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断章:Ⅲ 『神子』

最終的に、ミコトはキリエの要求に折れた。

できるだけ気弱に、尻込みする態度を取ってはみた──実際、裏表のない全力の意思表示ではあった──ものの、キリエには信じる女神が求めているミコトを帰す気配が少しもなく、ミコト側が根負けした形だ。


そして、この国の最高権力である大司教がこうなのだから、以下に連なるものに頼み込んでどうにかなる望みは、悲しいかな薄い。


それならば、今のところは彼女らの要求に応えておいて、行動範囲を広げつつ、帰るための手段を自分で探るという結論に至ったのだ。


こうした完全な打算のもと、ミコトが世界救済の旅に承諾した、翌日。

アルカナディアへ召喚されてから10日後でもあった。



「貴女が、ミコト様ですのね。

お会いできる時を、心待ちにしておりました」


キリエの側仕えの従者に連れられて、大教会内の『ガーデン』と呼ばれる屋上庭園を訪れたミコトは、マリアとの邂逅を果たしていた。

この場所は、教会内でも特に重要な場所らしい。

天使がキリエにマリアを託したのも、マリアが神託を受けるのも、この庭園で全て行われてきたのだとキリエが語っていた。


「はじめまして。わたしは、マリアと申します。

女神様より神託を授かり、ミコト様をこの世界へお呼びいたしました」


50メートル四方程の場所全てに満開の花が咲き誇り、小鳥がしきりに囀っている。

どこからか聞こえる弦楽器の音色と、風が木々を陽光があまねく照らす庭は、まるで御伽噺の絵本の中だ。

そして、そんな美しい光景をただの背景にしてしまえる圧倒的な美貌の少女が、東屋の下で微笑みを湛えてミコトを待っていた。


傷みひとつない艶やかな淡桃色の髪は、ゆるやかなウェーブを描きながら腰まで伸びている。

その瞳は長い睫毛に縁取られ、金色の煌めく瞳が甘く綻んでミコトを映した。


「キリエから聞いています。ミコト様も、アルカナディア救済のために力を貸して頂けると。

女神様がお選びになった方ですもの。ミコト様が共に居てくださるのであれば、これ以上心強い事はございませんわ」


マリアはそう言って立ち上がり、入口に立つミコトの元へと歩み寄る。

そして白い指先でミコトの手を躊躇いなく取り、両手に包んで笑みを綻ばせた。


『「勇者様が共に居てくださるのであれば、これ以上心強い事はございませんわ」


その声は、鈴を転がすように軽やかで美しく。

その姿は、爪先にいたるまで穢れなく瑞々しい。

勇者が仲間として同行する事を了承した事で、神子マリアは心底嬉しげに表情を綻ばせる。

それはさながら、春の木漏れ日のようであった──』


マリアの振る舞いに、ミコトの記憶の中で、かつて同じ台詞を読んだ記憶が蘇る。

文面から空想していた世界が、想像通り、あるいはそれ以上の圧倒的な情報量と臨場感をもって目の前に繰り広げられていた。

それは、ミコトにとってかなり奇妙な心地だった。


「は、い。よろしく、お願いします……」


すっかりマリアの調子に呑まれながら、ミコトは固い顔のまま、ぎこちなく挨拶を返す。


純粋な感動はある。

だが、完全に手放しで喜べるかと言えば、そうではない。


ミコトにとって、現実より余程深く愛していた空想の世界。

そこに生きる登場人物達は、誰も彼もが眩しく、必ずどこかに憧れを抱かざるを得ない魅力を持っている。


それに比べ、ミコトは大して褒められたような人間ではない。

高校にも行けなくなって、部屋にとじこもる引きこもり。

教室の匂いと、笑い声と、誰かの視線を思い出すだけで、涙が溢れて喉が締まった。

気づけば、部屋の外に出る理由が、ひとつもなくなっていた。

途方もない無力感と情けなさと後悔で心を腐らせながら、無為に時間を食い潰すだけの毎日。


アルカナディア・クロニクルに没頭していたのも、自分という檻の中から束の間でも逃避できる場所が、ただ心地よかったからだ。

そんな特効薬すらまともに効かず、スマホも手に取れないほど『沈んだ』時の事など、思い出したくもない。


だのに、そんな情けなさの塊の自分が、この綺羅綺羅しい夢の世界にぼんやり立っている。

その強烈な居心地悪さは、現在進行形で筆舌に尽くし難かった。


「(逃げたい……)」


せめて、自分が『彼』であったなら。

ミコトが創造した勇者を通してなら、こんな時でも彼女の期待に完璧に応えて、この感動を余すことなく享受できたのに。


「……、……そうですね、ミコト様にとっては、不安の方が余程大きいと思います」


すっかり黙り込んでしまったミコトに対し、マリアは気遣わしげに眉を下げる。

実際は、ひとつもマリアに非などない。

強いて言えば、よりによってミコトなどを喚び寄せた事は彼女の責かもしれない。

だが、それもあくまで女神の思し召しに従ったまでなのだ。



──大丈夫。受け入れたのは自分なのだから、できる限り協力する。


そう言おうとした唇は、次にマリアが口にした言葉で、完全に凍りついた。


「ですが、大丈夫です。旅に出るまでに、わたしもできる限りミコト様をサポートいたします。


もちろん、貴女のよく知る『スウィン』も、世界救済の要として、全力を尽くしますからね」



世界が、一気に音を失った。



「…………、いま、なんて、……?」


辛うじて絞り出した声は、どうしようもなく震え、掠れていた。

鏡で見なくてもわかる。驚愕と困惑、恐怖で歪んだ、あまりに酷い顔をミコトは晒しているだろう。


「なに、と仰られましても。言葉の通りにございますよ?」


マリアは笑顔だ。むしろ、サプライズが成功した子供のように、金の目を煌めかせている。


「ミコト様。これは運命だと……わたし、確信しているのです」


そっと、祈るように、マリアはミコトの手を胸元へ引き寄せる。


「女神様は、教えてくださいました」

「貴女が、これまで何度も、スウィンを導いてこの世界をお救いくださったことを」

「そして──」


咲いたばかりの花弁よりも柔らかな声と、熱を孕んだ吐息が耳元に触れる。


「貴女が、わたしの愛する『スウィン』を、この世にお創りくださったことも。……だから」


恍惚に蕩けた瞳が、真正面からミコトを射抜く。


「わたし、ずっと……お会いしたかったんです」

「わたし達の、“もうひとりの神様”に」


握る手に大した力はないのに、全く振りほどけない。

つい先程までただ綺麗だとしか感じなかった箱庭が、途端に薄気味悪い白々しさを帯び始める。


「大丈夫です。このことは他言無用だと、女神様より仰せつかっております。誰にも伝えていません」


マリアに言われて、ミコトは漸く気付く。

そう、この場には、ミコトとマリア以外、誰もいない。


ここに来た当初は、極力人払いされた空間を心地良いと思った。

今になって気付く。誰も居ないということは、誰にも助けを求められない。


この状況を証明する第三者がいないということは、この世界で信用が高いものの言葉が真実になる。

つまりこの場においては、呼ばれただけの余所者のミコトではなく、マリアの言葉が、真実のすべてになる。


マリアの微笑みは、どこまでも美しく、優しい。

なのに、翳りのひとつも許さないと言わんばかりに煌めく瞳が、ミコトにとって堪らなく恐ろしかった。


彼女は、ミコトを完全に勘違いしている。

それでいてミコトの事を自分に都合よく補完し、ミコトが完全に否定したとして、『そんなことはない』と認めない。

動悸がする。

胃液がせり上がってきて、頭が鈍く痛む。

この気持ち悪さに、ミコトは覚えがある。



『ねえ、ミコトさん、カナタくんの事好きなんでしょ。

なのに、違うって嘘つくのやめてよ。


あたし、カナタくんのこと好きって言ってたのに。


嘘ついて、あたしの好きな人のことずうっと独り占めするの、やめてほしい……』



相手にとってはそれが真実で、そう思ったのならそれが世界の真実だ。


彼女はとても正しかった。

誰にでも優しい人気者の少女が、初恋の人にしつこく付き纏う邪魔者に心を傷付けられた。

だから、意地悪を繰り返す邪魔者に、こんなことはやめて欲しいと声を上げただけだ。


彼女が正しい。

彼女の幸せを阻む者は悪だ。

彼女はとてもいい人なのに。


おまえが悪い。

あの子にその場所を譲ってあげない、おまえが悪い。


脳裏に反響する、呪いの言葉。

完全に思考が止まったミコトに、マリアはただ心底しあわせそうに笑う。


「ミコト様。どうぞ、末永くよろしくお願いいたしますね」


ミコトの首をやわく締める、太く重い鎖がかけられる音が聞こえた気がした。

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