第3話:レヴァイアサン
赤いランプの明滅が、神崎の顔を悪魔のように照らし出す。
耳をつんざくクリティカル・アラートのブザー音と、サーバーラックから響き始めた不規則なファンの高速回転音。それはまるで、断末魔の叫びと喘ぎ声のようだった。
「嘘だ……嘘だろ……!」
神崎はコンソールに、意味のないコマンドを叩き込み続けていた。`ping`、`ssh`、`traceroute`。ネットワークの疎通を確認する、最も基本的なコマンド。だが、どこにも繋がらない。全てのサーバーが、まるで広大なインターネットの海から孤立した島のように、沈黙を続けている。
メインコンソールのモニター群も、次々とその表示を失い始めていた。正常な監視画面はエラー表示に変わり、グラフは意味をなさないノイズとなって途切れ、やがて一つ、また一つと、コンソールとの接続が切れてブラックアウトしていく。
希望が、音を立てて崩れていく。
数分前まで、自分が守っていると信じていたこの青白い聖域は、もはや死の世界だった。
社内チャットには、叩き起こされた同僚や上司からのメッセージが殺到し始めていた。
「神崎! 何が起きている!」
「DBクラスタが全滅だと!?」
「バックアップは生きているのか! 確認しろ!」
だが、神崎には返信する余裕すらなかった。バックアップ? そのバックアップサーバーにすら、もうアクセスできないのだ。
その時だった。
最後まで表示を保っていた、たった一枚のモニター。神崎が直接操作していたメインコンソールのディスプレイが、ぐにゃりと歪んだ。
美しいグラデーションで彩られていたデスクトップの壁紙に、黒いインクが一滴、落とされた。それは瞬く間に、じわりと、しかし抗いがたい力で画面全体を侵食していく。アイコンが消え、タスクバーが溶け落ち、緑色のログが流れていたウィンドウは意味不明な文字列の羅列に変わり、黒い闇に飲み込まれていった。
ブザー音が、唐突に止んだ。
けたたましく回転していた警告灯も、ぴたりと動きを止める。
不気味な静寂が、サーバー室を支配した。
残されたのは、低いファンの唸りだけ。そして、神崎の目の前で、完全に漆黒と化した、七枚のモニター。
「――ッ!」
息を呑む神崎の目の前で、中央のモニターの中心に、白いカーソルが一つ、点滅を始めた。
まるで、誰かがそこに座り、今まさにキーボードを叩き始めたかのように。
一文字、また一文字と、タイプライターが紙を打ち抜くような、乾いた音だけが静寂に響く。
`Hello, Ark-Light Media.`
神崎の思考が、凍りついた。
これは、システム障害ではない。事故でもない。
もっと悪質で、計画的で、冷徹な悪意を持った「誰か」が、今、この場所にいる。ディスプレイの向こう側から、こちらを覗き込んでいる。
文字は、冷酷に続けられた。
`Your sanctuary has fallen.`
(あなた方の聖域は、陥落した)
`Halo-Stream is silent. Your publications are frozen. Your entire network belongs to us.`
(ヘイローストリームは沈黙し、出版事業は凍りつき、あなた方のネットワーク全ては我々のものとなった)
`Patiently, we watched. We learned. We walked through your unlocked doors.`
(我々は辛抱強く観察し、学習し、そして、あなた方が開け放していた扉を通り抜けた)
神崎は、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。開け放していた扉? いったい、いつから。どこから。自分たちは、この聖域は、いつから敵の監視下にあったというのか。
カーソルが、最後の文章を打ち込んでいく。
`All vital data is encrypted. A copy rests safely with us. Do not attempt recovery. Do not attempt to be a hero. You will only make things worse.`
(全ての重要データは暗号化された。そのコピーは我々が安全に保管している。復旧を試みるな。英雄になろうとするな。事態を悪化させるだけだ)
そして、文章の下に、一つの紋章がゆっくりと姿を現した。
それは、自らの尾を喰らおうとする巨大な蛇が、七つの頭を持つ竜を形作っている、禍々しいデザインだった。神話に出てくる、混沌の怪物。
`We are Leviathan.`
(我々はレヴァイアサン)
紋章の下に、最後の、そして最も不気味な一文が、ゆっくりとタイプされた。
`Await the word of Origami.`
("オリガミ"の言葉を待て)
その文字を最後に、モニターは再び完全な漆黒に戻った。
後に残されたのは、絶望的な現実と、神崎亮という一人のエンジニアだけだった。
午前三時。
眠らないはずだった大都市の心臓部で、数百万人の日常と、一つの巨大企業の命運を人質に取った、史上最悪のサイバーテロが、その牙を剥いた瞬間だった。
神崎は、震える手で、ポケットからスマートフォンを取り出した。
チャットアプリを開き、インフラ部長へのダイレクトメッセージの画面を出す。
指が、自分の意志とは関係なく、わなわなと震えていた。
「ランサムウェアです」
「……僕らは、完全に、負けました」
送信ボタンを押した彼の目から、一筋、熱いものが頬を伝い落ちた。
それは、悔しさか、恐怖か、あるいは、自らが守るべきだった聖域を穢された、深い絶望の色をしていた。




