第10話:同期の影
「……水野、圭」
スピーカーフォンから漏れ聞こえたその名前に、地下の鯖室で作業していた神崎は、時間が止まるような感覚に襲われた。
同期。
彼にとって、その言葉は単なる入社年度が同じだけの関係性を意味しなかった。
水野圭は、神崎にとって唯一無二の、親友であり、ライバルだった。
対策本部の混乱など、もはや彼の耳には届いていなかった。脳裏に蘇るのは、研修時代、二人で夜を徹してコードを書き、未来の「ヘイローストリーム」について熱く語り合った日々。
『なあ神崎、俺たちの手で、このサービスを世界一にしてやろうぜ』
そう言って、屈託なく笑っていた水野の顔。
理想に燃え、誰よりも純粋だったはずの親友が、なぜ。
「……神崎君」
スピーカーから、久我の硬い声が響いた。その声には、明らかに、神崎自身に向けられた猜疑の色が滲んでいた。
「君の、同期だそうじゃないか。この水野という男について、知っていることを全て話してもらおうか」
神崎は、喉がカラカラに乾き、言葉を発することができなかった。
彼が密かに使ったバックドアアカウント。彼が見つけたログサーバー。その結果、容疑者として浮かび上がったのが、自分の親友。まるで、自分が友を売ったような、おぞましい罪悪感が胸を締め付ける。
その重苦しい沈黙を破ったのは、レベッカの冷静な声だった。
「久我さん、彼を責めるのは筋違いです。容疑者の特定に繋がるログを発見したのは、彼の功績です」
彼女はそう言うと、神崎の肩にそっと手を置いた。その手は驚くほど冷たかったが、神崎には、それが確かな支えに感じられた。
「神崎さん。今は感情的になっている場合じゃない。私に、客観的な事実だけを教えて。水野圭は、どんなエンジニアだった?」
神崎は、一度固く目を閉じ、そして、ゆっくりと口を開いた。
「……天才、でした」
その声は、自分でも驚くほど、静かに響いた。
「僕なんかよりも、ずっと。誰も思いつかないような、エレガントなコードを書く男でした。でも……純粋すぎた。会社の古い体質や、非効率なワークフロー、縦割りの組織……そういうもの全てを、彼は許せなかった」
水野は、常に正論を吐いた。そして、常に上層部と衝突した。
『こんなやり方じゃ、いつか大きな事故が起きる』
『技術的負債を、どうして誰も返済しようとしないんだ』
彼の警告は、いつしか「意識高い系の若者の戯言」として、誰にも相手にされなくなっていった。そして一年半前、彼は一通の退職願を残して、静かに会社を去った。
「彼が辞める時、言っていました」と神崎は続けた。
「『この会社は、内側から腐っていくのを待つだけの泥舟だ。俺は、外からこの舟を沈める方法を探す』と……。当時は、ただの捨て台詞だと思ってた。でも……」
言葉は、そこで途切れた。
レベッカは、静かに頷いた。
「……彼のスキルセットと動機は、今回の攻撃者のプロファイルと、不気味なほど一致するわね」
彼女の言葉は、冷たいナイフのように、神崎の最後の希望を切り裂いた。
その頃、四十二階の対策本部では、安藤が部下に矢継ぎ早に指示を飛ばしていた。
「水野圭の身柄を確保しろ! 今すぐ自宅に向かえ! 令状は後から出す!」
久我は、そのやり取りを、ただ呆然と見つめていた。
犯人が、分かった。内部の人間だった。
ならば、なぜ「レヴァイアサン」などと名乗る必要がある? なぜ、海外のハッカー集団のような、手の込んだ真似をする?
まるで、パズルのピースが一つ見つかったことで、かえって全体の絵が分からなくなったような、奇妙な感覚だった。
安藤が、電話を片手に部屋を出ていく。
72時間のカウントダウンが続くモニターを、役員たちが不安げに見つめている。
氷川が、次のプレスリリースの文面を練り始めている。
誰もが、それぞれの役割に戻ろうとしていた。
だが、彼らはまだ気づいていない。
これは、"オリガミ"が仕掛けた、巨大な舞台の上で演じられている、一つの幕に過ぎないことを。
そして、水野圭という存在が、駒なのか、脚本家なのか、あるいは、観客ですらないのかを。
地下三階。
神崎は、一人、コンソールの前に座り込んでいた。
親友が、会社を破滅させようとしている。その証拠を、自分が見つけてしまった。
頭が、どうにかなってしまいそうだった。
その時、彼のポケットの中で、私用のスマートフォンが、短く振動した。
仕事用の端末ではない。会社には登録していない、プライベートな番号だ。
画面を見ると、そこには「非通知設定」の文字が表示されていた。
こんな時に、誰が。
いぶかしみながら、彼は通話ボタンを押した。
「……もしもし」
耳に届いたのは、雑音に混じった、数年間聞いていなかった、しかし決して忘れることのない、懐かしい声だった。
『……神崎か? 俺だ……水野だ』
その声は、ひどく怯え、そして、震えていた。
『助けてくれ。俺は、奴らに……利用されただけなんだ』




