚同士となるので、早く仲良くして貰わないと命にも関わるからであった。
「淡路には、菅達長がいるのでは?」
菅達長とは淡路水軍の当主であり、淡路島に一万石を与えられて安治の下にいる人物であった。
「そこまで深く考えないで、たまに会った時に助けを入れて貰えると助かります」
「そのくらいならば」
「では、我らは形式的とはいえ信一様の家臣ですので、兄弟で交代に伊予水軍衆と、秀吉様の新規事業に協力いたしますので」
来島通総と得居通幸の賛同を得て安堵の溜息をつくシンイチであったが、これだけの能力があるシンイチが秀吉に全く警戒されないのは、このように苦労性でそれが正直に顔に出てしまうからであり、二人は『こんな殿様も悪くないな』と思いながら、彼の元を辞して仕事に戻るのであった。
「結局、夫婦水入らずの時間は僅かでしたね」
「おや、亭主元気で留守が良いのでは?」
「あまり留守が過ぎると、どこぞで変な女と遊んで来るのではと心配なのです」
天正十四年の八月。
ようやく伊予の状況が落ち着いて妻子を呼び寄せたばかりなのに、シンイチは四国の諸将を引き連れて九州へと上陸するようにと秀吉から命令されていた。
遂に、島津家が大友家を滅ぼすべく大々的に兵を挙げたからであった。
総大将にシンイチ、軍監に仙石秀久、他に長宗我部元親・信親親子に十河存保と。
史実で言うところの、戸次川の戦いで散々な目に遭ってしまう面々であった。
とはいえ秀吉からの命令なので、シンイチ合計一万ほどの軍勢で九州へと上陸し、大友氏の本拠地である豊後府内城近郊に着陣する事となる。
他にも、毛利軍が小早川隆景らを豊前へ向かわせていたが、既に昔日の勢いのない大友家は、いつ家臣や国人衆が島津軍に裏切るかが不明で、十月には高橋元種の小倉城や、賀来氏の宇留津城を攻略していたが大友家側の不利な状況はまるで変わっていなかった。
「府内に要塞を?」
「とにかく、殿下が大軍を擁して来るまでは府内を守らないといけません」
府内近郊に着陣しているシンイチは、先代の宗麟から家督を継ぎ府内城を守る大友義統を尋ねていた。
「そんな時間と材料があるのか?」
「非常に心苦しいのですが、島津軍が来れば焼き払われる町から徴発したいと思います。どうせ残しても、略奪されるだけですし」
府内城下は、キリスト教に帰依した宗麟の影響で西洋的な文化が花咲き、神学校や、全国初の西洋医学の病院まであったが、史実では全て戦乱によって消失している。
そこでシンイチは、どうせ無くなる物ならばと、府内城の大友館とその周辺に強固な野戦陣地の構築を行う事を宣言する。
「義統殿が全軍をもって島津家久軍を決戦を行うのであれば、これに協力するは吝かでもないのですが……」
内心では島津軍に恐怖していた義統はこれに同意し、府内の町の建物は次々と壊されて野戦陣地の材料として運ばれて行く。
更に、大友館には多くの倉庫も建設され、島津軍の進路に当たる城や拠点などから次々と食糧・武器・物資・兵士などが引き揚げられて、府内に集結させられていた。
俗に言うところの、焦土作戦のソフト版を行ったのだ。
どうせ島津軍に略奪で奪われるならと、シンイチが苦渋の選択をしていた。
他にも、臼杵湾に浮かぶ丹生島にある丹生島城とも連携を強化して、そこを守る宗麟から二門しかない仏郎機砲(大砲)を借りる事にまで成功していて、府内の住民達や大友軍の兵士達も合わせて野戦陣地構築に参加し、遂に天正十四年の十二月。
無人の豊後南部の諸城に激怒した島津家久が、各地に分散させていた兵士達や、降った豊後国人衆も合わせて、二万八千の軍で府内城下に殺到する事となる。
彼らは、ほぼ完成していた大友館周辺の何重にも張り巡らされた強固な野戦陣地と、そこを守る合計二万五千の兵力に驚愕していた。
「家久様。攻め手と守り手がほぼ同じでは、攻城戦など無謀の極みですぞ」
島津家髄一の戦術家である家久もそれは十分に理解していたが、情報によれば、年が明ければ秀吉は大軍を擁して九州に入る予定だと言う。
ならば、この府内を落としておかなければと考えるのは仕方が無かったのかもしれない。
家久は、伊集院久宣以下の島津軍諸将に対して府内城及びその周辺の野戦陣地攻略を命じる。
「上方の臆病侍と、大友の腰抜け侍に島津の精鋭が負けるはずはない」
家久は、そう大言してから攻撃命令を下すが、心の中では多数死ぬであろう兵士たちに向かって詫びるのであった。
「あんなのと、野戦をしなくて良かったな」
「俺もそう思う。ここで戦功をとも考えたが、移封直後で兵士達の結束も悪いし、十河殿や長宗我部親子ともまだ打ち解けていないからな」
野戦陣地の西側の最前戦では、仙石秀久が同じ讃岐丸亀五万石を有する尾藤知宣と一緒に戦っていたが、そこにシンイチが応援に現れて秀久と話を始めていた。
なお、知宣のシンイチ嫌いは相変わらずで、彼はシンイチを無視し続けている。
「適当に作ったんだけど、役に立っているかね?」
「意外とな。石ってのは、調達が楽だからいいな」
全ての野戦陣地を守る武将や兵士達の一部に、シンイチは簡易式の投石器を支給していた。
投石と言えば武田軍が有名であったが、あれは長年の訓練による熟練の技であったので、今回の戦いに間に合うはずもない。
遠心力の力で小石を投げる長い巨大なスプーンのような木製の物や、布製の物や、バリスタに似たような物まで。
守備側は出来る限りの石、矢、銃撃で対応し、防塞に一門だけ設置されている仏郎機砲(大砲)も火を吹く。
双方は、血みどろの戦いを行っていた。
「ええいっ! この柵はいくつ超えれば城に着くのだ!」
島津軍の武将が吼えるが、シンイチはまるでタマネギの皮のように兵士や馬の移動を防ぐ堀を十メートルごとに三つと最後に馬防柵を設置した陣地を何重にも大友館の周りに張り巡らせていた。
そこで出来る限りの防戦をしたら次の陣地に下がり、兵士の半数は内側で休憩を取っていて、それをシンイチ上手く入れ替えて兵士達の消耗を防ぐ。
一方の島津側は、士気をあげるために多くの建物が解体され無人となっている府内の町を何も考えないで焼いたせいで、夜には野宿をする羽目に陥っていた。
しかも、既に物資等は引き揚げられていて、略奪も出来ずに兵士達は不満度を高めていた。
府内城を巡る攻防は一週間も続き、島津側は死者四千人、負傷者はその倍という甚大な被害を出す事になる。
その多くは、最近加わった他国の国人衆とその兵士達であったが、島津軍の損害が少ないわけではない。
大物では、伊集院久宣などが戦死している。
一方、なぜか防衛側の大友・豊臣連合軍にも甚大な被害が出ていた。
死者が二千人と負傷者は五千人を超え、尾藤知宣、神子田正治なども戦死している。
実は神子田正治は、信雄や家康との戦いで守っていた城を落とされ、その場から逃走して、秀吉の不興を買って領地を没収されている身であった。
それを不憫に思った同僚であった尾藤知宣が、名誉挽回のために陣貸しをしていたのだが、それが叶う事無く戦死してしまっている。
他にも、仙石秀久の家臣である羽床資吉、大平国祐・国常親子などの多くの家臣も戦死していたし、シンイチもあの十一名の孤児達の内三名を戦死させている。
目的は達成できたのだが、失った物が非常に大きい戦いでもあったのだ。
「(仁一、茂助、次郎。すまない……)吾一、怪我は大丈夫か?」
「はい。大した怪我ではないですし」
八日目の島津軍の攻撃を防いだ府内城外の野戦陣地内では、シンイチ自らが吾一の腕に包帯を巻いていた。
未来では簡単な怪我や病気の治療方法などを学んでいたシンイチだったので、兵士達に簡単な怪我の治療方法や、衛生に関する講習などを行ったり、時には傷の縫合などの簡単な手術を施す事も多かったのだ。
それと、もう一人その任に従事している者がいる。
シンイチが拾って育てた孤児の一人である黒木重文という若者は、彼が写本した医学関係の書物を勉強し、時にはシンイチ自身から直接に教わったりもして、兵士達の怪我や病気の治療などを行う小部隊を率いるまでに成長していた。
『俺は武士になりたいんですけど、みんなのように武芸が上手くないから……』
それでも重文は、無事に医者兼武士として己の身を立てる事に成功していた。
「信一様でも、あの三人は治せないですよ。俺達も、あいつらの死は悲しいです。でも、今は他にやる事が沢山あります。九州から戻ったら、改めて正式な葬儀をあげてあげましょう」
「そうだったな、重文。お前は、信親殿の治療をしてくれ。重傷ではないが、傷を縫合した方が治りが早いだろう。俺は、十河殿の傷を見る事にする」
シンイチは、このあまりに多い負傷者に自ら負傷者への治療に当たっていた。
軽傷でも、破傷風を防ぐために早くに一度煮沸した水で傷口などを洗わせ、薬草などで作った傷薬を塗りこんでから、洗って良く日に干した包帯を巻いたりしたのだ。
他にも、自家製の粟や稗などで作った酒などでも消毒をしたり、傷の縫合なども行っている。
負傷者を無駄な感染症で失えば、戦力が低下してしまう。
シンイチは、共に戦っている十河家や長宗我部家の将兵へを治療も重文に指示していた。
「何とか生き残れましたか」
「舟橋殿、信親の治療までして貰って申し訳ない。しかし、貴殿は色々と得意な事が多いのだな」
「多少齧っている程度ですよ」
負傷者への治療などと平行して、シンイチ達応援組は島津軍の猛攻で破壊された陣地や柵の修理や、両軍の戦死者の収容なども行っていた。
「さすがに、府内は諦めましたかな?」
「でしょうな。島津軍の戦死者も多いですし」
「これだけの犠牲も出ているし、既に大阪では出陣の準備が進んでいますしね」
元親や存保に、シンイチがもう少しで秀吉が大軍を擁して九州へと向かう事実を伝える。
秀吉が、弟の秀長と共に率いる兵の数は二十万を超える予定であり、その大軍が来るまでは、あとは府内を守る事に専念すれば良かったからだ。
ところが、ここでとんでもない事を言い始めた人物がいた。
今までは、強力な島津軍に対してどこか腰が引けていたのに、今回の大勝利で欲が出たのか?
大友義統が、府内から引き上げようとする島津軍の追撃を強硬に主張し始めたからだ。
「義統殿。野戦だと不利だから防衛戦にして時間を稼いだのですが、貴殿はそれを理解しておられるのですか?」
シンイチは、勝ったからと言って急に態度が大きくなった義統に対して、こめかみに青筋を立てながら口調は静かに反論をする。
「そんな事は私も知っている。殿下の大軍が到着するまでは、この府内を確実に確保しておく事こそが肝要なのもな。だが、ただ守りを固めていても兵士達の士気の問題もある」
「いらぬ欲はかかない方が良いですな」
「確かにそうだ」
「ここは、守りを固めるべきであろう。島津軍が、府内を諦めたという保証はないのだから」
「討ち取った敵軍の数を考えれば、十分に勲功物だと思うけどな」
長宗我部親子、十河存保、仙石秀久などの応援組の諸将達も、全員が義統に反対意見を述べる。
ここで下手に反撃を喰らってその余波で府内を落とされたら、これまでの努力が全て無駄になってしまうからだ。
「舟橋殿は、府内を引き続き守れば良いではないか! 私は、行かせて貰う!」
シンイチ達はあくまでも応援であり、義統との立場は対等であった。
なので、彼の暴走を止められずにそのまま見送る事となる。
「大友軍は、島津軍の釣り野伏に嵌って大敗! 死傷者多数!」
義統は八千の大友軍だけで出陣し、途中で豊後南郡の奪還を狙って動いていた佐伯惟定や志賀親次の軍勢と合流して後退中の島津軍に襲い掛かり、逆撃を喰らって大敗北してしまったらしい。
どうやら、島津軍側も島津義弘との合流を果たして数を増やしていたらしいのだ。
結局、大友軍の死者は六千人を超えて、佐伯惟定、志賀親次、戸次統常、利光宗魚などの重臣多数が戦死。
豊後南郡を完全に放棄しなければ、府内を守れなくなるまでに大友軍は逼迫する事となる。
更に暫く経ってから、大友義統自身までもが戦死したという衝撃的な事実が伝えられる事となる。
「あの大バカ者が!」
丹生島城にいた宗麟は大激怒したらしいが、シンイチはそんな事には構っていられなくなった。
再び勢いを増して攻めて来る島津軍に対して、これから約四ヶ月間にも及ぶ長い長い府内城防衛戦が始める事になったからだ。
シンイチ達は更に二千人もの兵士達を失い、戦死率四十%超えという歴史に残る苦闘を経験する事となる。