“失敗を許さなかった世界”
小雨が、静かに窓を叩いていた。
共同執筆ルームに入った律は、
いつもより少しだけ動きが遅かった。
「……雨、降ってるな。」
「……湿度、上がっています。」
火野はそれ以上突っ込まず、
コーヒーを淹れに立った。
律はタブレットを机に置き、
指先を一瞬だけ止める。
(……今日は……
少しだけ……話しても……いいかもしれない……)
◆
作業に入る前の、短い沈黙。
「……あなたは……
どうして……書くようになったのですか。」
不意の問いに、火野は少し驚いた顔をする。
「……逃げ場がなかった、って言っただろ。」
「……その前の話です。」
火野は少し考えてから、肩をすくめた。
「……昔、何やっても中途半端でさ。
褒められた記憶、あんまりない。」
律はその言葉を、静かに受け取った。
「……私も……
似たような環境でした。」
火野の視線が、少しだけ向く。
「……でも、私は……
“何もかもが足りなかった”わけでは……ありません。」
◆
律は、ゆっくりと語り始めた。
「……成績は……
常に上位でした。」
「……ほう。」
「……運動は……
苦手でしたが……
学業と、処理能力だけは……
評価されていました。」
幼い頃から、
“できる子”だった。
「……周囲は……
“期待”と……
“要求”を、
同じものだと……
信じていました。」
失敗すると、
叱られるのではなく、
“失望”された。
「……一度……
大きな……失敗を……しました。」
火野は、黙って聞いている。
「……大会用に……
設計した……
システムが……
本番で……
誤作動を起こしました。」
観客の前。
審査員の前。
仲間の前。
「……誰も……
責めませんでした。」
それが、
いちばん堪えた。
「……代わりに……
皆が……
黙りました。」
火野は、小さく息を吸う。
「……沈黙は……
“怒り”より……
怖いです。」
律の声は淡々としている。
だが、その奥に、
当時の冷えきった感触が残っていた。
「……その日から……
私は……
“失敗しない方法”しか……
選ばなくなりました。」
◆
「……だから……
AI、か。」
火野の声は低かった。
「……はい。
失敗確率を……
限りなく……
ゼロにできる……
唯一の存在でした。」
「……でもさ。」
一拍置いて。
「それでも、
お前は今、
俺と一緒に“失敗するかもしれない作品”を
作ってるよな。」
律は、わずかに目を伏せた。
「……それは……
例外、です。」
「便利な言葉だな。」
「……はい。」
小さく、苦笑が混じる。
「……あなたといると……
“失敗する未来”が……
以前より……
怖くありません。」
その言葉に、
火野は一瞬だけ言葉を失った。
◆
雨は、いつの間にか弱まっていた。
「……だから……
私は……
計算できないものを……
ずっと……
遠ざけてきました。」
「感情もか。」
「……はい。」
「それを今、
真正面から食らってるわけだな。」
「……理論上は……
非常に……非効率です。」
「だろうな。」
けれど、律は続けた。
「……でも……
今は……
その“非効率”が……
怖いだけでは……ありません。」
火野は何も言わなかった。
言葉にしなくても、
それが十分すぎる“変化”だと分かったからだ。
◆
作業再開の合図もなく、
二人は自然に原稿画面へと戻った。
会話は少なく、
けれど空気は、
これまでより少しだけ柔らかい。
失敗を許さなかった世界から、
ようやく一歩、外に出た人間の背中が、
そこにあった。
“失敗を許さなかった世界”




