第11話:二人の天才
『助けてくれ。俺は、奴らに……利用されただけなんだ』
水野の声は、スマートフォンのスピーカー越しでも分かるほど、切迫していた。雑音の向こうで、彼の荒い息遣いが聞こえる。何かに追われているかのように。
「水野……! お前、今どこにいるんだ!」
神崎は、周囲に聞かれないよう、声を潜めて叫んだ。
『場所は言えない。もう家にもいられない。奴らは、全部見てる』
水野は早口でまくし立てた。『神崎、聞いてくれ。俺は会社を辞めた後、腹いせにアークライトのセキュリティの脆弱性を分析したレポートを、ダークウェブのハッカーフォーラムに軽い気持ちで投稿したんだ。匿名で、だ。どれだけザルか、世に知らしめてやりたかった。それが……間違いだった』
そのレポートが、「レヴァイアサン」の目に留まったのだ、と水野は言った。
彼らは水野の個人情報を特定し、接触してきた。最初は協力関係だった。だが、水野が彼らの本当の目的――システムの完全な破壊とデータの人質化――を知った時には、もう手遅れだった。水野のPCは乗っ取られ、彼のアカウントは全て、侵入のための踏み台として利用された。水野自身が、デジタルな人質になっていたのだ。
「警察に話せ! 自首するんだ!」
『無駄だ!』水野の声が、悲鳴のように裏返った。『奴らは俺を主犯に仕立て上げる気だ。俺が作った侵入経路、俺のアカウント、俺のPC。証拠は全部、俺が犯人だと示してる。俺が捕まれば、"オリガミ"は高笑いして、次のターゲットを探しに行くだけだ。誰も、本当の敵にはたどり着けない』
絶望的な状況。あまりにも、出来すぎている。
神崎の頭は、混乱の極みにあった。
『神崎……奴らを止められるとしたら、お前しかいない。俺が辞める前、システムに一つだけ、誰にも知らせていないバックドアを仕掛けておいた。研修時代に、お前と二人で作った、あのテスト環境……覚えてるか? "プロジェクト・イカロス"だ』
イカロス。
太陽に近づきすぎて翼を溶かした、ギリシャ神話の愚かな若者の名。それは、研修中の神崎と水野が、怖いもの知らずに、本番環境とほぼ同じ権限を持つシミュレーターを構築しようとして、大目玉を食らったプロジェクトのコードネームだった。公式には、その痕跡は全て削除されたはずだった。
『あの環境は、まだ深層区画のどこかで生きている。そこからなら、奴らの監視をすり抜けて、奴らのマルウェアの本体に触れるかもしれない。ヒントは……』
その時、電話の向こうで、何かが割れるような鋭い音が響いた。
『クソッ、見つかった! 神崎、もう切る! 信じてくれとは言わない! だが、お前なら……お前なら、真実にたどり着けるはずだ!』
通話は、一方的に切断された。
「もしもし! 水野!」
呼びかけに、応答はない。後に残されたのは、不気味なほどの静寂と、神崎の荒い呼吸だけだった。
同時刻。対策本部には、安藤からの報告が入っていた。
「水野圭の自宅、もぬけの殻です。PCのハードディスクはドリルで物理的に破壊、サーバーは初期化されていました。完全に証拠隠滅を図って逃走しています。これで決まりですね。水野が主犯、間違いありません」
その報告は、対策本部に、ある種の安堵感をもたらした。
「元社員の逆恨みか……なんとも、後味の悪い話だが」
久我は、疲れたように呟いた。敵の正体が分かった。それは、理解不能な怪物などではなく、自分たちが知る、一人の人間に過ぎなかった。その事実は、恐怖をいくらか和らげた。
「直ちに水野圭を、不正アクセス禁止法違反および威力業務妨害の容疑で全国に指名手配する」
安藤は、事務的に告げた。
「皆さんのご協力に感謝します。あとは、我々警察が、この男を追い詰めるだけです」
誰もが、事件は犯人逮捕に向けて大きく前進したのだと信じていた。
その中で、神崎だけが、全く別の現実を知ってしまった。
水野の言葉を、誰に話せばいい?
安藤に話しても、戯言として一蹴されるだろう。それどころか、犯人を庇っていると疑われ、共犯者として扱われるかもしれない。
久我や役員たちには? 彼らは、自分たちに都合の良い「元社員の犯行」というストーリーに、すでに飛びついている。
では、レベッカは?
神崎は、鯖室の片隅で静かにラップトップを操作している彼女の横顔を見た。彼女なら、技術的な観点から話を聞いてくれるかもしれない。だが、彼女のクライアントはアークライト・メディアだ。水野が作ったバックドアの存在など、会社にとっては新たなセキュリティリスクでしかない。報告すれば、即座に塞がれてしまうだろう。
誰も信じられない。誰も頼れない。
神崎は、完全に孤立していた。
彼は、一つの決断を下した。
それは、エンジニアとしての矜持と、友を信じたいという最後の願いを賭けた、あまりにも危険な賭けだった。
警察の公式捜査とは別に。
レベッカの技術調査とも違うラインで。
たった一人で、水野が残した「イカロス」への道を探し出す。
それは、会社への重大な背信行為になりかねない。もし見つかれば、解雇だけでは済まないだろう。
だが、神崎には確信があった。
水野の震える声は、嘘をついている声ではなかった。
そして、この事件の本当の敵は、水野圭という一人の天才ではない。その背後で糸を引く、"オリガミ"という、底知れない悪意なのだと。
その夜。
対策本部の全員が、仮眠室で束の間の休息を取る中、神崎は一人、鯖室の闇へと戻った。
彼は、自分が確保したログサーバーに、再び秘密のバックドアアカウントでログインする。
水野の言葉を、反芻する。
「プロジェクト・イカロス」
「深層区画」
指が、キーボードの上を走り始めた。
それは、会社を救うための行為なのか。
それとも、友に加担する、共犯者への第一歩なのか。
答えは、まだ誰にも分からなかった。




