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隔離域  作者: tachibana daiji
第六章:内なる敵

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12/19

第12話:三つの正義

破滅へのカウントダウンが始まってから24時間が経過した。残り、48時間。

対策本部では、アークライト・メディアの経営陣が、重い決断を迫られていた。


議題は一つ。

「身代金12億円を、支払うか、否か」


会議室の空気は、これまでになく張り詰めていた。

口火を切ったのは、出版部門担当の老役員だった。

「支払うべきだ。我々には、作家先生方からお預かりしている大切な原稿データがある。クリエイターたちの個人情報もある。それが世に晒されるようなことになれば、我が社が百年かけて築き上げてきた信頼は、完全に地に落ちる。12億円は、その信頼を守るためのコストだと思えば、決して高くはない」


彼の意見に、映像部門や教育部門の役員たちが、次々と同調する。彼らにとっては、システムの復旧よりも、データの非公開こそが最優先事項だった。顧客やクリエイターからの突き上げは、すでに限界に達していた。


その流れを、冷徹な声が断ち切った。

「安易な結論ですな」

発言の主は、安藤琢磨警部だった。彼は、オブザーバーとして会議に参加していた。

「テロリストに金を渡すということが、どういう意味を持つか、お分かりですか? その金は、彼らの次の犯行の資金源になる。あなた方が支払った金で、第二、第三のアークライト・メディアが生まれることになる。警察としては、身代金の支払いには、断固として反対します。犯人の水野は、我々が必ず検挙する。それまで耐えていただきたい」


法と秩序。安藤の言葉は、絶対的な正論だった。

しかし、その正論は、目の前の火事を消すための水にはならない。


二つの意見が対立する中、誰もがCISOである久我誠一郎の判断を待っていた。

久我は、固く目を閉じ、腕を組んだまま、沈黙を続けていた。彼の脳裏では、二つの選択肢が、天秤の上で激しく揺れ動いていた。


支払えば、データ流出は(おそらく)止まる。だが、会社の金でテロリストを肥え太らせることになり、警察に非協力的だったという汚名を着る。

支払わなければ、会社のデータは全て暴露され、事業は壊滅的な打撃を受ける。だが、犯罪に屈しなかったという、空虚なプライドだけは守れるかもしれない。


どちらも、地獄だ。

久我は、ゆっくりと目を開き、口を開いた。


「……支払うべきではない、と私は思う」

その声は、重く、そして苦渋に満ちていた。

「安藤警部の言う通りだ。一度でもテロリストに屈すれば、我々は未来永劫、彼らのカモになる。それに……支払ったからといって、奴らが本当にデータを消すという保証は、どこにもない」


「しかし、久我取締役!」

出版部門の役員が、声を荒らげた。


「だが」と久我は、その言葉を遮った。「我々には、時間を稼ぐ必要がある。警察が水野を逮捕するまでの、時間を」

彼は、氷川冴子に視線を向けた。

「氷川君。犯人側と、交渉のチャネルを開くことは可能かね?」


氷川は、静かに頷いた。

「可能です。メールでのやり取りにはなりますが」


「よろしい。ならば、君に交渉役を命じる」

久我は、決然と言い放った。

「身代金の支払いを検討するフリをしろ。金額の交渉、支払い方法の確認……あらゆる手段を使って、時間を稼げ。72時間と言わず、一週間、いや、一ヶ月でも引き伸ばすんだ。その間に、必ず警察がケリをつけてくれる」


それは、あまりにも危険な綱渡りだった。プロの犯罪者集団を、素人である氷川が欺けるのか。もし、時間稼ぎだと見透かされたら? その時は、予告を待たずに、全てのデータが一斉に公開されるかもしれない。


だが、もはや選択肢はなかった。

氷川は、表情一つ変えずに、ただ「承知いたしました」と短く答えた。その瞳の奥に、どれほどの覚悟と恐怖が渦巻いているのか、誰にも窺い知ることはできなかった。


こうして、対策本部の表向きの方針は「時間稼ぎ」で固まった。

だが、その決定に、誰もが心から納得していたわけではなかった。


会議が終わった後、レベッカ・ウォンは、一人、廊下で久我を呼び止めた。

「……本当に、それでいいのですか?」

レベッカは、珍しく感情の滲む声で言った。

「"オリガミ"は、素人が時間稼ぎで騙せるような相手ではありません。彼らの知性は、あなた方の想像を遥かに超えている。下手に刺激すれば、最悪の事態を招きます」


「では、君ならどうするというのかね」

久我は、疲れた顔で問い返した。


「……一つの可能性として」とレベッカは、声を潜めた。「支払うべきです。ただし、ただ支払うのではありません。我々の側で、追跡用のマーカーを仕込んだ暗号資産コインを用意する。彼らがその金に手を出した瞬間、金の流れを追跡し、彼らの資金洗浄ミキシングネットワークごと、金の在り処を突き止める。リスクは高いですが、成功すれば、犯人逮捕とデータ保護を両立できるかもしれません」


それは、第三の選択肢だった。

技術を駆使し、敵の土俵で戦うという、あまりにも大胆な賭け。


企業の論理を優先し、時間稼ぎを命じた久我。

法と正義を重んじ、犯人逮捕を叫ぶ安藤。

技術的な反撃を模索する、レベッカ。


三つの異なる正義が、一つの事件現場で交錯する。

彼らの間に生まれたこの亀裂こそが、"オリガミ"が最も望んでいる状況なのだということに、まだ誰も気づいてはいなかった。

そして、彼らが議論を戦わせている間にも、神崎亮は、たった一人、誰にも知られずに、システムの最も暗い深淵へと、静かに潜り始めていた。

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