“熱のある夜、つながる手”
連絡が来なかったのは、丸一日ぶりだった。
共同執筆ルームにも姿を見せない。
メッセージを送っても、既読がつかない。
(……さすがに、変だろ。)
火野はスマホを伏せ、
しばらく迷った末に、部屋を出た。
住所は知っている。
緊急連絡先として、以前に一度だけ共有されていた。
(……余計なお世話かもしれねぇけど……
それでも、何もないよりはマシだ。)
駅前のスーパーで、
スポーツドリンク、ゼリー、簡単なおかゆの素、
解熱シートを買い込む。
袋の中身を見て、自分で少し笑った。
(……完全に看病セットじゃねぇか。)
◆
インターホンを押すと、
少し遅れて、かすれた音が返ってきた。
「……どなた……ですか……」
「……俺だ。」
数秒の沈黙のあと、
鍵の外れる音がした。
ドアの隙間から見えたのは、
いつもよりずっと覇気のない顔だった。
「……来ないで……ください……
感染のリスクが……」
「今さら遅ぇよ。」
火野は袋を持ち上げる。
「連絡つかねぇから、
倒れてんじゃねぇかって思っただけだ。」
律は何か言い返そうとして、
そのまま小さく咳き込んだ。
「……入って。」
部屋は静かで、
少しだけ熱がこもったような空気だった。
◆
布団のそばに座り、
火野は買ってきたものを机に並べる。
「……水分、ちゃんと摂ってるか?」
「……理論上は、
必要量を……満たしているはず……でした……」
「理論じゃなくて、実際に飲め。」
ストローを差し、
スポーツドリンクを差し出す。
律は少し戸惑ってから、
ゆっくりと口をつけた。
「……ありがとう……」
声は弱く、
いつもの張りがまるでない。
火野は、思わず額に手を伸ばしかけて——
一瞬ためらったあと、
そっと触れた。
「……熱、あるな。」
その拍子に、律の身体が小さく揺れた。
「……すみません……
自己管理が……不十分でした……」
「謝るところじゃねぇだろ。」
火野は解熱シートを取り出し、
そっと差し出す。
「貼っとけ。
少しは楽になる。」
律は無言で受け取り、
不器用に額に当てた。
◆
しばらく、二人とも何も言わなかった。
部屋にあるのは、
小さな時計の音と、
ゆっくりした呼吸だけ。
やがて、律がぽつりとつぶやいた。
「……昨日……
私は……あなたを……傷つけました……」
火野は一瞬だけ視線を伏せる。
「……ああ。」
「……でも……
どうして……
“楽しかった”と……言ったのか……
今でも……うまく……理解できなくて……」
火野は、少しだけ苦笑した。
「……別に、理由なんて要らねぇんだよ。」
「……でも……
私は……いつも……理由を探してしまう……」
「それがお前だろ。」
律は、小さく息を整えた。
「……それでも……
今は……少しだけ……
“楽しかった”の意味が……
分かる気がします……」
火野は驚いたように目を向けた。
「……今さらかよ。」
「……はい……今さら……です……」
◆
立ち上がろうとした律が、
少しだけよろめいた。
反射的に、火野が手を伸ばす。
手首をつかむつもりだったのに、
気づけば、
そのまま手を握っていた。
ぎゅっと力を入れたわけでもない。
ただ、離さないという意思だけが、そこにあった。
律は、驚いたように指先を震わせたが、
手を引かなかった。
部屋の空気が、一瞬だけ止まる。
「……あ……」
「……悪い……」
そう言いながら、
火野はすぐに離そうとした。
けれど——
離れる前に、
律のほうから、わずかに力が返ってきた。
ほんの数秒。
それだけで、
十分すぎるほどだった。
「……ありがとう……」
声は小さかったが、
確かに、まっすぐ届いた。
火野はゆっくりと手を離し、
視線を逸らした。
「……今日は無理すんな。
ちゃんと寝ろ。」
「……はい……」
◆
帰り際。
ドアの前で、
火野は一度だけ立ち止まった。
「……連絡くらい、しろよ。
倒れてからじゃ遅ぇんだから。」
「……はい。
今度は……
“理論上”ではなく……
実際に……」
火野は小さく笑った。
「それでいい。」
ドアが閉まる。
一人になった部屋で、
律はそっと、自分の手を見つめた。
(……まだ……
温度が……残っている……)
一方、夜の道を歩きながら、
火野もまた、無意識に自分の手を握っていた。
(……やっちまったな……
でも……)
後悔とは、少し違う。
二人はそれぞれの夜に戻りながら、
確かに同じ“余熱”を抱えていた。




