第14話:プロジェクト・イカロス
残り、36時間。
地下三階、鯖室の隅。神崎亮は、たった一人、孤独な旅を続けていた。
彼の意識は、現実世界の時間の流れから切り離され、膨大なログとデータの海の中を、ただひたすらに彷徨っていた。
水野が残した言葉――「プロジェクト・イカロス」「深層区画」。
それは、あまりにも漠然としたヒントだった。アークライト・メディアのシステムは、長年の増改築を繰り返した巨大な迷宮だ。公式な設計図に載っていない、忘れ去られた領域など、無数に存在する。
神崎は、自分が確保したログサーバーの中を、ひたすらに掘り進めていた。
キーワードは「Icarus」。
だが、検索をかけても、公式に削除されたプロジェクトの痕跡など、簡単に見つかるはずもなかった。
(水野なら、どうする……?)
神崎は、思考の主体を、親友でありライバルだった男に切り替えた。
『神崎、お前のコードは真面目すぎるんだよ。もっと遊びがないと』
そう言って、水野はよく、システムの中に、自分だけが分かる「イースターエッグ」のような、遊び心のある署名を残していた。
(署名……? そうか、あいつの……)
神崎の指が、再びキーボードを叩き始めた。
彼が検索窓に打ち込んだのは、プロジェクト名ではない。
`sg-mzn`
水野圭。そのイニシャルだ。水野は、自分が書いた重要なコードのコメント欄に、必ずこの署名を残す癖があった。
Enterキーを押す。
数秒の検索の後、モニターに、たった一行、結果が表示された。
それは、4年前に記録された、古いバックアップシステムの動作ログだった。
そのログの中に、開発者による注釈として、その文字列は埋もれていた。
`// sg-mzn: Test env snapshot backup. Do not delete. Path mapping to deep archive SA-1337.`
(// sg-mzn: テスト環境のスナップショットバックアップ。削除不可。深層アーカイブSA-1337へパスをマッピング)
「……あった!」
神崎は、思わず声を上げていた。
SA-1337。SAはストレージ・アレイ(Storage Array)の略だろう。1337は、ハッカーたちが使う隠語(LEETスピーク)で、「ELITE」を意味する。いかにも、水野らしい遊び心だった。
問題は、その「SA-1337」が、物理的にどこに存在し、どうアクセスするかだ。
公式な資産管理台帳に、そんな番号のストレージは存在しない。
神崎は、会社の古いネットワーク構成図を、記憶の底から引っ張り出した。研修時代、水野と二人で、穴が開くほど眺めた、あの配線図だ。
(……まさか)
一つの可能性に思い至り、神崎の背筋がぞくりとした。
本社ビルが建設された当初、予備の予備として設置されたが、コストの問題で一度も使われることなく、物理的にネットワークから切り離されたはずの、オフラインのテープストレージライブラリ。
通称、「霊安室」。
もし、水野がそこに「イカロス」を隠したのだとしたら。
それは、ネットワーク上からは決してアクセスできない、完全な聖域だ。
そして、その「霊安室」に入るための物理的な鍵と、システムを起動するための管理者パスワードは、数年前から更新されることなく、当時のインフラ部の特定の人間だけが知る、口伝の情報として残っていた。
神崎と、水野だけが知る、古のパスワード。
彼は、静かに立ち上がると、鯖室の壁に設置された、物理キーボックスへと向かった。対策本部の混乱の中、もはや誰も、こんな古い設備の鍵を管理している者はいなかった。
「非常用」と書かれた札の下に、一本の、錆びついた鍵がぶら下がっている。
その鍵を手に、神崎は鯖室のさらに奥、冷たい空気とカビの匂いが漂う、忘れ去られた一角へと足を踏み入れた。
鉄の扉に刻まれたプレートには、「D-Storage Area 04」とだけ書かれている。ここが「霊安室」だ。
鍵を差し込み、回す。
ぎ、と、長い間使われていなかった錠前が、悲鳴のような音を立てた。
扉を開けると、ひやりとした空気と共に、無数のバックアップテープが収められた、巨大な機械が姿を現した。
神崎は、ライブラリに接続された、埃をかぶったコンソールに電源を入れた。
古めかしいOSが起動し、パスワードの入力を求めるプロンプトが点滅する。
神崎は、目を閉じ、深呼吸した。
そして、キーボードに指を置いた。
`Icarus_has_fallen_1999`
それは、研修時代、二人が初めてシステムをクラッシュさせた日に、自戒を込めて設定した、思い出のパスワードだった。
`Authentication successful.`
認証成功。
モニターに、見慣れたコマンドラインが表示された。
神崎は、暗闇の中に、一条の光を見出した気がした。
彼はすぐさま、この聖域から、本番環境のネットワークに、観測用のプローブ(探針)を放った。
「レヴァイアサン」のマルウェアからは、絶対に検知されない場所からの、一方的な監視。
まるで、神の視点を得たかのようだった。
そして、彼は見てしまった。
"オリガミ"が残した、完璧すぎるがゆえの、「不自然さ」を。
マルウェアは、システム全体を掌握しているように見えた。だが、たった一つだけ、決して手を出さない領域があったのだ。
それは、旧式の給与計算システムが稼働している、人事部の古いサーバーだった。なぜ、攻撃者たちは、社員の個人情報が詰まったその宝の山を、見逃しているのか。
いや、違う。見逃しているのではない。
意図的に、避けているのだ。
まるで、そこに、触れてはいけない「何か」があるかのように。
そのサーバーの管理者ログを、神崎は「イカロス」から覗き見た。
そして、そのログの中に、一つの奇妙なアクセスパターンを見つけた。
一日に一度、深夜三時ちょうどに、必ず、ある一つのアカウントが、海外のVPNサーバーを経由して、この給与システムにアクセスし、何らかのデータを参照している。
そのアクセスは、今回の事件が起きる、ずっと以前から――水野が退職する、さらに前から――延々と、機械のように正確に、繰り返されていた。
それは、水野の仕業ではない。
もっと古くから、この会社のシステムに巣食っていた、未知の寄生虫。
神崎は、愕然とした。
この事件は、水野の復讐劇などではなかった。
「レヴァイアサン」は、外部から来た侵略者ではなかったのだ。
彼らは、ずっと、この会社の中にいた。
そして、その寄生虫のアカウント名を見た瞬間、神崎は、全てのピースが繋がる、恐ろしい感覚に襲われた。
アカウント名は、`se.kuga`。
久我誠一郎。
CISOである彼の名前が、そこにはっきりと刻まれていた。




