第7話:静かなる脅迫者
午前九時。
東京株式市場が開くと同時に、アークライト・メディアの株価は、滝のように落下を始めた。
氷川冴子が、外部の法律事務所と協議の上で練り上げたプレスリリース――「大規模なサイバー攻撃を受けた可能性」「現在、外部専門家と協力し調査中」「サービスの復旧は未定」――は、投資家たちの不安を煽るだけの結果に終わった。ストップ安。会社の時価総額が、わずか数分で数百億円も蒸発していく。役員たちは、モニターに映し出された株価ボードを、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
対策本部は、二つのチームに分かれていた。
一つは、レベッカ・ウォン率いる技術調査チーム。防護服に身を包んだ彼女の部下たちが地下の鯖室に入り、神崎の立ち会いのもと、物理的な証拠保全――メモリイメージの吸い出しや、HDDのクローニング作業――を開始していた。神崎は、彼らの無駄のない、外科手術のような精密な動きに、ただ圧倒されていた。
もう一つは、安藤琢磨警部が主導する、警察の捜査チームだ。彼らは人事部から提出させた退職者リストを元に、内部犯行の線の洗い出しを始めていた。特に、過去にサーバーへの管理者権限(root権限)を持ち、会社に何らかの不満を表明していた人物が、リストのトップに上がっていた。
「佐伯 悟……42歳。元インフラ部長。半年前、セキュリティ予算の縮小を巡って久我取締役と対立し、自己都合退職。……ビンゴじゃないですか?」
部下の峰岸が、安藤に耳打ちする。
「泳がせてみますか?」
「いや、待て」
安藤はリストから目を離さずに言った。「まだ早い。尻尾を掴むまでは動くな。だが、いつでも踏み込めるよう、準備だけはしておけ」
そんな喧騒の中、CISOである久我誠一郎は、完全に蚊帳の外だった。技術的な議論にはついていけず、警察の捜査にも口を挟めない。彼にできるのは、ただ自分の無力さを噛みしめることだけだった。
(俺は、一体何のためのCISOなんだ……)
自嘲的な思いが、胸をよぎる。
その時だった。
「久我取締役」
静かな声に呼ばれ、久我が顔を上げた。氷川だった。彼女は、自分のタブレットを手に、久我の隣に立った。その表情は、いつも以上に硬い。
「……見ていただけますか」
氷川が差し出したタブレットの画面には、一通のメールが表示されていた。
差出人は、`origami@leviathan.net`。
件名は、`A single sheet of paper.`(一枚の紙)
久我は眉をひそめた。本文には、英語で、詩のような文章が綴られていた。
The silence is a canvas, waiting for a fold.
(沈黙は、折り目を待つカンバス)
The lines of your servers, a story to be told.
(あなた方のサーバーの列は、語られるべき物語)
We hold the paper. We know its every crease.
(我々はその紙を持つ。その全ての折り目を知っている)
1.5 terabytes of your past, present, and future.
(1.5テラバイトの、あなた方の過去、現在、そして未来)
「……なんだ、これは。悪趣味な悪戯か」
久我は吐き捨てるように言った。
「続きがあります」
氷川は画面をスクロールさせた。そこには、添付ファイルへのリンクが貼られていた。
`proof.zip`
「開くな! トラップかもしれん!」
久我は思わず叫んだ。
「ご心配なく。すでにレベッカさんのチームが、隔離された安全な環境で解析済みです」
氷川は冷静に答えた。「これは、"証拠"です」
彼女がリンクをタップすると、画像ファイルの一覧が表示された。
一枚目を開く。
それは、アークライト・メディアの社内ネットワークの構成図だった。本来、最高機密であるはずの、ネットワークの全体像。
二枚目。
経理システムにログインした状態のスクリーンショット。そこには、昨年度の未公開の決算データが映し出されていた。
三枚目。
「ヘイローストリーム」のクリエイターサポート部の共有フォルダ。人気クリエイターたちの個人情報や、契約書のファイル名がずらりと並んでいる。
久我の顔から、血の気が引いた。全身から、汗が噴き出す。
これは、脅迫だ。金銭を要求するような、生々しい言葉は一つもない。ただ、静かに、そして圧倒的な事実だけを突きつける、最も陰湿で、効果的な脅迫。
メールの末尾には、短い追伸が添えられていた。
We will wait. For you to understand the shape of things.
(我々は待つ。あなた方が、ことの形を理解するまで)
- Origami
「……オリガミ」
久我が、その不気味なハンドルネームを、呪いのように呟いた。
紙を折り、鶴や舟を創り出す、日本の伝統文化。
その名を冠した脅迫者は、アークライト・メディアという巨大な一枚の紙を、今まさに、破滅の形へと折り曲げようとしていた。
金銭の要求はない。期限の指定もない。
ただ、「待つ」という、静かな一言。
その沈黙が、何よりも雄弁に、彼らの絶対的な自信と、アークライト・メディアの絶望的な状況を物語っていた。
このメールは、すぐさま安藤とレベッカにも共有された。
安藤は「ふざけやがって……」と奥歯を噛み締め、レベッカは「……面白い。 彼らは交渉の主導権を完全に握るつもりね」と、冷静に、しかし僅かに目を細めて分析した。
対策本部の誰もが、理解した。
これは、始まりに過ぎない。
"オリガミ"と名乗る静かなる脅迫者は、これから、一枚、また一枚と、この絶望を折り重ねていくつもりなのだと。




