断章:Ⅴ 不和
「ミコト様、こちらをどうぞ」
キリエが、湯気の立つマグカップを差し出す。
立ち上る湯気をぼんやりと見つめながら、それを受け取る。
ミコトはキリエの自室へ連れられていた。
マリアはいない。キリエが引き離してくれたからだ。
『マリア。私とミコト様だけで、お話したいことがあります』
『えっ……でも、キリエ。
わたしはミコトさまとスウィン様に、仲良くなって頂きたいのです。
きっと、何かの行き違いがあるだけなのです。
今のままでは、救済の旅路で何か問題が起こるやもしれません……!』
何とかミコトにスウィンへの好印象を持たせようとしていたマリアは、最初こそ離れようとしなかった。
『マリア、貴女には礼拝の時間が迫っているでしょう。
女神様への祈りは、神子たるあなたこそ決して絶やしてはなりません。
勇者様とミコト様の問題については、私にも話は及んでいます。
私が対処いたしますから、貴女は貴女の成すべきことをしなさい』
だが、キリエが毅然とした態度でマリアを諌めた。
召喚された時、司教たちを諌めたそれとも違う。
出会ってからこの数ヶ月間、聞いたことのない声色だった。
『……はい。わかりました……』
育ての親に叱られ強く出られては、マリアもそれ以上食い下がることはできないようだった。
少し肩を落としながら、ミコト達のもとを去っていく。
その後ろ姿を虚ろに眺めながら、ミコトは、胸の奥で確かな安堵を覚えていた。
「この度は、勇者スウィンの暴言、及びマリアの過干渉に貴女を晒してしまい、誠に申し訳ございません」
促された椅子へ座り、湯気の立つ紅茶をほんやりと眺めるミコトにキリエが向かい合う。
協会のかなり奥まった場所にある、キリエの自室。
まだ時刻は昼と夕方の合間で、宿舎を兼ねているらしい棟内はとても静かだった。
最初にミコトを通した部屋は、あくまで応接用の部屋だったようだ。
見てみれば、確かに最初の場所よりは人が生活している気配が感じられる。
渡されたマグカップも、人に出すそれではなく、キリエの私物であることは明らかだった。
「……ミコト様。貴女様は、十分によく努力なさっています。
これは、世辞などではありません。
正真正銘、貴女はずっと、途方もない努力をされています。これは、紛れもない事実です」
長い、長い沈黙ののち、キリエはそう切り出した。
おそらく、スウィンがミコトに吐き捨てた台詞に対する否定だ。
ミコトを徹底的に否定したスウィンとは真反対に、キリエは凛とした声で言い切った。
「毎日祈りを捧げ、魔法の修練に励む姿を見て、貴女を真に努力不足などと思う者は居ません。
……ですが、悲しいことに、一部の者は結果だけを見て判断します。
本当に、愚かな事だと思います。
あなたのレベルが全く上がらないのは、我々としても過去に例がなく、異常事態として捉えています。
通常、貴女がこなしてきた実績なら、レベルも5は上がっておかしくありません。それだけあれば、旅立つには十分です」
レベル、経験値。
それら全て、この三ヶ月でミコトは散々聞いてきた。
経験値を積みレベルを上げれば、この世界の人々は身体能力が上がるのだという。
ミコトが今までゲームで馴染んできた概念が、そのままこの世界には存在していた。
レベルが一つ一つ上がる毎に、全身に力が湧き立ち、以前までの自分とは明確に良い変化が起こった、と確信できる感覚がするから分かる──と、マリアや教会の者達は揃って言っていた。
元々の世界にいた頃から今に至るまで、ミコトはついぞ味わったことのないものだ。
「貴女は、我々がお呼びした、元は異なる世界に生きていたマレビトです。
……これは、憶測でしかありませんが……おそらく、レベルアップの条件も、我々とは異なるのではないかと考えられます」
キリエはそう言って、そっと向かいの席を立ち、ゆっくりとミコトへ歩み寄る。
その段階になって、ミコトはようやく視線をキリエへと向けた。
生気の抜けた表情のないミコトの傍らで床に膝をつき、マグカップを持たされたまま微動だにしないミコトの両手を手を包むキリエは、酷く苦しげな顔でミコトを見上げる。
「……ミコト様、旅立ちの時は迫っています。
1ヶ月後、貴女が勇者様と共に旅立つ事は、女神リリィより定められた運命。
これを変えることは、できません。
抗おうとも必ず、そのようになる。……我々の信じる女神の神託は、そういった、逃れられないものなのです。
貴女は、魔王討伐の鍵になる方です。
今はきっと、その時ではないだけ。
旅の道中で、何かきっかけが見つかるはず、」
「…………どうして、ですか」
「……えっ、……」
「どうして、わたしなんですか」
ぽつりとミコトが呟いた言葉に、キリエの言葉が止まった。
部屋に沈黙が落ちる。ミコトの問いかけから、無音だけが部屋を満たした。
「それ、は、…………」
キリエは懸命に何かを言葉にしようとしたが、やがて気まずげに目を逸らす。
分かっていた反応だ。
この女性は、大規模な組織の重鎮とは思えないほど誠実すぎて、咄嗟の嘘がつけない。
この数ヶ月、率先して世話を焼いてもらっていた事でよく知っていた。
そもそも、ミコトを召喚したという女神自身が答えていない事を、キリエが答えられるわけがない。
そう、なにもかも分かっていた。
分かってはいたが、この数ヶ月ミコトの胸中を埋め尽くしていた疑問を、ぶつけずにはいられなかった。
なんの脈絡もなく、元の帰る手段も不明なままこの世界に呼ばれたこと。
慣れない環境と常識に、一日も早く馴染まなければならないこと。
求められる能力を、素質だけは認められながらも全く発揮できないこと。
それでいて、愛したものとよく似た存在に、役に立たないと突きつけられて、それでも足掻かなければいけないこと。
ミコトがこんな目に遭うほどの何をしたというのか。
それら全てが内包された『どうして』に、キリエは答えるすべを持たなかった。
分かっている。分かっているから、返事が無いことに落胆もない。
そもそも、落胆をするほどの期待も、ミコトにはなかった。
それでも、この世界で唯一優しい彼女に、ミコトのやるせなさをぶつけずには居られなかった。
「…………、……すみません。大丈夫です。
やるって言ったのは自分だから、ちゃんと役割は果たします」
沈黙が部屋を満たし、秒針が何周か刻んだ後。
そう言って、顔を上げたミコトはキリエに微笑んでみせた。
この世界に来てから、笑ったのは初めてだったかもしれない。
キリエから見ればきっと、口が引き攣っているだけの妙な顔に映るだろう。
それでも、それが今のミコトの精一杯だった。
どのみち、ここに呼ばれた時点でミコトに選択の自由はない。
この世界がシナリオ通りに救われるまで、彼らはミコトを元の場所へ戻すつもりもないのだ。
そして、この世界の恐ろしさはミコトも知っている。
今抗って教会を離れたところで、レベル1の力しか持たない自分がひとりで生きていける保証は、限りなく、ない。
それならば、ミコトが夢見た理想の皮を被った何かに詰られようと、善意でミコトの心を踏み荒らす悪魔に首を真綿で締められようと、ゲームクリアに到達し、魔王討伐の使命から解放されるよう努めるのが、やはり今のミコトに出来る最前手だ。
「……ミコト、様……」
ミコトの深まる諦念を前に、キリエは再び何かを言おうとする。
だが、その唇は、かすかに開いては閉じる。
「……女神様は、決して、乗り越えられない試練をお与えにはなりません。
ミコト様のことも、見守っておられます……」
ようやく絞り出された声は、ひどく弱かった。
あまりにも頼りない言葉だ。率直にミコトはそう思う。
それでも、ミコトはキリエの姿に一抹の安堵を覚えた。
彼女はミコトの周囲で唯一、自分たちの都合で拉致同然にこの世界へ呼び寄せた加害者であると思ってくれている。
召喚されてすぐ、ミコトを『マレビト』である前に『一人の少女』として扱ってくれたのは、キリエだけだ。
さも当たり前に世界の命運を左右する戦いへミコトを追い立てる協会の者たちの中で、ミコトを少女としても見ている彼女が、この状況を狂気の沙汰であると、僅かでも思ってくれている。
ミコトにとって唯一、それだけが今の己を肯定してくれていた。
「そうですね。わたしにも乗り越えられるような試練だといいなと、思います」
不安しかない。
今はこうしてキリエがいても、旅に出ればいよいよあの二人と三人旅だ。
だが正直なところ、ミコトは自分が旅の道中で矢面に立つことは無いとほぼ確信していた。
このゲームには、序盤からギルドで仲間を雇うシステムがある。
ミコトが過去していたように、スウィンはそこで仲間を見繕い、気に入らない上にとことん役立たないミコトの事は、さっさと馬車の控えにでも押し込めるだろう。
レベルが1から上がらない癖に強制参加の仲間など押し付けられれば、ミコトでも当然そのようにする。
そうなれば、ミコトのする事は簡単だ。
自分たちだけの世界に浸るスウィンとマリアの邪魔をしないよう、雑用をこなして息を潜めればいい。
自分の作り上げた理想をこの世界に泥塗られた事には、十分絶望し尽くした。
『あれ』はスウィンに限りなく似ているが、ミコトの愛したスウィンではない。
それだけの、単純な話だ。
本物の『スウィン』に会いたかった。
存在を示された日から、ミコトは『スウィン』に心底期待していた。
だからこそ中々会えず、そして会えたその時には、夢にまで見た彼とあまりにかけ離れた姿に、手酷い裏切りだと涙した。
この世界は、ミコトが知っているそれと限りなく似ていて、何処かが決定的に歪んでいる。
過ごした時間と比例して、ひとつずつ露になっていく違和感。
それでも、やるしかない。
一刻も早くこの地獄から解放されるには、どのみち『いつものように』ゲームをクリアする道しか、ミコトには示されていないのだから。




