第4話:午前四時の電話
午前四時十二分。
東京都世田谷区、閑静な住宅街に佇む一軒家。その二階の寝室で、久我 誠一郎は深い眠りの底にいた。五十八歳。アークライト・メディア取締役 兼 最高情報セキュリティ責任者(CISO)。その重々しい肩書とは裏腹に、彼の夢は、若き日に編集者として奔走した出版社の、インクと紙の匂いに満ちていた。
その心地よい微睡みを無遠慮に引き裂いたのは、枕元で鳴り響くスマートフォンの着信音だった。それも、通常の着信音ではない。会社の緊急連絡用に設定された、耳障りなアラーム音だ。
「……んん」
久我は眉間に深い皺を寄せ、重い瞼をこじ開けた。隣で眠る妻が身じろぎする気配を感じ、彼は慌てて手を伸ばしてスマートフォンを掴んだ。画面には「緊急:インフラ部長」の文字が明滅している。
「……もしもし、久我だ」
寝ぼけ声で応対した彼に、電話の向こうから叩きつけられたのは、切迫した、ほとんど悲鳴のような声だった。
『久我取締役! 大変なことになりました!』
「何事だ。こんな時間に……」
『全システムがダウン! ヘイローストリーム、社内ネットワーク、経理システム、全てが……! 現場の報告では、ランサムウェアによる攻撃とのことです!』
「……らんさむ?」
久我の眠気は一瞬で吹き飛んだ。だが、その言葉の意味を、彼は即座には理解できなかった。ランサムウェア。聞いたことはある。データを人質に取って金銭を要求する、コンピュータウイルスの一種。新聞の経済欄で、時折見かける程度の知識だ。
「落ち着け。ウイルスなら、アンチウイルスソフトがどうにかするだろう。大袈裟に騒ぐな」
そう言いながら、彼はベッドから半身を起こした。胸騒ぎがする。これは、いつものシステムトラブルとは違う。電話の向こうの部長の狼狽ぶりが、それを物語っていた。
『それが……全く手に負えない状況でして……! 犯行声明も出ています! "レヴァイアサン"と名乗るグループからです!』
「ればいあさん……?」
またしても、久我にはピンとこない言葉だった。旧約聖書の怪物。なぜそんなものが、コンピュータウイルスと関係あるのか。
「とにかく、状況を整理して報告しろ。私は三十分で会社に着く。対策本部を立ち上げるぞ」
電話を切り、久我は大きくため息をついた。
(面倒なことになった……)
叩き上げの出版部門出身である彼にとって、ITシステムとは、魔法か、あるいはブラックボックスのようなものだった。便利だが、仕組みはよく分からない。だからこそ、彼は「最高情報セキュリティ責任者」という肩書を、半分は厄介払いのように引き受けていた。専門家たちがよしなにやってくれるだろう、と。
だが、今回は様子が違う。
彼はベッドサイドのランプをつけ、クローゼットへと向かった。
「あなた、どうしたの?」
妻の眠たげな声に、彼は努めて冷静な声で答えた。
「会社で少し、コンピュータのトラブルがあっただけだ。すぐ帰る」
嘘だった。彼の背中には、CISOという肩書が、今まで感じたことのない重さで、ずっしりと圧し掛かり始めていた。
同時刻、港区のタワーマンション、二十五階。
氷川 冴子は、すでにラップトップを開き、状況の把握に努めていた。三十六歳。アークライト・メディア、広報・IR部課長。彼女のスマートフォンには、インフラ部長からの電話の直後、懇意にしている社内の情報筋から、断片的な情報が次々と送りつけられてきていた。
「ヘイスト、完全に沈黙」
「原因はサイバー攻撃。ランサムでほぼ確定」
「犯行声明あり。"レヴァイアサン"」
「地下の鯖室にいる神崎って若いのが第一発見者らしい。相当パニクってる」
氷川は、一切の感情を表情に出さず、ただ淡々とその情報を咀嚼していく。元新聞記者である彼女の頭脳は、危機に瀕した時ほど、冷徹に、そして高速に回転を始める。
(最悪だ……)
彼女が恐れたのは、システムのダウンそのものではない。それは復旧すれば済む。真に恐ろしいのは、「ランサムウェア」という言葉が持つ、二次的な被害だ。
(ダブル・エクストーションの可能性は?)
近年のランサムウェア攻撃は、データを暗号化するだけでなく、事前にデータを窃取し、「身代金を払わなければデータを公開する」と脅す二重脅迫が主流だ。アークライト・メディアは、巨大なメディアコングロマリット。そのサーバーには、ユーザーの個人情報、クリエイターの非公開データ、取引先の機密情報、社員の人事情報、そして世に出る前の出版物や映像のデータまで、ありとあらゆる「情報の爆弾」が眠っている。
もし、それが盗まれていたとしたら――?
氷川の指が、キーボードを叩いた。検索窓に「Leviathan Ransomware」と打ち込む。
検索結果は、彼女の最悪の想定を肯定していた。いくつかのセキュリティ企業のブログがヒットし、そこには「ダブル・エクストーションを常套手段とする、極めて悪質な攻撃グループ」という記述が並んでいた。
(……これは、戦争だ)
氷川は静かにラップトップを閉じた。
これから始まるのは、システム復旧という名の技術戦だけではない。情報を巡る、心理戦。世論を相手にした、広報戦。そして、会社の存亡を賭けた、全面戦争だ。
彼女はクローゼットから、一切の装飾のない、黒いパンツスーツを取り出した。
鏡に映る自分の顔は、いつものポーカーフェイス。だが、その瞳の奥には、これから始まるであろう地獄を直視する、冷たい覚悟の光が宿っていた。
会社が公式に招集するまでもない。
対策本部が立ち上がる頃には、自分は全ての情報を整理し、打つべき手を全てシミュレーションしておく必要がある。
氷川冴子は、誰よりも早く、たった一人で、その見えない戦争の最前線へと向かう準備を始めていた。




