第15話:沈黙の共犯者
`se.kuga`
モニターに浮かび上がったその文字列を、神崎は何度も見返した。
間違いではない。最高情報セキュリティ責任者(CISO)、久我誠一郎のアカウント。それが、長年にわたり、このシステムの「汚染源」だった。
(……久我が、黒幕なのか?)
その考えが頭をよぎった瞬間、神崎は即座にそれを打ち消した。
ありえない。あのIT音痴の男が、こんな手の込んだサイバー攻撃を計画できるはずがない。スピーカーフォン越しに聞こえてくる、あのうろたえきった声。あれが、全て演技だとは到底思えない。
ならば、これは一体何を意味するのか。
レベッカが言っていた。アカウントの乗っ取り、休眠アカウントの悪用。あるいは、水野か、"オリガミ"による、巧妙な偽装工作。
いずれにせよ、確かなことは一つだけだ。
この情報を今、対策本部に報告すれば、組織は間違いなく崩壊する。
CISOが、セキュリティホールそのものだった。
そんな醜聞が外部に漏れれば、会社の信用は完全に失墜する。株価は紙くずになり、取引先は一斉に手を引くだろう。身代金を支払う、支払わないというレベルの話ではなくなる。アークライト・メディアという企業の、社会的な死だ。
(……言えない)
神崎は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
真実を口にすれば、会社を破壊する引き金を、自分が引くことになる。
だが、黙っていれば?
真犯人の思惑通り、捜査は水野という「トカゲの尻尾」を追うだけで終わり、根本的な原因は闇に葬られる。そして、この「se.kuga」アカウントという爆弾を抱えたまま、会社は虚構の平和を取り戻すのだろう。
どちらを選んでも、待っているのは破滅だった。
神崎は、自分が、誰にも共有できない、あまりにも重すぎる真実を抱えてしまったことを悟った。
彼は今や、ただのエンジニアではない。
この会社の運命を左右する、時限爆弾の信管を、たった一人で握りしめてしまったのだ。
彼は、静かに「イカロス」からログアウトし、全てのアクセス記録を消去した。そして、何事もなかったかのように、錆びついた鍵をキーボックスに戻し、鯖室の隅の自分の席へと戻った。
その顔には、一切の感情が浮かんでいなかった。
だが、彼の内面では、激しい嵐が吹き荒れていた。
水野を救いたいという思い。
会社を守らねばという責任感。
そして、久我への、言いようのない不信感。
それら全てが、彼を「沈黙の共犯者」へと変えていた。
「神崎さん」
背後から、レベッカの声がした。彼女は、コーヒーの入った紙コップを二つ持っていた。
「顔色が悪いわよ。少し、休んだら?」
彼女は、一つのカップを神崎に差し出した。
「……ありがとうございます」
神崎は、それを受け取り、一口飲んだ。苦い液体が、乾いた喉を潤していく。
レベッカは、神崎の隣に腰を下ろし、自分のラップトップを開いた。
「……侵入経路の特定、難航しているわ。まるで、最初からそこにいたみたいに、痕跡が全くない」
彼女は、独り言のように呟いた。
神崎は、ドキリとした。
(彼女なら……レベッカさんなら、この真実を打ち明けてもいいんじゃないか?)
彼女は外部の人間だ。社内の政治や人間関係に縛られない、客観的な判断ができるはずだ。
神崎は、意を決して口を開きかけた。
「あの、レベッカさん。実は……」
だが、その言葉は、彼女の次の言葉によって、喉の奥に押し戻された。
「……でも、一つだけ分かったことがある」
レベッカは、神崎の方を見ずに、画面を睨みつけたまま言った。
「"オリガミ"は、私たちが内部調査を進めることも、警察が元社員を追うことも、全てお見通しよ。まるで、この対策本部の会話を、どこかで聞いているみたいに」
盗聴。
その可能性に、神崎の全身が強張った。
「彼らは、私たちを掌の上で踊らせている。私たちが何かを見つけるたびに、彼らは次の手を打ってくる。それは、情報を小出しにして、私たちの間に不信感を生み、内部から崩壊させるのが目的なのかもしれない」
レベッカは、そこで初めて、神崎の目を真っ直ぐに見た。
「だから、神崎さん。もし、あなたが何か、決定的な『何か』を見つけたとしても……それを誰に、どのタイミングで話すか、細心の注意を払いなさい。あなたの後ろには、もう味方はいないかもしれない」
それは、警告だった。
そして、神崎には、レベッカが全てを見抜いているかのような気がしてならなかった。
彼女は、神崎が何かを隠していることに、気づいている。そして、その沈黙を、今は肯定してくれている。
神崎は、ただ、黙って頷くことしかできなかった。
彼とレベッカの間に、言葉のない奇妙な共犯関係が生まれた瞬間だった。
残り、35時間。
破滅へのカウントダウンが続く中、神崎の孤独な戦いは、さらに深い闇へと、その舞台を移そうとしていた。
彼は、英雄でもなければ、裏切り者でもない。
ただ、真実という名の毒を飲み込み、平然と日常を演じ続けなければならない、沈黙の共犯者だった。




