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隔離域  作者: tachibana daiji
第九章:ゼロアワー

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第16話:折り鶴の羽音

残り、12時間。

タイムリミットが、容赦なく迫っていた。

対策本部の空気は、鉛のように重い。誰もが疲労の色を隠せず、短い言葉だけが、時折、行き交っていた。


氷川冴子は、CISOである久我の命令通り、"オリガミ"との交渉を続けていた。

それは、神経をすり減らす、薄氷を踏むような作業だった。


`[氷川] Payment requires board approval. We need more time.`

(支払いは取締役会の承認が必要です。もう少し時間が必要です)


`[Origami] The board should consider the cost of inaction. The clock is ticking.`

(取締役会は、何もしないことのコストを考慮すべきだ。時計の針は進んでいる)


`[氷川] The amount is too large. Can you consider a reduction?`

(金額が大きすぎます。減額は検討できませんか?)


`[Origami] Art has its price. This is ours. 12 hours remain.`

(芸術には相応の値段がある。これが我々の値段だ。残り12時間)


"オリガミ"の返信は、常に即座で、そして冷徹だった。一切の揺らぎも、感情も見せない。氷川の繰り出す時間稼ぎの小細工は、まるで巨大な岩にさざ波を当てるかのように、ことごとく無力化された。

(まるで、AIと話しているみたいだ……)

氷川は、底知れない不気味さを感じていた。


一方、安藤率いる警察の捜査も、完全に行き詰っていた。

指名手配された水野圭の足取りは、都内の防犯カメラの映像を最後に、ぷっつりと途絶えている。彼の銀行口座にも、クレジットカードにも、一切の動きはない。まるで、神隠しにでもあったかのようだった。


「クソッ……プロの逃がし屋でもついているのか……」

安藤は、苛立ちを隠さずに吐き捨てた。彼は、水野という「実行犯」の背後に、より巨大な組織――レヴァイアサン――が存在することを認めざるを得なくなっていた。だが、その尻尾は、未だに掴めていない。


タイムリミットだけが、確かな現実として、彼らの喉元にナイフを突きつけていた。


ついに、久我誠一郎が、重い決断を下した。

役員たちを前に、彼は静かに、しかし力強く宣言した。

「……支払おう」


会議室が、どよめいた。

「取締役! 時間稼ぎをするのではなかったのですか!」

「警察との約束はどうなるんですか!」


「状況が変わった」

久我は、反対の声を、低い声で制した。「警察は、水野を捕まえられていない。時間稼ぎも、もはや限界だ。これ以上、データを公開させるわけにはいかん。……これは、経営判断だ」


安藤は、その決定に激しく反発した。

「ふざけるな! テロリストに屈する気か!」


「これは、屈するのではない。戦うための、準備だ」

久我は、安藤の目を真っ直ぐに見据えた。「安藤警部。あなた方の捜査には、今後も全面的に協力する。だが、我々には、我々の守るべきものがある」

彼は、レベッカ・ウォンに視線を移した。

「レベッカさん。……あなたの言っていた、例のプラン。実行できるかね?」


レベッカは、静かに頷いた。

「マーカーを仕込んだ暗号資産コインですね。準備は、すでに整っています」


久我の決断。それは、単なる降伏ではなかった。

表向きは身代金を支払い、データ公開を阻止する。しかしその裏で、レベッカの技術を使い、送金した金の流れを追跡し、犯人の資金源を叩く。警察の捜査とは別の、もう一つの「戦争」を始めるという、あまりにも危険な賭けだった。


「送金は、タイムリミットの一時間前に行う」

久我は、最終的な指示を出した。「氷川君、犯人側に、支払いの意思があることを伝えろ。ただし、送金プロセスの確認に時間を要するなど、ギリギリまで粘るんだ。レベッカさん、あなたは送金の準備と、追跡チームとの連携を。安藤警部……不本意かもしれんが、今は、我々の動きを見守っていただきたい」


それぞれの持ち場へ、人々が散っていく。

久我は、一人、誰もいなくなった会議室で、窓の外に広がる新宿の夜景を見つめていた。

(これで、よかったのか……)

自問自答する。だが、もう後戻りはできない。

彼の脳裏に、若い頃の、ある記憶が蘇っていた。自分が編集者として担当していた老作家が、最後の原稿を書き上げた後、静かに言った言葉だ。

『久我君。物語で一番大事なのはな、"けじめ"のつけ方だよ』


久我は、ポケットから一枚の辞表を取り出し、静かにテーブルの上に置いた。

これは、自分のCISOとしての、そして、アークライト・メディアの社員としての、最後の"けじめ"のつけ方だった。


その時、彼の知らない地下三階では。

神崎亮が、ついに、最後の扉を開けようとしていた。


彼は、「イカロス」から放った探針で、`se.kuga`アカウントの異常な動きを、ずっと監視し続けていた。そして、ついに、その動きのパターンの中に、ある法則性を見出したのだ。

それは、レヴァイアサンがシステムを暗号化するために使った、マルウェアの構造そのものだった。


`se.kuga`アカウントは、単なる侵入経路ではない。

それは、マルウェアが自己増殖し、システム全体に感染を広げるための「司令塔(コマンド&コントロールサーバー)」として機能していたのだ。


そして、神崎は、その司令塔のプログラムコードの中に、設計者である"オリガミ"が仕掛けた、たった一つの、しかし致命的な「折り目」を発見した。

それは、システムに過剰な負荷がかかった場合に、マルウェア自身が暴走して崩壊するのを防ぐための、緊急停止シーケンス(キルスイッチ)だった。


だが、そのキルスイッチを発動させるためには、膨大な計算能力を持つサーバー群から、特定の信号を、寸分の狂いもなく、同時に送り込む必要がある。

そんなことをすれば、アークライト・メディアの残されたサーバーは、全て焼き切れて再起不能になるだろう。まさに、諸刃の剣。


(……いや、待てよ)

神崎の脳内に、閃光が走った。

(うちのサーバーじゃなくてもいいんだ……)


彼は、キーボードを叩いた。

開いたのは、ヘイローストリームの管理画面ではない。

世界最大のクラウドコンピューティングサービス。そのコンソール画面だった。

神崎は、ポケットから私用のクレジットカードを取り出した。


会社のサーバーを犠牲にするのではない。

自腹で、世界中に散らばるクラウドサーバーを、数分間だけ、限界までレンタルするのだ。そして、その計算能力の全てを、キルスイッチの発動のためだけに、一点集中させる。

費用は、おそらく数百万、いや、数千万円になるかもしれない。彼の一生をかけても、払えないほどの借金。


だが、神崎の目に、迷いはなかった。

水野を救うため。

そして、この忌まわしい事件に、一人のエンジニアとして、"けじめ"をつけるために。


残り、2時間。

ゼロアワーは、刻一刻と、迫っていた。

地上四十二階と、地下三階。

二人の男が、それぞれのやり方で、会社の、そして自分自身の運命を賭けた、最後の戦いの準備を、静かに進めていた。

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