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身代わり婚

秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。


エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。


エレーヌの夫、ゲルハルトが、見下ろしている。


「エレーヌ」


エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。


「ゲルハルトさま、愛しています」


ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。しかし、その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。


「エレーヌ、俺はあなたが憎い」


エレーヌは凍り付いた。


エレーヌは、驚き、呆れ、そして、嘆きが湧いてくる。


ゲルハルトには、結婚前から愛する人がいた。その日、令嬢は王宮に上がってきた。ゲルハルトの子を腹に宿していた。ゲルハルトは彼女のそばで、とても幸せそうに笑っていた。


それでも、ゲルハルトは、今夜、王妃の寝室を訪れて、エレーヌを抱いた。それが国王としての責務だから。


エレーヌの情交の熱に浮かされてうるんだ目は、悲しみのために水気を増した。


(ひどい人。でも、本当にひどいのはわたし……。愛し合う二人の邪魔をしているのだから)


エレーヌの頬に涙がこぼれたのを見て、ゲルハルトは目を見開き、指の背でエレーヌの涙をぬぐった。


そして、もう一度、その黒い双眸でまっすぐにエレーヌを捉えると、口にした。


「あなたにどう思われようと、俺はあなたが憎い」


エレーヌは、体が震えるのを止められなかった。喉から声を絞り出す。


「ごめんなさい。わたしは、あ、あなたを、愛しています……。私が死んでもあなたが死んでも、わたしは、ずっとあなたのことを愛してい………」


ゲルハルトはそれ以上は聞くのは不快だと言わんばかりに、エレーヌの唇に唇を重ねてきた。エレーヌが避けようとするも、ゲルハルトの手にあごを捉えられ、唇を奪われる。


(ごめんなさい、わたしがいて、ごめんなさい)


エレーヌはゲルハルトに口づけを受けながら、心で唱え続ける。


(もう、わたしは消えるから……、もうここからいなくなるから……ごめんなさい……)


エレーヌが涙を流すのを無視して、ゲルハルトはエレーヌの唇を食らうように口づけた。


***


遡ること三か月。


春の到来とともに、ラクア王国からの婚姻使節団が、ブルガン王国の王都の門をくぐった。


その行列はあまりに長く、先頭は王宮に達しているのに、後尾はまだ王都の入り口にあるというありさまだった。


ブルガン王国の宰相は、接待予算が足らなくなるのではないかと心配したが、それは杞憂に終わった。婚姻使節団がブルガン王室に献上した絹や銀器などの品々は、使節団の滞在費用を優に上回っていた。


宰相は、ほっとしたのもつかの間、もっと大きな問題に直面することになった。


第三王女が姿をくらましたのである。第三王女は、婚姻使節団が迎えにきた当の花嫁だった。


普段は沈着冷静な女官長が慌てふためきながら、宰相のもとへ手紙を持ってきた。第三王女の残した手紙だ。


――探さないでください。


一人の兵士と連絡がつかなかった。第三王女のお気に入りの護衛兵士だった。駆け落ちであることは明らかだった。


宰相は頭を抱え込んでうずくまり、しばらく起き上がることができなかった。


ちょうどその頃。


エレーヌは、王宮の外れにある崩れかけた塔の窓から、王都の街並みを見下ろしていた。自分の運命が大きく変わることなどつゆとも知らずに。


***


赤い旗を長くたなびかせている勇壮な兵団が、王宮前広場に整然と並んでいる。


(見たことのない旗だわ。外国からのお客様かしら)


エレーヌは生まれてから17年、その塔から外に出たことがなかった。


二年前までは母親がそばにいた。母親はエレーヌにかまどの扱い方、パンの焼き方、食料の保存方法、刺繍の仕方などを教えてくれた。家の中でできる仕事のほとんどを母親から学んだ。


ときおり塔を訪ねてくる老女がおり、出来上がった刺繍を、豆や干し果実や小麦粉などの食料に交換してくれた。


「エレーヌ、塔の外には魔物がいっぱいいるの。だから、ここを出てはいけないの」


エレーヌは母親にそう言われ続けてきた。


母親は寝る前にいろんな物語の話を聞かせてくれており、そのなかには魔物もたくさん出てきていたから、エレーヌは本当に外には魔物がいるものだと思い込んでいた。大きくなるにつれて、そんなものはいないとわかってきたが、塔の中で母親と過ごす暮らしはとても温かで幸せだったために、外に出たいと思うこともなかった。


そんなひっそりとした穏やかな生活は、母親がベッドから起き上がれない日々が続いたのち、終わった。


母親は最後の力を振り絞るようにしてベッドから起き上がると言った。


「エレーヌ、決してここから出ては駄目。ここに誰かを入れても駄目。お母さまがいなくなったあとも、ここで刺繍をして、必要なものと交換して生きていくのですよ」


母親はベッドから降りると階段を降りていく。エレーヌは母親が塔を出ようとしていることがわかった。


「お母さま、いかないで! 私をおいていかないで、お母さま!」


泣いてすがるエレーヌの頬を母親はぶった。立ちすくむエレーヌをおいて、母親は塔を出て、それきり帰ってこなかった。母親は、死に場所を求めて塔を出て行ったに違いなかった。


エレーヌはそれからずっとひとりきりだ。目が覚めると、その日の分のパンを焼き、スープを作り、刺繍を刺す。声を出すのはお祈りのときだけ。


必要なものを届けに来る老女は、口が利けないのか、利くつもりがないのか、エレーヌと話すことはなかった。ただ、エレーヌが頼んだものを忠実に持ってくる。


母親はエレーヌにたくさんのことを教えたが、孤独から気を紛らわせる術をも教えてくれていた。それは本を読むことだった。擦り切れた一冊の本を見せながら、エレーヌは老女に言ってみた。


「あの、できればでいいんですけど、何か、本を、頼めますか。本って言うのは、こんな風に字がたくさん詰まったもののことなんですけど。食べ物を減らしてもらって、そのかわりでいいですから」


老女は、翌週、本を持ってきた。


パンを焼き、スープを作り、刺繍を刺し、本を読む。エレーヌは、そうやって塔の中でひっそりと、ひとりきりで過ごしている。


そんなエレーヌのささやかな生活は、突然、終止符を打った。


物音に目を覚ますと、階段を上がってくる靴音が聞こえてきた。靴音は一つや二つではなく、幾つもの靴音が重なっていた。


エレーヌは飛び起きてベッドの下に隠れたが、すぐに見つかり引きずり出された。


髭をたくわえた男の前に押し出された。


髭の男は、でっぷりと肥えて、王様のように偉そうだった。エレーヌのあごを取ると、エレーヌの顔を左右に揺すぶって観察する。エレーヌは恐ろしくてたまらなかったが、なすがままにされるしかなかった。


「そなたがエレーヌか。ふむ、良いな」


怯えて震えているエレーヌを、男は抱きしめてきた。


「我が娘、王女エレーヌよ」


王様のような男は、本物の王様だった。


国王は手を付けた下女のことを覚えていた。その下女が、嫉妬深い王妃の手から逃れて、さびれた塔に隠れ住み、そこで娘を産んだことも、そして娘が育っていることも、ちゃんと把握していた。把握しながら放置していた。その娘が役に立つ日が来るまで。役に立つ日が来なければ、エレーヌは一生、塔で過ごしたに違いなかった。


***


エレーヌ・ルイーゼ=アントワーネがエレーヌの正式な名前になった。


「どうだ? お前の名だ。気に入ったか。お前の母親がつけたエレーヌという名も入れてやったぞ」


エレーヌは王宮の豪華な部屋に連れていかれ、何人もの侍女に取り囲まれた。


侍女たちはあからさまな好奇の目を向けてきた。ずっと塔に隠れ住んでいた下女の娘が、王女として扱われようというのだ。若い娘らが興味を抱かないはずもない。


「塔の中でたった一人きりで住んでいたのですか?」


「まあ、随分とつぎはぎだらけの衣服ですわね」


「でも、縫い目が丁寧でこまかいわ。手先が器用ですのね」


エレーヌは何も答えることができなかった。ずっとひとりきりでいたのだ。どう答えればいいのかわからない。


侍女たちは恥ずかしがるエレーヌの服を脱がせると、体を洗った。洗い終わると、触り心地の良いドレスを着せていく。そして、鏡台の前に座らせると、エレーヌの髪を丁寧に乾かし、櫛を入れていく。


「さっきは臭かったけど、良い匂いになったわ」


そう言われてやっと、エレーヌは自分がひどい匂いがしていたのことに気がついた。そんなエレーヌを国王はいやな顔せずに抱きしめてきた。


(やはりあの髭の人が本当に父親なのね)


しかし、父親の方も独特の匂いがしたため、おあいこだとも思った。


エレーヌが何も言わないために、侍女たちは好き勝手におしゃべりを始めた。


「陛下と同じ金髪に紫色の目なのね」


「でもそれ以外は陛下に似てないわ」


「造りは母親似なのね。この人のお母さまもさぞかし美人だったんでしょうね」


「でも、塔にいたせいか、白すぎる肌が不健康だわ」


国王は、白髪に、灰色の眼をしていたが、若い頃にはエレーヌと同じ目と髪の色を持っていたのかもしれなかった。


エレーヌは鏡台に座って、はじめて自分の容姿を知ったが、映った自分にくぎ付けになった。うりざね顔に小さな鼻は、母親にそっくりだった。


(お母さま………!)


エレーヌは母親を思い出して胸が詰まった。そんなエレーヌに侍女の声が聞こえてきた。


「ずっと塔に住んでたのに、王妃になんかなれるのかしら」


(お、王妃……?)


侍女らのおしゃべりによると、エレーヌは失踪した第三王女の替わりに、ラクア王国に嫁ぐことになったらしい。それも国王に。


エレーヌには突然の事態に頭が追い付かない。そんなエレーヌをよそに侍女たちは好き勝手におしゃべりをする。


「ラクア王国の国王って、若いんですって。まだ21歳とか」


「肖像画をちらっと見たけど、とても怖そうだったわ」


「そうかしら、精悍な顔つきだったわ」


「美男子よね。私が嫁ぎたいくらいだわ」


「でも、もう二度とここには戻ってこられないかもしれないのよ。すごく遠いんだから。言葉も違うし、食べ物だって違うし」


「だから、第三王女も逃げたのかしら」


「いずれにせよ、私たちには関係ない話ね。この人が嫁ぐんだし」


侍女たちは無邪気な顔でエレーヌを見てきた。


エレーヌは、暴風雨に巻き込まれたように感じるも、抗うすべなどなかった。


***


エレーヌは豪華なドレスを身に着け、髪を整えられて、きらめくシャンデリアの下に連れ出された。


国王の横にいる王妃は、エレーヌを見ると、それは恐ろしい形相を向けてきた。エレーヌは後ろに飛びのきそうになるのをかろうじてこらえた。


母親がどうしてエレーヌを外に出さなかったのかわかった気がした。おそらくはこの王妃は母親をさんざんにいじめたのだろう。


一方の国王はエレーヌを見ると顔に喜悦を浮かべた。


「おお、見違えたな」


国王は、エレーヌに歩み寄ると、また抱きしめてきた。そして、男を指さして言った。


「これがお前の夫だ」


そこには、袋をひっくり返したような形の帽子をかぶった男がいた。男は帽子を取るとぺこりと挨拶をした。その顔は脂ぎっており、帽子の下には毛の薄くなった頭があった。


「#######」


帽子の男が何を言ったのかわからなかった。意味のない音をがなり立てているだけに聞こえた。


(この人が私の夫になる人なの?)


男は怖そうでもなければ、美男子にも精悍にも見えなかった。21歳には到底見えず、それよりも国王に年が近いように思うが、ほとんど人と接したことがないエレーヌがそう思うだけかもしれなかった。


帽子の男は胸に抱えていた板状のものを側仕えに渡し、エレーヌに近づいてきた。エレーヌは後ずさるも、男はぐいっとエレーヌの手を引っ張った。


男はエレーヌの手の甲に接吻した。いやな感触がしたが、恐ろしくてエレーヌは身動きできなかった。


翌日、エレーヌと帽子の男は大聖堂で結婚式を挙げ、翌々日、ラクア王国に出発することになった。


王宮を出発する前、エレーヌは思い切って国王に声をかけた。


「へ、へいか……! お聞きしたいことがあります」


国王はエレーヌを見た。そして、驚いたように目を丸めたのち、快活に笑った。


「エレーヌ、そなたの声を初めて聴いたぞ! 喋れるのだな! 良い声ではないか、安心したぞ!」


実際、エレーヌは塔を出てからも、お祈りのとき以外、声をほとんど出さなかった。侍女たちもエレーヌは声が出ないと思い込んでいた節があった。


エレーヌは、出発の前に、国王に訊いておかなければならないことが一つだけあった。


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