第8話:ゴースト・イン・ザ・ワイヤーズ
地下三階、鯖室。
空調の唸りだけが響くその部屋は、レベッカ・ウォンのチームによって、完全に封鎖されていた。神崎は、自分の聖域だったはずの場所で、今はゲストのように隅の椅子に座り、彼らの作業を見守ることしかできない。
レベッカは、防護服も着けず、普段着のままサーバーラックの間を歩き回っていた。その目は、獲物を探す猛禽類のように鋭く、ラックに貼られた管理番号やケーブルの配線、床の僅かな埃の積もり具合まで、全てを記憶に焼き付けているようだった。
「神崎さん」
彼女は、振り返ることなく神崎に話しかけた。
「あなたの最初の違和感について、もう一度詳しく教えて」
「……ネットワーク転送量の、マイクロ秒単位のスパイクです」
神崎は、すでに何度も繰り返した説明を、再び口にした。「北米、欧州、アジアの各リージョンで、ほぼ同時に発生しました。まるで、何かの合図のように」
「そのログは?」
「……消えていました。クリティカル・アラートの後、僕がアクセスした時には、すでに……」
神崎は唇を噛んだ。自分の無力さが、また胸に突き刺さる。
「でしょうね」
レベッカは淡々と頷いた。「彼らは自分たちの足跡を消すプロだもの。だが、どんなプロでも、完璧に全てを消し去ることはできない。雪の上に残った足跡は消せても、雪そのものに与えた僅かな圧力までは消せない」
彼女は自分のラップトップを開き、神崎に見せた。画面には、吸い出したメモリイメージから復元された、事件発生直前のネットワーク・トラフィックの膨大なデータが表示されていた。
「ここから、あなたの言う『合図』を探し出す。藁の山から、一本の針を見つけるような作業よ」
レベッカの指が、驚異的な速さでキーボードを叩き始める。フィルターをかけ、条件で絞り込み、正常な通信パターンを次々と除外していく。神崎も、食い入るようにその画面を見つめた。それは、彼が普段行っている業務の延長線上にある作業だったが、レベッカのそれは、次元が違った。まるで、データの奔流の中に潜り、その流れを肌で感じているかのようだ。
「……いた」
数十分後、レベッカが短く呟いた。
彼女が指し示したのは、ログの中に埋もれた、一つの奇妙な通信パケットだった。
「Heartbeat……?」
神崎は思わず声を上げた。それは、サーバーが正常に稼働していることを外部に知らせるための、ごくありふれた、定期的な信号パケットだった。
「ええ。でも、見て」
レベッカは画面を拡大した。「このハートビート信号、通常のルートを通っていない。VPNやプロキシサーバーを幾重にも経由して、本来ありえない経路でコアデータベースに直接届いている。そして、ペイロード(データ本体)が異常に小さい。まるで……」
「……まるで、モールス信号」
神崎が、レベッカの言葉を引き取った。
「その通り」
レベッカは頷いた。「彼らは、このごく普通のハートビート信号に偽装して、システム深部に潜伏していたマルウェアに『攻撃開始』の最終指令を送ったのよ。マイクロ秒単位のスパイクの正体は、これ。あなたが見たのは、世界中に散らばっていた彼らのスリーパーセル(休眠工作員)が、一斉に目覚めた瞬間の鬨の声だったというわけ」
神崎は、背筋が凍るのを感じた。自分たちのシステムは、いつの間にか敵の兵士たちに占拠され、彼らはただ、攻撃開始の合図を待って眠っていただけなのだ。
「いつから……こんなものが……」
「わからない。数週間前か、数ヶ月前か……あるいは、一年以上前かもしれない」
レベッカは肩をすくめた。「問題は、どうやって最初の『兵士』がここに送り込まれたかよ。侵入経路がわからなければ、同じ扉から第二、第三のレヴァイアサンが入ってくるのを止められない」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。
侵入経路の特定。それは、この広大なデジタルの荒野に、犯人が残した最初の、そして最も微細な足跡を探し出すことに等しい。それは、ただの技術調査ではない。敵の思考を読み、その行動を予測する、知的なゲームだった。
「……一つ、気になることが」
神崎が、記憶の糸を手繰り寄せるように言った。「三ヶ月ほど前、海外子会社のシステムとの連携テストで、一度だけファイアウォールの設定を一時的に変更したことがあります。テスト後、すぐに元に戻したはずですが……」
「その時のログは?」
レベッカの目が、鋭く光った。
「……確認してみます。もし、サーバーが生きていれば……」
神崎は、予備のコンソールに向かった。ログを保管しているアーカイブサーバー。攻撃の主要ターゲットではなかったため、もしかしたら無事かもしれない、という淡い期待を抱いて。
彼は祈るような気持ちで、サーバーへの接続コマンドを打ち込んだ。
数秒の沈黙。
そして、モニターに表示されたのは、`Connection timed out`ではなかった。
`Login incorrect.`
(……生きている!)
パスワードが違う。つまり、サーバー自体は稼働している。攻撃者によって、パスワードが変更されてしまったのだ。
だが、神崎は諦めなかった。彼だけが知っている、システムの裏口。デバッグ用に、彼自身が密かに設定しておいた、管理者権限を持つバックドアアカウント。
彼は周囲を素早く確認し、レベッカにも気づかれないよう、慎重にそのアカウント名とパスワードを打ち込んだ。
Enterキーを押す。
プロンプトが表示され、ログインに成功したことを示すメッセージが、モニターに緑色で輝いた。
神崎は、勝利を噛み締めた。
敵が掌握したと思っているこの遮断域の中で、自分だけが自由に動ける、秘密の通路を見つけたのだ。
彼はすぐさま、三ヶ月前のファイアウォールの変更ログを探し始めた。
敵の最初の足跡は、必ずそこにあるはずだ。
これは、反撃の狼煙になるかもしれない。神崎の心に、エンジニアとしての闘志が、再び燃え始めていた。
彼はまだ知らない。その通路が、やがて彼を、"オリガミ"が仕掛けた、さらに深い罠へと誘うことになることを。




