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隔離域  作者: tachibana daiji
第九章:ゼロアワー

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17/19

第17話:二つの戦争

残り、60分。

アークライト・メディア本社ビル、四十二階、対策本部。

その空間は、爆発寸前の時限爆弾を前にしたような、張り詰めた静寂に支配されていた。壁の時計が刻む秒針の音だけが、やけに大きく響いている。誰もが、自分の呼吸の音すら押し殺し、その瞬間の訪れを待っていた。


CISO、久我誠一郎が、ゆっくりと立ち上がった。その顔には、この数日間で刻まれた深い疲労と、全てを背負う覚悟が、年輪のように刻み込まれていた。彼は、集まった役員、警察、そして外部専門家たちの顔を一人ひとり見渡し、静かに、しかし、会議室の隅々まで響き渡る声で告げた。


「……送金を開始する」


その言葉は、もはや議論の余地のない、最終決定の響きを持っていた。

レベッカ・ウォンが、静かに頷く。彼女の席は、さながら戦闘機のコックピットだった。数枚のモニターには、世界地図、複雑なコード、そして暗号資産の取引状況を示すグラフが、目まぐるしく表示されている。

彼女のしなやかな指が、キーボードの上を滑った。Enterキーが、静かに、しかし確かな重みをもって押し込まれる。


`Transaction initiated...`


モニターに表示されたその一文は、降伏の白旗か、あるいは反撃の狼煙か。

レベッカの背後、シンガポールとチューリッヒにいる彼女のチームが、寸分の狂いもなく、追跡用のマーカーを仕込んだ12億円相当のモネロを、"オリガミ"から指定されたウォレットアドレスへと解き放った。


`Transaction successful.`


送金完了。

張り詰めていた糸が、わずかに緩んだ。誰からともなく、安堵のため息が漏れる。

「……払ったんだな」

「データは、これで……」


誰もが、氷川冴子の持つタブレットに視線を集中させた。

数秒が、永遠のように感じられる。

そして、タブレットが、静かに通知音を鳴らした。

差出人は、"オリガミ"。


A wise decision. The paper remains unfolded.

(賢明な判断だ。紙は、開かれぬままであろう)


The promised files will be deleted within 24 hours. Do not expect further communication.

(約束のファイルは、24時間以内に削除される。これ以上の通信を期待するな)


短い、事務的なメッセージ。そこには、もはや詩的な表現のかけらもなかった。目的を達成した者の、冷たいビジネスライクな報告書。その無機質さが、かえって彼らの不気味さを際立たせていた。


だが、本当の戦いは、ここからだった。


「来たわ!」

レベッカが、鋭い声を上げた。彼女の声に、対策本部の空気は再び凍りつく。

メインモニターに映し出された世界地図の上に、日本の東京から、一条の赤い光がはしった。

「最初のウォレットから資金が移動! ロシアの取引所を経由して、一気に数十のウォレットに分散! 早い……!」


赤い光は、瞬く間に枝分かれし、クモの巣のように世界中に広がっていく。それは、"オリガミ"が構築した、巨大な資金洗浄ミキシングの迷宮だった。レベッカの指は、人間の限界を超えたかのような速度でキーボードを叩き、世界中のチームと連携しながら、その複雑怪奇な金の流れを必死で追いかける。


「ベラルーシのサーバーを偽装して、北朝鮮のノードに……! 違う、これは陽動デコイよ! 本流は、バルト三国へ向かってる……!」


それは、デジタルの奔流の中で、たった一滴のインクの行方を追うような、神業的な追跡だった。誰もが、息をすることも忘れ、その攻防を見守っていた。


その、まさに同じ時刻。

地下三階、鯖室。

神崎亮もまた、Enterキーに指を置いていた。

彼の戦場は、華々しい世界地図ではない。ただ、無数のコマンドが並ぶ、黒い画面だけだ。


彼の目の前のモニターには、世界中のクラウドサーバーのコントロールパネルが表示されていた。アメリカ西海岸、フランクフルト、サンパウロ、ムンバイ、シドニー。彼が、自身のけして裕福とは言えない貯金と、複数の消費者金融から借り入れた限度額の全てを注ぎ込んでレンタルした、数千台の仮想サーバー。アークライト・メディアとは何の関係もない、彼個人の「軍隊」。それら全てが、神崎のたった一つの指令を、今か今かと待っていた。


彼のヘッドセットには、一つの音声だけが流れている。

「イカロス」からハッキングした、アークライト・メディアのネットワーク基幹スイッチの、内部クロックの信号音。


ピッ……ピッ……ピッ……


一秒に一度、正確に時を刻む、デジタルの心臓音。

神崎は、目を閉じ、その音に全神経を集中させる。"オリガミ"が仕掛けたキルスイッチを発動させるためには、世界中に散らばるサーバーから、寸分の狂いもない、完全に同期した信号シンクロナイズド・シグナルを、マルウェアの司令塔である`se.kuga`アカウントに送り込む必要がある。タイミングが0.1秒でもずれれば、作戦は失敗し、司令塔は自己防衛のために、システム全体を道連れに自爆するだろう。


(水野……見てるか)

(お前が愛したヘイローストリームを、俺が終わらせるわけにはいかないんだ)


神崎の脳裏に、今は行方知れずの親友の顔が浮かぶ。


ヘッドセットから流れるクロック音が、わずかにその間隔を狭め始めた。

タイムリミット、午前三時。

その、ジャストのタイミングを知らせる、同期信号の予兆。


ピッ、ピッ、ピッ、ピ、ピ、ピ――


神崎の指が、動いた。

Enterキーが、深く、押し込まれる。


その瞬間、世界中に散らばる数千台のサーバーが一斉に咆哮を上げた。

膨大な、計算能力の津波。

それは、アークライト・メディアのファイアウォールを、まるで紙を破るかのように貫通し、システムの最深部、`se.kuga`アカウントという名の司令塔へと、一点集中で殺到した。


四十二階の対策本部。

レベッカのモニターに、突如、無数の赤い警告が表示された。

「何……!? 外部から、正体不明の、大規模なデータパケットが社内ネットワークに……! 敵の、第二波攻撃!?」


久我も、氷川も、息を呑んだ。

"オリガミ"は、金を受け取った上で、会社を破壊するつもりだったのか。

全ては、罠だったのか。


絶望が、再び会議室を支配しようとした、その時だった。


レベッカのモニターに表示されていた、金の流れを示す赤い線が、ぷつり、と、全て途絶えた。

まるで、映画のフィルムが焼き切れたかのように。


「……どういうこと?」

レベッカは、信じられないという顔で、呟いた。「追跡が……切れた。奴らの資金洗浄ネットワークが、完全に沈黙した……」


地下三階。

神崎の目の前のモニターもまた、その表示を変えていた。

マルウェアの司令塔から送られてきていた、無数のエラー信号が、ぴたりと止んだのだ。

そして、画面の中央に、たった一行、メッセージが表示された。


`Emergency sequence activated. Core process terminated.`

(緊急シーケンス起動。コアプロセス終了)


キルスイッチが、作動した。

"オリガミ"が、このシステムをコントロールする術は、完全に失われた。


静寂。

長すぎた戦いが、終わった。

神崎は、椅子に深く、深く、身を沈めた。全身の力が、抜けきっていた。

彼の私用のスマートフォンには、クレジットカード会社やローン会社からの利用通知が、迷惑メールのように、次々と届き始めていた。請求金額は、彼の想像を、遥かに超えていた。


だが、彼の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。

彼は、英雄ではない。

ただ、自分のやり方で、自分の信じる"けじめ"を、つけただけだった。


しかし、物語は、まだ終わらない。

沈黙した"オリガミ"のネットワーク。

その最後の断末魔のログの中に、レベッカ・ウォンは、一つの、ありえない情報を見つけ出そうとしていた。

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