第1話:青白い聖域
これは、遠い未来の物語ではない。
異世界の話でもなければ、特別な能力を持つ英雄たちの伝説でもない。
これは、あなたが今、その手に持つスマートフォンや、目の前のPCディスプレイの、わずか数ミリ向こう側で、いつ起きてもおかしくない「戦争」の記録である。
硝煙の匂いはない。
爆弾の轟音も、血の痕跡も、どこにもない。
この戦争で使われる武器は「コード」であり、戦場は「ネットワーク」。
そして、人質に取られるのは、あなたの「日常」そのものだ。
もし、ある朝、あなたが愛するウェブサイトが、永遠にその沈黙を破らなかったとしたら。
もし、あなたの個人情報が、名も知らぬ誰かの手の中で、冷たい商品になったとしたら。
もし、社会を支えるインフラが、たった一人の悪意によって、一夜にして砂上の楼閣と化したとしたら。
その時、誰が戦うのか。
誰が、私たちの世界を守るのか。
これは、そんな名もなき守護者たちの、息もできないほどの数日間の物語。
ページをめくる、あなたのすぐ隣にも、深淵は、静かに口を開けている。
そのことを、どうか忘れないでほしい。
二〇二四年、六月八日、土曜日。午前二時四十七分。
東京、西新宿。
地上二百メートルを超える摩天楼が、互いの威容を誇示するように夜空を突き刺している。そのガラスの壁面は、地上を這う車のライトや眠らない街のネオンを鈍く反射し、まるで巨大な水晶の森のようだった。人々が寝静まったこの時間、都市は人間のものではなく、光と影、そして沈黙が支配する異世界と化す。
その森の一角、ひときゆわ高く聳えるアークライト・メディア本社ビル、その地下三階。
カードキーと生体認証の幾重もの扉に守られた最深部に、その部屋はあった。
サーバー室。
株式会社アークライト・メディアが擁する巨大動画プラットフォーム「ヘイローストリーム」の心臓部。数百万人のユーザーの熱狂と、数十万人のクリエイターの夢と、そして年間数百億円のビジネスを支える、デジタルな聖域だ。
青白いLEDの光だけが満たす空間に、無数のサーバーラックが整然と並び、低いファンの唸りを絶え間なく響かせている。それはまるで、巨大な生命体の穏やかな呼吸音のようだった。ケーブルの束が動脈のように床下を走り、明滅するランプは神経細胞のシナプスを思わせる。
その聖域の、たった一人の番人。
それが、神崎 亮だった。
使い古したヘッドフォンを首にかけ、よれた黒いTシャツに身を包んだ彼は、メインコンソールの前に深く腰掛けていた。二十八歳。その若さとは裏腹に、目の下には消えない隈が刻まれ、無精髭がうっすらと顎を覆っている。手元には、とうに冷え切ったコンビニのコーヒーカップ。カフェインと、惰性と化した使命感だけが、彼の意識をこの青白い世界に繋ぎとめていた。
モニターには、緑色の文字列が滝のように流れ落ちていく。ネットワーク全体のヘルスチェックログだ。そのほとんどは、正常を示す「OK」のサイン。規則正しく、退屈で、そして何よりも平和な光景だった。
(……今日も異常なし、か)
神崎は背もたれに体重を預け、長い息を吐いた。かつては、この光景に胸を熱くしたものだ。自分が書いたコードが、自分が構築したインフラが、巨大なプラットフォームの一部として完璧に機能している。その事実に、言いようのない高揚感を覚えた。
「ヘイローストリーム」――ユーザーからは親しみを込めて「ヘイスト」と呼ばれるこの場所は、神崎にとっても青春そのものだった。無名のクリエイターがたった一本の動画でスターダムにのし上がる奇跡。何気ない生放送で生まれる、一夜限りの伝説。コメントの奔流が生み出す一体感。その熱に浮かされるように画面にかじりついていた学生時代が、つい昨日のことのように思い出される。この聖域を守りたい。その一心で、彼はアークライト・メディアの門を叩いたのだ。
だが、現実はどうだ。
理想は巨大な組織の縦割り文化に削られ、情熱は終わらない運用保守の業務にすり減らされた。今や彼は、このデジタルな生命体をただ維持するためだけの、名もなき細胞の一つに過ぎない。
「ま、平和が一番だけどな」
誰に言うでもなく呟き、彼はマウスを手に取った。週末の深夜。地上では、誰かが酒に酔い、誰かが愛を囁き、誰かが夢を見ているのだろう。そんな世界から完全に隔絶されたこの地下室で、システムの平和を守ること。それが今の自分の仕事だ。虚しいが、それ以外に価値を見出すこともできなかった。
ルーティンワークの最後、各サーバークラスタのリソース使用率を確認する。CPU、メモリ、ディスクI/O。どれも安定した数値を保っている。グラフの波形は、熟睡している人間の心電図のように穏やかだ。
その時だった。
ほんの僅かな、しかし無視できない違和感が、神崎の視界の端を掠めた。
北米リージョンを担当する第7サーバークラスタ。そのネットワーク転送量のグラフに、ほんの一瞬、髪の毛ほどの細さのスパイク(突出)が見えた。
(……ん?)
眉をひそめ、彼はグラフの表示期間を秒単位まで拡大する。
午前二時四十九分十三秒。
確かに、普段ならありえないマイクロ秒単位のデータ転送の急増が記録されていた。あまりに一瞬の出来事だったため、システムはそれを異常とは検知していない。アラートも鳴らない。だが、毎日この画面を見続けている神崎の目には、完璧な白地に落ちた、インクの染みのように見えた。
「なんだ……これ。ただのパケットロスか?」
独り言を漏らしながら、指がキーボードの上を滑る。該当時間帯のアクセスログを叩き出す。だが、そこに不審なIPアドレスはない。DDoS攻撃の予兆でもなければ、不正アクセスの痕跡も見当たらない。
(気のせいか……疲れてるんだな)
彼は自嘲気味に首を振った。週末の夜勤は三連勤の最終日だ。幻覚の一つや二つ、見てもおかしくはない。
もう一度、コーヒーを口にしようとカップに手を伸ばした、その瞬間だった。
今度は、もっとはっきりと見えた。
ヨーロッパリージョンの第4クラスタ。アジアリージョンの第11クラスタ。ほぼ、同時。先ほどと同じ、極めて微細な、しかし鋭利な針のようなスパイクが、二つのグラフを同時に貫いた。
心臓が、嫌な音を立てて脈打った。
これは幻覚ではない。気のせいでもない。
世界の異なる場所に設置されたサーバー群が、まるで目に見えない指揮者の合図に合わせるかのように、一斉に「何か」に反応している。
「……ありえない」
神崎の背筋を、サーバー室の冷気とは質の違う、内側から凍えるような悪寒が駆け上った。
これは、何かの前触れだ。
この青白い聖域の、長すぎた静寂が、終わろうとしている。
彼はヘッドフォンを外し、耳を澄ませた。
聞こえるのは、変わらないファンの唸りだけ。
だが、神崎には確かに聞こえていた。
デジタルな深海の底から響いてくる、巨大な怪物が目覚める前の、微かな軋みを。




