第2話 目が合う距離
■朝の水路
朝。
ヒカルは、
用水路の点検をしていた。
前に頼まれた仕事の続き。
「……ここ、
少し詰まり気味」
独り言。
言葉は、
もう自然だった。
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■視線
橋の上。
一人の女が、
立ち止まっていた。
中年。
農家の手。
今まで、
ヒカルを見ようとしなかった人。
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■声をかけない
女は、
声をかけない。
ただ、
作業を見ている。
ヒカルは、
気づいていた。
でも、
振り向かない。
仕事を続ける。
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■手が止まる
ヒカルの動きが、
一瞬止まる。
詰まりが、
思ったより固い。
「……少し、
手伝う?」
女の声。
初めて。
ヒカルは、
顔を上げる。
「……お願いします」
迷いのない返事。
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■並ぶ
二人で、
同じ水路を見る。
距離は、
腕一本分。
近い。
女は、
言った。
「……あんた、
怖くないの?」
ヒカルは、
少し考える。
「……怖い、
こともあります」
「それでも?」
「……必要、
だから」
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■変わる呼び方
作業が終わる。
水が、
きれいに流れる。
「助かった」
女は、
ヒカルを見る。
「……ヒカル、
だったね」
名前を呼んだ。
初めて。
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■小さな礼
女は、
かごを差し出す。
「家で採れた野菜。
余ったから」
ヒカルは、
一瞬戸惑い、
受け取る。
「……ありがとう、
ございます」
“ございます”が、
自然に出た。
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■去り際
「また、
何かあったら……」
女は、
言葉を切る。
「……頼んでいい?」
ヒカルは、
うなずく。
「……はい」
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■背中
女が去った後。
ヒカルは、
しばらくその場に立っていた。
視線が、
追いかけていた。
――……ナ……マ……エ……
呼ばれたことが、
胸に残る。
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■父の言葉
夕方。
父が言う。
「……目が、
変わったな」
「……誰の?」
「村のだ」
ヒカルは、
静かにうなずいた。
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■夜のログ
ヒカルは、
記録を書く。
「今日、
名前で呼ばれた」
「それが、
うれしかった」
短いけど、
はっきりした字。
ヒカルは、
もう“噂”じゃない。
目の前にいる存在になっていた。




