第6話:プロフェッショナルズ
午前七時三十分。
アークライト・メディア本社のロビーは、異様な緊張感に包まれていた。正面玄関は固く閉ざされ、「システムメンテナンスのため」という素っ気ない貼り紙が、早朝に出勤してきた社員たちを無情にも追い返している。
その閉ざされたロビーを、二人の男が横切っていた。
一人は、警視庁の身分証を首から下げた、四十代半ばの男。日に焼け、鋭い目つきをしたその男、安藤 琢磨警部は、まるで獲物を探す狼のように、油断なく周囲を観察していた。
「……ひどいありさまだな」
ロビーの隅で呆然と立ち尽くす社員たちを一瞥し、安藤は吐き捨てるように言った。彼の目には、彼らは被害者ではなく、杜撰な管理で事件を招いた当事者にしか見えていなかった。
もう一人は、安藤とは対照的に、線の細いスーツを着こなした若い男だった。警視庁サイバー犯罪対策課の技術担当巡査部長、峰岸だ。彼はタブレットを片手に、安藤に報告する。
「鑑識のデジタル・フォレンジック班、まもなく到着します。それと、例の民間企業もすでに来ているようです」
「チッ、お偉方が勝手に呼んだお守り役か」
安藤は舌打ちした。彼は、警察の捜査領域に民間の業者が土足で踏み込んでくることを、ことのほか嫌っていた。
彼らが案内された四十二階の対策本部。その扉の前で、一人の女性が腕を組んで立っていた。
年の頃は三十二、三歳。アジア系の顔立ちに、怜悧な光を宿した瞳。体にフィットした機能的なジャケットを着こなし、その佇まいには一切の無駄がなかった。
「警視庁の方ですね。お待ちしていました」
女性は、抑揚のない完璧な日本語で言った。
「ナイトセンチネル社、インシデント・レスポンス担当のレベッカ・ウォンです。これより、我々が貴社のフォレンジック調査を主導させていただきます」
安藤は、その傲慢とも取れる物言いに、カチンと来た。
「あんたがレベッカか。うちはあんたらの手伝いに来たんじゃない。あくまで刑事事件として、証拠保全と犯人逮捕のために来たんだ。そこのところを、履き違えないでもらおうか」
「認識の違いですね、警部」
レベッカ・ウォンは、表情一つ変えずに言い返した。
「私の最優先事項は、クライアントの被害を最小限に食い止め、一刻も早く事業を復旧させること。あなたの最優先事項は、犯人を捕まえること。目的が違う。利害が対立する場合、私はクライアントの利益を優先します。ご理解を」
火花が散るような二人の視線が交錯する。
その時、対策本部の扉が内側から開き、氷川冴子が現れた。
「安藤警部、レベッカさん。お待ちしておりました。こちらへどうぞ。状況は、極めて深刻です」
対策本部に足を踏み入れた安藤とレベッカは、改めて事態の絶望的な状況を目の当たりにした。役員たちは疲れ果てた顔で押し黙り、技術系の社員たちは青い顔でラップトップと睨めっこしている。希望の光は、どこにも見えなかった。
レベッカは、そんな感傷には一切興味を示さなかった。彼女はまっすぐにスピーカーフォンへと向かうと、マイクのボタンを押した。
「地下のサーバー室の方、聞こえますか。ナイトセンチネルのウォンです。名前は?」
『……神崎、です』
スピーカーの向こうから、弱々しい声が返ってきた。
「神崎さん。あなたは今、犯罪現場のど真ん中にいます。いいですか、絶対に、何にも触らないでください。電源も落とさない。再起動など論外です。サーバーに残されたメモリ上の痕跡が、犯人を特定する唯一の手がかりになる。一息、深呼吸して。そして、ただ、待ちなさい。私のチームが、今そちらへ向かいます」
レベッカのその声には、不思議なほどの説得力と、有無を言わせぬ力があった。
絶望の淵にいた神崎の心に、初めて、小さな灯りがともった気がした。
一方、安藤は久我のもとへ歩み寄っていた。
「久我取締役。単刀直入に伺います。今回の件、内部に心当たりは?」
「な……! 我が社の社員を疑うのかね!」
久我は色をなして反論した。
「疑うのが私の仕事です」
安藤は、冷たい目で久我を見据えた。
「神崎とかいう技術者の言によれば、内部犯行の可能性が高いそうじゃないですか。最近、不満を持って会社を辞めた社員はいませんか? 特に、サーバー管理の権限を持っていた人物を、リストアップしていただきたい。今すぐに、です」
警察による捜査。
外部専門家による技術調査。
そして、社内の混乱と疑心暗鬼。
目的も立場も異なる者たちが、一つの密室に集められた。
彼らは、見えざる敵「レヴァイアサン」に立ち向かうためのチームとなるのか。
それとも、互いの足を引っ張り合う、烏合の衆で終わるのか。
夜明けの光が差し込む新宿の摩天楼で、アークライト・メディアの、最も長い一日が始まろうとしていた。




