第13話:鳴り止まない電話
アークライト・メディア本社ビル、十七階。
そこは、ヘイローストリーム運営本部、クリエイターサポート部のオフィスだった。かつては、若いスタッフたちの笑い声と、人気クリエイターたちの配信動画の音声で活気に満ちていたその場所は、今や静まり返り、まるで墓場のようだった。
システムの完全停止により、社員のほとんどは自宅待機を命じられている。だが、ごく一部の人間だけが、特別に出社を許可されていた。
橘 莉奈、22歳、契約社員。彼女も、その一人だった。
彼女の任務は、クリエイターからの問い合わせに対応すること。
それは、会社が公式に設置したコールセンターではない。彼女が個人的に担当している、数十人のクリエイターたちからの、悲痛な叫びを受け止める、ただ一つの窓口だった。
彼女のデスクに置かれた業務用スマートフォンが、ひっきりなしに震えている。表示されるのは、彼女が愛し、尊敬するクリエイターたちの名前ばかりだ。
「……はい、橘です。……ごめんなさい、ミカさん。まだ、復旧の目処は……。ええ、ええ、わかっています。来月のイベントで発表するはずだった新曲のデータですよね……。本当に、申し訳ありません……」
電話を切ると、すぐに次の着信が鳴る。今度は、ゲーム実況で人気の、まだ学生のクリエイターからだった。
『橘さん! 俺、どうなっちゃうんですか!? ダークウェブに、俺たちの個人情報が全部載ってるって、本当なんですか!? 住所とか、本名とか……俺、もう配信できないかもしれない……』
「大丈夫、大丈夫だから。落ち着いて」
莉奈は、そう言うのが精一杯だった。大丈夫な根拠など、何一つない。彼女自身、いつ自分の個人情報が晒されるか、恐怖で眠れない夜を過ごしているのだ。
橘莉奈は、ヘイローストリームのヘビーユーザーだった。一人のファンとして、この場所で生まれる文化を愛していた。無名の絵師がスターになり、引きこもりだった少年がゲーム実況で自分の居場所を見つける。そんな奇跡を、何度も見てきた。その奇跡を支える側になりたくて、彼女はこの会社に入ったのだ。
だが、現実はどうだ。
今、彼女がしていることは、ただひたすらに、頭を下げることだけ。会社からは「復旧の目処は未定とだけ伝えろ」「情報漏洩については肯定も否定もするな」という、冷たいマニュアルが渡されているだけだ。クリエイターたちの心に寄り添うことなど、許されていない。
休憩室で、莉奈は一人、膝を抱えて泣いていた。
無力感。
自分が憧れたこの会社は、クリエイターたちを、ただの「コンテンツ」や「数字」としか見ていないのではないか。
四十二階の対策本部で、役員たちが議論しているのは、株価や会社の信用のことだけだろう。今、この瞬間も恐怖に震えている、何万人ものクリエイターたちの「心」のことなど、きっと誰も考えてはいない。
その時、休憩室の扉が開き、一人の女性が入ってきた。
氷川冴子だった。
彼女は、対策本部での激務の合間に、仮眠を取るために十七階の女性用仮眠室に来たのだろう。その顔には、深い疲労の色が浮かんでいた。
氷川は、泣いている莉奈を一瞥したが、何も言わずにコーヒーを淹れようとした。
その無関心な態度に、莉奈の中で、何かがぷつりと切れた。
「……どうして、何も教えてくれないんですか!」
莉奈は、立ち上がり、叫んでいた。
「クリエイターさんたちが、どれだけ不安がってるか、分かってるんですか! なのに、会社は『未定です』『答えられません』の一点張りで……! 広報部の皆さんは、私たちのことなんて、どうでもいいんですよね!」
感情的な言葉。普段の莉奈なら、絶対に口にしないような、上司への反抗。
氷川は、コーヒーを淹れる手を止め、ゆっくりと振り返った。その目は、感情を読み取れない、静かな湖面のようだった。
「……あなたの気持ちは、分かります」
氷川は、静かに言った。「でも、私たちの一言一句が、会社の公式見解になる。憶測や、希望的観測を口にすることは、できない。それが、広報という仕事です」
「仕事だから、ですか!?」
莉奈は、さらに食い下がった。「仕事だから、心がなくてもいいんですか! あの人たちは、ただのユーザーIDじゃない! 一人ひとり、顔があって、生活があって、夢があるんです! それが、今、壊されようとしてるのに!」
莉奈の目から、大粒の涙が溢れ落ちた。
氷川は、しばらくの間、何も言わずに、その涙を見つめていた。
やがて、彼女は淹れたてのコーヒーを二つのカップに注ぐと、一つを莉奈に差し出した。
「……私も、昔はあなたのようでした」
氷川は、ぽつり、と呟いた。
「新聞記者だった頃。事件の被害者遺族に、マイクを突きつけていた。会社のため、スクープのため。心を殺して、仕事だからと自分に言い聞かせて。……でも、ある時気づいたの。心を殺した人間に、人の心を動かす記事は書けないって」
彼女は、自分のカップを静かにテーブルに置いた。
「橘さん。あなたのその気持ちは、絶対に、失くさないでください」
「今の私には、あなたのように、彼らのために泣いてあげることすらできない。できるのは、この会社が沈まないように、必死で舵を取ることだけ。でも……もし、この船が嵐を抜けられたら。その時は、あなたのその涙が、きっと、ヘイローストリームを再生させる力になる」
氷川は、それだけ言うと、仮眠室へと消えていった。
一人残された莉奈は、渡されたコーヒーカップを、ただ、呆然と見つめていた。
カップから立ち上る湯気が、涙で滲んだ視界を、ぼんやりと揺らしていた。
氷川の言葉は、何の解決にもなっていない。
それでも、莉奈の心には、小さな、しかし確かな光が灯った気がした。
自分は、無力じゃないかもしれない。
会社の決定を待つだけじゃない。自分にしか、できないことがあるかもしれない。
莉奈は、涙を拭うと、自分のデスクへと戻った。
そして、業務用ではない、自分のプライベートなSNSアカウントを開いた。
彼女がフォローしているのは、自分が担当する、数十人のクリエイターたちだけだ。
彼女は、震える指で、メッセージを打ち込み始めた。
会社としてではなく、「橘莉奈」という、一人のファンとして。
彼らの心に寄り添う、たった一つの言葉を、届けるために。
その小さな行動が、やがて、膠着した事態を動かす、大きな波紋を生むことを、彼女はまだ知らなかった。




