“触れたあとの距離”
数日後。
共同執筆ルームのドアが、いつもより静かに開いた。
「……おはようございます。」
「……ああ。」
それだけで、空気が止まる。
あの日、
風邪の夜に触れた手の感触が、
まだどちらの中からも消えていなかった。
机に向かうまでの数歩が、
妙に長く感じられる。
(……普通にしろ。
何もなかったみたいに……)
そう思うほど、
視線は自然と逸れてしまう。
◆
タブレットが立ち上がり、
原稿ファイルが開かれる。
「……体調は、もう大丈夫なのか?」
「……理論上は、完全復帰です。」
「その言い方やめろ。」
「……実感としても、大丈夫です。」
ほんの少しだけ、
空気が緩んだ。
それでも、
どちらからともなく、
あの夜の話題には触れられない。
(……触れたのは、俺なのに……)
(……手を離さなかったのは、私なのに……)
同じ記憶を抱えながら、
まったく違う顔で、同じ画面を見ている。
◆
作業はいつもより静かだった。
会話は最小限、
やり取りは必要なことだけ。
「……この一文、
少しだけ……温度が低いです。」
「じゃあ、もう一段、感情足すか。」
「……加減は、
任せます。」
そのやり取りの“普通さ”が、
かえってぎこちない。
昼過ぎ。
コーヒーを淹れに立った火野が、
律の机の横を通る。
ほんの一瞬だけ、
視線が手元に落ちそうになって、
慌てて逸らす。
(……意識しすぎだろ……)
その動きに、
律も気づいていた。
(……なぜ……
目を合わせないのだろう……)
◆
作業の区切り。
「……今日は、
この辺りまでで。」
「ああ……そうだな。」
帰り支度をしながら、
律がためらうように言った。
「……あの……」
「ん?」
一瞬、言葉が詰まる。
「……この前の件……
来てくれたこと……」
火野は黙って聞いている。
「……改めて……
お礼を、したいと……思っていて……」
「礼?」
「……はい。」
少しだけ視線が揺れる。
「……食事でも……
よろしければ……」
火野は一瞬だけ固まってから、
小さく息を吐いた。
「……それって、
“お見舞いのお礼”ってやつか?」
「……そういう……
名目になります……」
「名目って言うな。」
苦笑しながらも、
火野は否定しなかった。
「……いいぞ。」
律の肩が、
ほんの少しだけ緩む。
「……ありがとうございます。」
その声は、
昨日よりほんの少しだけ、
落ち着いて聞こえた。
◆
帰り道。
二人は並んで歩いていたが、
距離は、まだ慎重なままだった。
「……あのとき……」
言いかけて、
火野は言葉を止める。
「……いや、何でもねぇ。」
律は何も聞き返さなかった。
代わりに、
ほんの少しだけ、歩幅を合わせた。
夜風が二人の間を通り抜ける。
まだ、恋と呼ぶには早すぎる。
けれど、
“何もなかったふり”は、もうできない。
その微妙な距離を抱えたまま、
二人は次の約束へと進んでいく。
---




