九話
「義兄さんも、家臣が増えて大変ですね」
「その分は、若狭を貰いましたので」
柴田勝家を滅ぼし、それに加担した美濃の織田信考を切腹に追い込んだ秀吉は、戦いで活躍した諸将達に加増などの恩賞を与えていた。
細かい部分は省くが、尾張に領地を持ち秀吉に付いた信長の次男信雄は北伊勢と伊賀を加増され、伊勢長島城に領地を持つ滝川一益は南伊勢へと加増転封される。
他にも、池田恒興は美濃へと加増転封されていたし、丹羽長秀は勝家の旧領である越前へと加増転封になっている。
史実では他にも気前良く領地をあげ過ぎてしまい、彼の死後に息子の長重に因縁を付けて減封してしまった秀吉であったが、さすがにそのような無茶はしなかったらしい。
シンイチがいる影響なのか?
色々と元上司である旧織田家臣達に気を使って、懸命に領地のやり繰りをしているようであった。
そしてシンイチは、丹羽長秀が領有していた若狭一国を貰うのだが、若狭と丹波は隣同士である。
シンイチは、秀勝の筆頭家老を続けながら両国の統治に精を出していた。
「(どうせ、来年にはまた戦だし)」
シンイチは、両国で有望な若者などの発掘を行って軍の陣容を整えるように片桐兄弟や佐久間兄弟に命令し、若狭の検地を行いつつ領内の開発などの命令を出す。
他にも、佐久間兄弟に既に元服して初陣を飾り、五十石から百石で雇われ始めていた孤児達十一人の教育も頼んでいた。
「慌しい限りですね」
佐久間盛政に軍勢の整え方を習う吾一達を見ながら、秀吉からの使者として来た増田長盛がシンイチに声をかける。
以前にシンイチと一緒に姫路城で仕事をしていた彼は、秀吉から奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当したり、こうして諸将などとの連絡役を務めるようになっていた。
「親が武士なのかも知らない孤児が一国の主なのです。こんなものだと思いますよ」
とにかく年明けには戦になるはずであったので、シンイチは急いで軍容を整える努力をしていた。
あの織田のバカ息子である信雄などはどうでも良かったが、シンイチのこれからの人生に影をもたらしそうな徳川家康を、討てなくてもその力を削ぎ落としたい。
そのために、領内の開発に軍の準備にとう忙しい日々を送っていたのだ。
「側室も迎えて、万々歳ではないですか」
賤ヶ岳の戦いの後、秀吉は大阪の地に巨大な城の建設を始めていた。
シンイチは、さすがにその普請には参加していなかったが、領内から木材などの材料を準備して輸送を行い、その際にいくつかの褒美に近い物を貰っていた。
まずは、自分の義理の息子であるという理由から、羽柴の姓を名乗るようにと言われたのだ。
そこで、今までは舟橋信一というこの時代にしては短い名前であった物を、羽柴真一郎信一(はしば、しんいちろう、のぶかず)と改名していた。
前の名前を残したので、付き合いの長い知人・友人達は今までとまるで同じ呼び方をしていたのが、これでやっと名前が立派になったような気がするシンイチであった。
それと、もう一人側室を迎えていた。
賤ヶ岳の戦いで降伏して家臣となった佐久間盛政が、自分の娘である虎姫を差し出したのだ。
『それがしには、娘が一人しかおりませんのでな。もしこれからも男子無き時は、信一様と虎姫の子供に佐久間家を継がせたく思います』
そのような理由で、シンイチは虎姫を側室として迎え入れていた。
父親に似てなかなかに気の強そうな娘ではあったが、シンイチからすればキリっとした顔の美少女である。
ただ、数えでも三十歳そこそこの盛政の娘なので、かなり幼くはあった。
シンイチは、もう少し大きくなってから手を出す事にする。
「ただ来年も忙しいのでしょうね」
「でしょうな。秀吉様が織田の後継者を継ぐには、もう一人倒さねばなりますまい」
長盛の言うもう一人とは、先に柴田勝家に組して自害させられた織田信考の兄にあたる織田信雄の事であった。
柴田勝家との争いでは秀吉方に組して戦って、戦後に北伊勢と伊賀を新たに所領に加えた信雄であったので、邪魔な信考がいなくなった以上は自分こそが織田家の正当な後継者だと考えている可能性があった。
「まあ、おいおいとわかると思いますが……」
天正十一年(1583年)の後半はそのまま戦もなく過ぎて行くのであったが。
翌年天正十二年(1584年)になると、秀吉は信雄に大阪城に新年の挨拶に来るようにと命令する。
自分から挨拶に行くという事は、その人物の下である事を認める行為なので信雄はそれに反発。
予想通りに、兵を挙げる準備を始める。
三月六日になると、信雄は秀吉との対立を諌めた重臣の浅井長時、岡田重孝、津川義冬の三名を謀殺し、事実上の宣戦布告状を叩き付ける。
更に、三河・遠江・駿河を領有し、本能寺の変のドサクサで信濃と甲斐を奪って五か国の太守となった徳川家康が彼に加担する。
家康は、四国の長宗我部元親や、紀伊の雑賀党らとも組み。
先の柴田勝家との戦いでは、柴田方に付いて援軍を出したものの、秀吉に降伏して越中一国を安堵された佐々成政も、信雄側で戦う事を確認していた。
戦機は、次第に熟しつつあった。
「問題は、織田信雄殿ではないのです。家康をどうするかです」
天正十二年の三月下旬。
シンイチは尾張犬山城近くに建設した野戦陣地で、同じく小牧山城に堅陣を敷く徳川家康・織田信雄連合軍と睨み合っていた。
ここまでの流れを軽く説明すると、信雄の三家老殺害を確認したシンイチは、秀勝を大将として紀州の雑賀衆に備えて大阪を動かない秀吉に代わって若狭・丹波の兵を率いて南伊勢から北伊勢へと侵攻を開始。
事前に調略済みの関盛信、九鬼嘉隆、織田信包の軍と合流し、他にも北伊勢の事情に詳しい滝川一益の軍とも合流して、電光石火で北伊勢の信雄方の諸城を攻略。
同じく、伊賀の諸城を攻略した蒲生氏郷・堀秀政とも合流して尾張に侵攻を開始。
尾張と三河という恩賞で誘われて裏切った池田恒興と共に犬山城を落とし、そのまま全力で小牧山城も落とそうとするが、これはさすがに家康に看破されて防がれる事となる。
だが、同じく小牧山城を狙って羽黒に着陣していた軍の敗戦だけは防ぐ事が出来た。
シンイチが秀勝に具申して援軍を率いて羽黒に向かったので、森軍に奇襲をかけようとしていた酒井忠次、榊原康政の軍はそのまま小牧山へと引き揚げる事となる。
そして、そのまま両軍は秀吉が到着しても睨み合いを続けていた。
「お前が、大殿のお気に入りだった信一か」
「はい」
「本当に大きいな。しかも、羽柴軍の呂布と呼ばれているとか。よし! お前は、今日から俺の義弟だ!」
先の蒲生氏郷に続き、なぜか森長可にも気に入られてしまうシンイチであった。
佐久間盛政もそうなのだが、どうやらシンイチは武闘派の武将達に気に入られる運命にあるようであった。
「さて、戦況がこう着状態になってしまったか……」
犬山と小牧山で睨み合いを続ける両軍であったが、さすがの秀吉もこの状況には苦慮しているようであった。
「シンイチ。そなたは、どう思う?」
秀吉は、先に会議に参加している諸将の意見を聞いてから、最後にシンイチにも話を聞く事にする。
義理の息子ではあるシンイチであったが、これら諸将の中ではあくまでも一家臣でしかなかったので、聞く順番が最後になっていたのだ。
ちなみに、小牧山城の占拠に失敗して羽黒から引き揚げざるを得なくなった森長可と、その岳父である池田恒興は徳川家康の領地がある三河への中入りを要望していた。
「徳川・信雄軍は合計で三万ほどです。北伊勢と伊賀はほぼ平定済みですが、今の内に、美濃の信雄方の城も全て落として尾張に封じ込めてしまうべきかと。こちらも犬山の堅陣に閉じこもっているので、全軍の半分も残しておけば、彼らは手を出さないでしょうし」
「なるほどのぉ」
「三河兵は強いですからね。こちらからの攻撃は差し控えるべきです」
信雄・家康連合軍に対して、羽柴軍の合計は十万人を超えていたが、その十万人を全て一斉に活用できるわけではない。
地形の問題から、前線で戦っている兵士の数はさして変わらないので、どうしても野戦に定評のある家康を有利にしてしまうからだ。
ところが、彼にも欠点が存在する。
それは、史実で真田家との戦いで見せた攻城戦の不得手だ。
ならば、その不得手を利用して戦えば良いのとシンイチは考えていた。
シンイチが一枚の大きな地図を取り出して諸将の前で大きく広げると、彼の傍にいた吾一が木片で作った敵味方に色を分けた駒を地図の上に置き始める。
「信雄殿こそ正当な織田の後継者だと言って、余計な首を突っ込んで来た家康殿です。しかも、色々と厭らしい真似をしてくれました。ですが、兵力と経済力では秀吉様の方が上。ならば、このまま対陣を続けつつも、こちらも広範囲に動くべきかと」
まず、大阪を脅かす紀州雑賀党に対しては、秀吉の弟である秀長に任せて防衛と調略などによる弱体化を続けさせる。
四国の長宗我部元親には、淡路や讃岐などでどうにか踏み止まっている仙石秀久に、防衛主体の戦術を取って貰うようにとお願いする。
これは、最悪一時淡路に引き揚げても構わないとシンイチは思っていた。
次に越中の佐々成政に対してだが、これは前田利家に任せて大丈夫であろう。
成政とて後背に存在する越後の上杉景勝は気になるはずなので、そう思い切った行動は取って来ないはずであった。
越中にいる成政の、これが限界であろう。
「この犬山の陣地を最前線として、後方の信雄殿方の諸城を全て落としてしまうのです。攻略・調略とありとあらゆる手を使ってです。当然、尾張の各城も当然です。あの信雄殿の事ですから、自分の背後にいる城主達が裏切る可能性があると知れば動揺するでしょうし」
「随分と悠長な手だな。俺は、岳父殿と同じく中入りの方が良いと思うが……」
「そうだな。一気に岡崎を落として、三河殿の心胆を寒からしめん」
森長可と池田恒興は、あくまでも中入りを主張していた。
だが、長年三河を領有して地の利がある家康を、余所者の二人が出し抜けるとも思えないシンイチであったので、他の作戦を提案する事にする。
「中入りをするなら、先に兵を進める場所があります」
「それは、どこだ?」
「信濃と甲斐にです。忘れたのですか? 家康は、大殿亡き後の混乱を利用して両国を掠め取ったのですよ。これを機に返して貰いましょう」
「確かに、義弟の言う通りだ! 俺は大殿より信濃川中島四郡を与えられていたのだ!」
だが、その領地は信長の死後の混乱で泣く泣く手放している。
普段は何も言わなくても、長可は悔しいと思っているのであろう。
「信濃川中島四郡は、現在秀吉様の同盟者である上杉家の所管にあるので、これは仕方が無いと思います。ですが、その他の地域と甲斐は、返していただきましょう」
「なるほど、確かにそうだな」
「そこで、案内役と言いましょうか。お力を貸していただきたい方がいるのですが……」
シンイチが未来で舟橋博士から習った、プレゼンテーション能力を生かした作戦提案は見事に成功する。
まずは、犬山城の堅陣は拡張工事が決定して、これの指揮を秀吉以下四万の兵士と賃金に釣られた地元の農民達によって進められた。
当然、それを邪魔しに信雄と家康が小勢を送るのだが、それは堀秀政、加藤清正、福島正則などが指揮する遊撃部隊によって阻止されてしまう。
個々の戦闘では三河勢の方が強いのだが、秀吉は最初からまともに彼らと野戦を行うのを避けるようになっていた。
更に、美濃の信雄側の諸城の攻略は蒲生氏郷らに一任し、東美濃にある岩村城方面から二万五千の軍が信濃へと流れ込む。
池田恒興、森長可、滝川一益の他に、なぜかシンイチが軍監として付けられてしまい、秀勝の補佐は佐久間盛政が行う事となる。
そして、この信濃・甲斐遠征軍の名目上の大将として、秀吉の甥であり後に関白となる三好秀次が就任していた。
「信一殿。この遠征軍に滝川殿がいる理由は?」
秀吉の代理人として初めて大将の任に就いた秀次は、緊張した面持ちでシンイチに遠征軍の事などを尋ねる。
秀次は自分なりに、一個の軍団に池田恒興、滝川一益と二人の大物がいると主導権争いになってしまうのでは? と心配していたのだ。
「実は、あるお方と渡りを付けていただきたいと思いまして。それと、滝川殿はご自分が副将である事を納得しておられますから」
以前から、早く引退して茶の湯などの引退生活を送りたいと願っている一益である。
そこで、シンイチは秀吉と相談をし。
一益に、『この度の戦いこそが、羽柴の信長包囲網だと思っています。一益様に最後の大活躍をお願いいたしたく。勿論、功績には大いに報いる所存です。一益様には、珠光小茄子は本能寺で消失して無理ですが、他の名物を必ず進呈するとの秀吉様からの伝言です』
武田家滅亡後に、要望していた珠光小茄子ではなくて上野国と信濃二郡の領地を貰ってガッカリしたという一益だったので、彼は何の不満も抱かずに戦に調略にと活躍していた。
本能寺の変の混乱を利用して両国に侵攻した家康であったが、彼らとてこの地を押さえてから二年ほどしか経っておらず、しかも主戦力は犬山の羽柴本軍と対峙を続けていた。
しかも、信濃には二年ぶりにあの男が戻って来ていた。
「俺の義弟は、頭が良いな。確かに、信濃は返して貰わないとな!」
信長の家臣であった頃から鬼武蔵の異名を誇り、様々な伝説を打ち立てて来た長可は、先の信濃入領の時には反発する国人衆や一揆勢力をなで斬り・追放と、その異名に相応しい行動で鎮圧している。
だが、それから僅かな期間で越後に軍を送るほどであったので、その手段はともかくとして、能力には優れたものがあったのであろう。
長可は、あくまでも徳川方に付き反抗する国人衆を容赦なく討ち、その城を落として行く。
だが、そこまで頑なな連中は極僅かであった。
木曾義昌・保科正俊・小笠原信嶺などの、一旦は家康に組みしていた国人衆や旧武田家臣などが次々と侵攻軍へと降伏し、援軍を送って来る。
あまりに呆気ない信濃の徳川家支配の終焉であったが、これには当然裏で動いている人間が複数存在していた。
「畿内全域を領する羽柴秀吉様と、三州のみの徳川殿。普通に考えても、どちらに降るのかは明白かと」
信濃侵攻軍は、外交官として付けて貰った増田長盛などが時には滝川一益と一緒に信濃国人衆への説得を続けて、なるべく直接戦闘を起さないように尽力していた。
「みな様も、武士としての意地がある故に。一戦してからとも考えて当然かと思いますが、先鋒は鬼武蔵殿ゆえに……」
鬼武蔵こと森長可の悪名は、信濃中に響き渡っていた。
結果、実利よりも意地と徳川家への恩を選ぶ連中は少なく、彼らは簡単に降ってしまう。
「鬼武蔵の効果は抜群ですな」
「まあ、何とかと毒は使いようかと……」
そしてそれらの交渉の席には、もう一人後の世に表裏比興の者と評される事となる真田昌幸の姿があった。
彼は、本能寺の変の前までは滝川一益の与力として活躍していて、一益の上野・信濃退去時には木曽まで護衛するほどの仲でもあった。
一益の武士としての矜持に感動しての事であったので、この真田昌幸という人物は決して卑怯なだけの人物ではなかった。
「上杉家からの援軍があるとはいえ。北条との戦いもありますれば、兵を出す事が出来ませぬ。代わりに、甲斐での道案内をいたしましょう」
天正十二年の六月十六日。
上杉家領有の川中島四郡を除く信濃全域を確保した池田恒興を大将とする甲斐侵攻軍は、真田昌幸の道案内で甲斐の新府城、躑躅ヶ崎館と次々と拠点を落として行く。
残されていた徳川家の家臣達や旧武田家家臣達は、駿河に逃げるか、討たれるか、僅かながらが降伏するのみであった。
「次は、駿河を落としてくれるわ!」
先鋒が、あの鬼武蔵こと森長可であったからだ。
「あのう……。どうして、俺も先鋒に? 本当は、秀次様の護衛と補佐を行わないといけないのですが……」
占領した信濃統治のために高遠城に残った秀次と、それを補佐する滝川一益、増田長盛、(旧姓柴田)佐久間勝政、佐久間勝之、真田昌幸の中に入る予定であったシンイチは、なぜか長可と一緒に先鋒として城攻めに参加。
一緒に躑躅ヶ崎館を落としていた。
「一度、我が義弟の武将としての力量を見てみたくてな。さすがは、俺が義弟と見込んだ男」
相変わらずの気に入られようであったが、さすがにこれ以上の進撃はあり得ないよなと思い、彼の家臣である各務元正、大塚丹後守、安田国継、河尻秀長、井戸宇右衛門、妻木頼忠、坪内利定などの旧・新含めた家臣達に視線を送るのだが、彼らは一斉に無言で首を横に振る。
どうやら、自分の主君の性格を良くご存知のようであった。
「目指すは、駿府城だ!」
さすがに、いきなり駿府城攻略は不可能であったが、池田・森軍団はその後も甲斐・駿河国境地帯で血みどろの戦闘を続ける事となる。
シンイチは躑躅ヶ崎館で甲斐の統治を行いながら、彼らが駿河に孤立しないように孤軍奮闘する事となる。
「なぜだ……。なぜ、ここまで追い詰められた……」
信濃・甲斐の喪失と、駿河への池田・森連合軍の侵攻に、徳川家康は一人小牧山の陣地で苦悩する事となる。