第5話:午前六時の作戦室
午前六時。
東の空が、インクを水で薄めたように白み始めていた。しかし、アークライト・メディア本社ビル、四十二階の役員会議室には、夜よりも濃い闇が澱んでいた。
急遽設置された「緊急サイバーインシデント対策本部」。
その名ばかりの作戦室は、混乱の坩堝と化していた。
中央の巨大なテーブルには、叩き起こされて寝癖もそのままの役員たちが険しい顔で席に着いている。壁一面のモニターには、本来なら世界中の支社の売上データや、「ヘイローストリーム」の同時接続者数がリアルタイムで表示されるはずだった。だが今、そこに映し出されているのは、絶望的な「NO SIGNAL」の文字だけだ。
「いったいどうなっているんだ、久我取締役! 説明したまえ!」
営業担当の役員が、テーブルを叩いて怒鳴った。
「ヘイストだけじゃない! 書籍の受発注システムも、物流管理も、全部止まっているんだぞ! 今日の朝刊の広告はもう止められないんだ! 書店からの問い合わせで、うちの営業はパンク寸前だ!」
矢面に立たされたCISO、久我誠一郎は、苦虫を噛み潰したような顔で唇を固く結んでいた。彼の手元にあるのは、インフラ部長がまとめた、専門用語だらけで意味の半分も理解できない被害状況の第一報だけだ。
「……現在、原因を調査中だ。どうやら、悪質なコンピュータウイルスによるものらしい」
久我が絞り出した言葉に、別の役員が嘲るように鼻を鳴らした。
「ウイルスだと? この21世紀に、ウイルス一つで我が社の全てが止まるというのかね。君のセキュリティ管理はどうなっていたんだ、CISO殿」
責任追及の空気が、会議室を支配する。誰もが、自分の部門の被害を叫び、犯人捜しに躍起になっている。久我はただ、その非難の矢を全身に受け止めることしかできなかった。
その時、会議室の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、黒いパンツスーツに身を包んだ氷川冴子だった。彼女の冷静で涼やかな佇まいは、このヒステリックな空間において、異質ですらあった。
「失礼します。広報の氷川です」
彼女は誰の許可も得ずに会議室を進み、空いていた末席に腰を下ろすと、持参したタブレットを開いた。そして、久我に視線を向け、静かに、しかし明瞭な声で告げた。
「久我取締役。原因は単なるウイルスではありません。犯行グループは『レヴァイアサン』。近年のランサムウェア攻撃で最も悪名高い集団の一つです。彼らの手口は、データの暗号化と窃取を同時に行うダブル・エクストーション。我々は今、システムを人質に取られているだけでなく、社内の全データが外部に流出するリスクに晒されています」
会議室が、水を打ったように静まり返った。
役員たちの顔から、血の気が引いていくのが見て取れた。データの流出。その言葉が持つ意味を、彼らは痛いほど理解していた。
氷川は続けた。
「現在、SNS上では『ヘイストがサービス終了か』という憶測が飛び交い始めています。午前七時には、ネットメディアが第一報を打つでしょう。午前九時の株式市場が開く前に、我々は公式な第一報を出す必要があります。内容については、現在私が原案を作成中です」
彼女の淀みない説明に、先ほどまで久我を詰っていた役員たちも、言葉を失っていた。誰もが、この事態の本当の深刻さを、今ようやく理解したのだ。
その重苦しい沈黙を破ったのは、会議室に設置されたスピーカーフォンから響いた、若く、そして疲労しきった声だった。
『……対策本部の皆さん、聞こえますか』
声の主は、神崎亮だった。彼は地下のサーバー室――今は「鯖室」と呼ぶのも憚られる、事件のグラウンド・ゼロ――から、唯一生き残っていた内線電話で会議に参加していた。
久我は、藁にもすがる思いでスピーカーに呼びかけた。
「神崎君か! 状況はどうかね! 復旧の目処は!」
『……復旧は、不可能です』
神崎の声は、絶望でひどく掠れていた。
『バックアップも……バックアップサーバーごとやられています。全て、暗号化されて……。これは僕らが知っているランサムウェアとはレベルが違う。まるで、僕らのシステムの設計図を、全て知っていたかのような動きです』
「設計図を知っていた……?」久我が聞き返す。
『はい。ピンポイントで、一番やられたら痛いところ……コアデータベースと、そのバックアップシステムを、同時に、寸分の狂いもなく攻撃されています。まるで……』
神崎は一度言葉を切り、そして、絞り出すように言った。
『……まるで、内部にいる人間の手引きがあったとしか、思えません』
内部犯行。
その言葉が、新たな疑心暗鬼の種となって、作戦室の冷たい空気の中に、静かに蒔かれた。




