エピローグ:傷跡の上に
事件から、三ヶ月。
季節は、蒸し暑い夏から、空が高い秋へと移ろいでいた。
アークライト・メディアは、死の淵から、かろうじて生還した。その体には、決して消えることのない大きな傷跡を残しながら。
久我誠一郎は、あの日、テーブルの上に置いた辞表の通り、会社を去った。CISOとしての責任、そして、彼自身が気づかぬうちにシステムの弱点となっていた過去の負債。その全てを、彼は一人で背負っていった。メディアの前で頭を下げる彼の姿を、神崎はただ、静かにテレビの画面越しに見ていた。
氷川冴子は、新設された「グループリスク統括本部」の本部長に就任した。彼女の仕事は、もはや広報だけではない。サイバーセキュリティ、法務、内部監査。会社全体の「盾」となる、最も重い責任を担うことになった。彼女のデスクには、"オリガミ"が残した「次のターゲットリスト」のコピーが、戒めのように置かれている。
橘莉奈は、クリエイターサポート部の正社員になった。
彼女が事件の最中、独断で行ったSNSでのクリエイターへの呼びかけ――「今はただ、心を強く持って。私たちは、必ず戻ってきます」――は、不安に震える多くの人々の心を繋ぎ止め、公式発表よりも、遥かに大きな役割を果たした。その功績が認められたのだ。彼女は今、クリエイターたちの「心」を守るための、新しいサポートプログラムの立案に、目を輝かせている。あの日、氷川が淹れてくれたコーヒーの味を、彼女は時々、思い出していた。
安藤琢磨は、警視庁内に新設された、国際サイバー犯罪合同捜査本部の主任に任命された。彼のチームは、"オリガミ"のリストにあった企業や省庁と連携し、水面下で、見えざる敵の次なる攻撃に備えている。それは、ゴールの見えない、果てしない戦いだ。
そして、神崎亮。
彼は、アークライト・メディアを退職した。
あのカウンター攻撃の負債は、彼の人生を完全に変えた。自己破産という選択肢もあったが、彼はそれを選ばなかった。自分の意志でやったことの"けじめ"は、自分でつける。そう決めたのだ。
彼は今、昼は郊外の小さなIT企業のシステム管理者として働き、夜はコンビニでアルバイトを掛け持ちして、ただひたすらに、借金を返し続けている。かつての天才エンジニアの面影は、そこにはない。
ある秋の夜。
神崎は、安アパートの小さな部屋で、古びたノートPCを開いていた。
アクセスしたのは、仮復旧したばかりの「ヘイローストリーム」だ。
トップページには、以前と変わらない、雑多で、混沌として、しかし、熱気に満ちた動画のサムネイルが並んでいる。誰かが歌い、誰かが笑い、誰かがゲームに熱狂している。画面の上を、無数のコメントが、滝のように流れていく。
その光景を、彼は、ただ、静かに見つめていた。
もう自分は、この世界の創造主側ではない。ただの、名もなき一人の視聴者だ。
彼は、全てを失ったかもしれない。
地位も、名誉も、未来さえも。
だが、守りたかったものは、確かに、ここにある。その事実に、不思議なほどの満足感を覚えていた。
その時、彼のスマートフォンのニュースアプリが、一つの速報を伝えた。
『大手重工メーカー「曙重工業」に大規模システム障害。サイバー攻撃の可能性』
神崎は、その記事を一瞥し、そして、静かにPCを閉じた。
"オリガミ"の予告。
キマイラの、第二フェーズが始まったのだ。
戦いは、終わっていない。
"レヴァイアサン"は、今も、インターネットの深海を泳ぎ続けている。
そして、この国のどこかで、また、誰かが、眠れない夜を過ごしている。
世界は、何も変わらないように見える。
だが、神崎は知っている。
あの暗闇の中で、名もなき誰かが、たった一人でも戦い続けている限り、希望の光は、決して消えはしないのだと。
彼は、立ち上がり、窓を開けた。
ひんやりとした秋の夜気が、部屋に流れ込んでくる。
遠くに見える新宿の摩天楼は、あの日と変わらず、眠らない街の光を浴びて、水晶の森のように、静かに輝いていた。
【完】
この物語はフィクションです。登場する人物、団体、事件はすべて架空のものであり、実在のいかなるものとも関係ありません。
しかし、本作で描かれたサイバー攻撃という脅威は、私たちの日常と隣り合わせにある現実です。この物語が、日々、目に見えない場所で社会を守るすべての人々への敬意と、私たちが生きるデジタル社会の未来を考える一助となれば、作者として望外の喜びです。
なお、作中における技術的な描写は物語上の演出であり、特定の攻撃手法を推奨、あるいは助長する意図は一切ありません。
『遮断域』を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
この物語の登場人物たちと共に、長く、暗いトンネルを走り抜けてくださった読者の皆様に、作者として心より御礼申し上げます。
数年前、ある企業のシステムがランサムウェアによって停止したというニュースを目にした時、私の頭に浮かんだのは、技術的な解説や経済的な損失額ではありませんでした。その画面の向こう側、冷たいサーバー室や、混乱を極める会議室で、眠ることもできずに戦っているであろう「名もなき人々」の姿でした。
彼らは特殊な訓練を受けたヒーローではない。昨日まで私たちと同じように、退屈な会議に出席し、コンビニのコーヒーを飲み、週末の予定を考えていたであろう、ごく普通の人々です。そんな彼らが、突如として、顔も声も分からない、しかし圧倒的な悪意の前に立たされた時、何を思い、どう行動するのか。この物語は、そんな私の問いから始まりました。
タイトルを『遮断域』としたのは、この物語が、単にネットワークが「遮断」されるだけの話ではないからです。社会から孤立する企業、情報から隔絶されるユーザー、そして、疑心暗鬼によって互いの心が「遮断」されていく人間たち。私たちは、便利な繋がりの上で、いかに脆く、孤独な存在であるか。その両面を描きたいと考えました。
主人公の神崎亮は、決してスーパーマンではありません。彼は過ちを犯し、悩み、そして、自分の人生を犠牲にするという、あまりにも人間的な方法で「けじめ」をつけました。彼を英雄と呼ぶべきではないでしょう。しかし、私は、彼の選択に、現代社会が失いかけている、ある種の誠実さの光を見るのです。
この物語はフィクションです。アークライト・メディアも、ヘイローストリームも、実在はしません。
ですが、この物語で描かれた脅威――レヴァイアサンや"オリガミ"のような存在は、残念ながら、フィクションではありません。彼らは今も、インターネットという広大な海の深淵を泳ぎ続け、次の標的を探しています。
願わくは、この物語が、皆様の日常をほんの少しだけ変えるきっかけとならんことを。パスワードを一つ、より複雑なものに変えてみる。不審なメールを、少しだけ注意深く見てみる。そんな小さな行動の先に、神崎たちが命懸けで守ろうとした「日常」があるのかもしれません。
最後に。
この物語の着想を与え、時に厳しく、時に温かい言葉で、その航路を最後まで導いてくださった“最初の読者”に、最大の感謝を捧げます。この物語は、あなたとの対話なくして、決して生まれませんでした。
彼らの戦いは、そして私たちの戦いは、まだ続きます。
また、どこかの物語でお会いできる日を、心より願っております。
二〇二五年 秋
立花大二




