典の節・懦闇 其之弐『断たれるもの』
⑧断たれるもの
事務室に集ったメンバーは、初日に次ぐ大所帯となっていた。維と顕醒はいないが、代わりに零子がいる。目隠しを絶対に取らないことを条件に、タヌキ先生から出席を許可されていた。
「これまでン状況から予想はしとったが、決め手がねぇんで自信がなかった。現場のブランクもなげぇしな。面目ねぇ。零子ちゃんのおかげで確信を持てたよ」
と、前置きをして、真嗚は集まった情報を統合した。
呪殺と受刑者殺し、ふたつの事件は〝呪い〟の力を得た経緯と、心身への現れかたこそ違うものの、性質の点ではやはり同じだったという。
「受刑者殺しの呪者達は──」
紫藤が言った。
「全員が同じ、犯罪被害者の相談サイトを利用していました。このサイトは、カウンセラーによるメンタルケアを掲げていますが、相談員の実態は精神医学の専門家ではなく、信頼性の低い民間資格の認定者や、単なる自称者を寄せ集めた粗悪なものでした」
紫藤にしてはめずらしく辛辣だ。
「彼らのPCを解析した結果、サイトに所属する相談員〝葛山なつ江〟という人物に接触していたことが分かりました。当初はサイト内のクローズドチャットでの遣り取りだったものが、言葉巧みに誘導され、直接の面談に繋がっていったようです。また、葛山が相談者の復讐心や憎悪を肯定したり、抑圧を解放するよう促す発言をしていたことも、記録から分かっています」
凰鵡は眉を顰める。まるで悪徳療法だ。だが、そのカウンセラーはどうやって彼らに、肉体が変異するほどの呪力を与えたのだろう。
「この葛山なつ江という人物。登録されていた顔写真、個人情報はすべて架空のものでした。相談者達に呪力を感染させた方法は不明ですが、現在、情報部でこの人物の素性を捜査中です。私からは以上です」
「あんがと紫藤くん。じゃ、呪殺事件のほうはおもに儂から話させてもらおう。こちらの呪者も、力を発症する直前に、全員がある人物と接近しておる」
真嗚がノートPCの画面を皆に向けた。監視カメラの映像を並べたものだ。
凰鵡、翔、朱璃の三人は「あ」という声を上げ、顗も眉を顰めた。
画面のすべてに、こはるがいた。
凰鵡には信じられない。翔も朱璃も同じだろう。
たしかに彼女には怪しいところもあるが、呪いとはかけ離れた存在に思える。昨夜、一緒に過ごした短い時間のなかだけでも、それは確信できる。
「この少女、廣距こはるとは、もう遭った者もおるようじゃが、つい先だっても顗くんが接触し、他の警戒対象と合わせて戦闘状態に陥った」
他の警戒対象──凰鵡の脳裏に、雲水の姿が浮かぶ。だが、顗本人から語られた事実はさらに複雑だった。
佐戸を殺したのは維と顗の父兄であり、彼らはふたりのことも狙って、この街に乗り込んできている。そして、こはるは彼らと行動を共にし、顗と交戦したさいには蟲を操った。さらには異空間も発生し、雲水がそこから顗を追い出したというのだ。
凰鵡にはまったく頭が追いつかない。
蟲を操った? まるで天風鳴夜だ。以前から何度も別人になりすましては暗躍してきた。
こはるが奴の変身だというのか。だが、顗の語ったこはるの印象は、凰鵡達の知っている彼女とはまるで別人のようにも思える。
「一件、雲水が異空間を操っとるように見えるが──」
真嗚が言う。
「こちらの情報から考えるに、異空間をつくっとるのは、こはるじゃろう──完全に支配出来とるかは怪しいがな。雲水がどこまで噛んどるかは分からんが、顗くんを追い出したのは廣距に加勢したからでもあるまい」
「そっちの情報ってのは?」
「私からお話ししましょう」
顗の問いに、零子が答えた。目隠しをしたままでも、顔はしっかりと前を向いている。
「先ほど、朱璃さんを通して、私は飯生木奈月さんの呪力の名残を視ました。そこから、呪者達のあいだに現在、精神の共有体が形成されていることが判りました」
精神の共有体。文字通り、テレパシーなどによって、互いの思考や感覚をリンクさせているのだ。
「それは当方で保護している両者も、例外ではありません。彼らの状況、思考、感情は、他の呪者にも漏れなく知らされている状態です」
「それじゃ──」
翔が声を上げていた。本来なら手を上げてから発言すべきだが、誰も止めない。
「ここのことや、オレらのことも、みんな向こうに筒抜けなんですか?」
「うん、そう思ってよいな」
真嗚が答えた。あまりにもアッサリした態度に覇気を奪われたか、翔はそれ以上なにも言えなくなる。
「けど──」
顗が挙手しながら訊いた。
「そのことと、オレが異空間から追い出されたことに何の関係があるんです?」
「残る呪者の行方が掴めていないと聞いています」
「ええ……いや、まさか」
顗が何かに気付いて表情を強張らせる。
「おじさん、オレらがずっと待機させられてるのって……!」
翔も同じらしい。紫藤はうなずき、朱璃は苦々しげに瞼を伏せる。凰鵡だけが頭のなかで情報を右往左往させていた。
「残る呪者はすべて、その異空間に隔離されています」
「ほんでもって儂らのことを、仲間を捕まえるハンター──敵と認識しとる」
*
事務所前のラウンジ。ミーティングが終わって、下された命令はやはり待機。異空間からの呪者達の襲撃を警戒しているのだ。第一支部メンバーの集結も検討されたが、最終的には他支部から闘者の応援を要請することになった。
一応、まだ外出は可能だ。ただし、GPSのように足跡が分かる呪符の携帯が必須。申請は難しくない。しかし、凰鵡にも翔にも、外に出ようという気は起こらなかった。
異空間……その恐ろしさを、ふたりは身をもって知っている。こちらから察知することは困難で、いつ引きずり込まれるかも分からない。
支部の敷地内は、そうした異空間からの干渉にも万全の防衛符陣が敷かれている。
いまは、この砦のなかで心を落ち着けていたい気持ちが、どちらにもあった。
「お前、お師匠さんの稽古どうだった」
「ぜんぜん駄目。ボッコボコにされちゃった」
窓辺のスツールに並んで掛け、飲み物片手に雑談する。
「マジか。おちゃらけて見えンのに、激しいな」
「うん……兄さんと全然違う。なんでだろ」
「昭和的な根性論派だったりして」
「うーん、そうは思えないんだけどね。ねぇ翔、もしホントにこはるちゃんが呪いの元凶だったら、あの子を……討滅しなきゃいけないんだよね」
それは質問でも決意でもない。ただの迷いだ。苦渋の判断を翔に委ねるようなものだ。
だがその圧を、翔は意外な方向に受け流した。
「……あの子、誰を怨んでンだろな」
「え?」
「維さんのことは、怨んでるって感じでもなかった。顗さんには攻撃したみたいだけど、なんか腑に落ちねぇ」
翔は、本当に色々と考えている。いつも場当たり的な自分とは大違いだ。
「凰鵡、前に妖種の心に入ったって言ったよな」
「うん」
「それで、こはるちゃんの怨みって、消せねぇかな?」
簡単に言ってくれて……凰鵡は奥歯を軽く噛む。
だが翔の言うとおりだ。邪願塔の巨人から朱璃を分離し、チャクラメイトが生んだ妖胎児からは大人達の欲望を断ったように、こはるのなかから、呪力だけを討滅することも出来るかもしれない。そして、それが可能なのは、たぶん自分だけだ。
(けど、怖い……)
妖胎児の精神に飛び込んだときの恐怖がよみがえる。無限にも思える暗闇と寒さ。そして飢え。あやうく、こっちが取り込まれるところだった。
今度の呪者達も、精神は繋がっているという。結束した彼らの心の闇に、自分は耐えられるだろうか。
「すまん、勝手なこと言った」
「んーん。ボクがもっとしっかり出来たら……」
「凰鵡は充分すげぇよ」
「駄目だよ、まだ……ぜんぜん足りない」
平行線に陥ったと感じてか、翔が黙る。翔が黙ってしまうと、凰鵡もどうやって沈黙を破っていいか、分からなくなる。
「あ、維さん」
ふと、ぼんやり眺めていた正門から、維が帰ってくるのが見えた。
今日は兄も一緒だ。一日ぶりの帰還である。凰鵡の胸は高鳴り、心は昂ぶる。
出迎えに行こうかな……そう思っているあいだに、先を越した者がいた。
顗だった。石畳の道でふたりに相対し、何かを話している。
すると、三人はそのまま玄関ではなく、中庭へ抜ける道へと歩いて行った。
「どしたんだ?」
「行ってみよう」
凰鵡はスツールから飛び降りた。胸騒ぎがする。
翔も同じなのだろう。呼び止めもせず、すぐ後ろから着いてきてくれる。
一瞬見えた顗の横顔──維とよく似た吊り目。そこには、殺気が感じられた。
零子を個室へ送り届けたついでに、朱璃は少しだけ話をしてゆくことにした。
面会の制限も解かれていた。
「……私、なんで助かったんでしょう?」
最初はこはる達との楽しい夜の思い出を話していたのだが、口は自然と、気がかりなことに触れてしまう。
なぜ自分には、奈月の呪いが効かなかったのか。すでにふたりを死に至らしめた彼女の力は、自分に入り込んだ瞬間、謎の言葉を残して消えた。
──ナンデ。
最初は奈月本人が殺意を押し留めたのだと思っていたが、それにしては妙な言い方だ。
そのことを伝えると、零子はいつものように微笑んで、明快に答えた。
「それは、私達の念が、朱璃さんを守ってるからですよ」
「念? 念って闘者のみなさんが使ってる……」
「そこまで凄いものじゃありません。誰かに対して何かを想うこと……そういう意味では、呪いも念の一種です。でも私達は、朱璃さんに何かあれば無事であって欲しいと祈るし、普段だって何事もないように願っています」
なるほど、と朱璃は得心する。誰かのことを強く想うのも念のうちなら、呪いと同じように、力を持つこともあるのか、と。
「そういう良い念が合わさって、邪念である呪いを撥ねのける。そういうこともあります。みんな、朱璃さんのことが好きなんですよ」
面と向かって言われると照れてしまう。うつむいた顔が熱い。零子が目隠しをしていてよかったと、初めて思った。
「でも呪力が消えたとき、どうして私の傷は、ぜんぶ消えたんでしょう?」
「霊的な力の作用時には、稀にあることです。たとえば聖痕事件のような、傷痕を残さない出血。あのままだったら、朱璃さんも脳出血や窒息で命を落としていたかもしれませんが、その場合でも、血管が破れた痕は見つからなかったでしょう」
なるほど、と朱璃は納得する。
みんなの念が自分を守ってくれた。そうだったなら、素直に嬉しい。
だが……それでも疑念が拭いきれない。
その時だった。
「地震──⁈」
ドンッ、と部屋が大きく揺れて、朱璃はとっさにベッドの零子へ覆い被さる。
「いいえ、これは……支部のなかです……!」
顕醒の背中が、棟の壁に叩きつけられた。
車が突っ込んだかと思うほどの激音が上がる。
凰鵡にとって初めて見る、兄が殴られる姿──それも、とんでもない力で。
あんな一撃を自分が喰らったら、間違いなく頭が消し飛ぶ……などと思えたのは、少し経ってからだ。その時の凰鵡は、目の前で起こっていることに恐れおののき、ただ眺めているだけだった。
「貴様、オレの眼を誤魔化せると思ったか! 顕醒!」
「待って! 兄ぃ、聞いて……!」
止めようとする妹を押しのけて、顗は壁際の顕醒へと、足早につめよる。
とうの顕醒は怯む様子もなく、眉ひとつ歪めず、顗を待ち構えるように仁王立ちしている。
「何とか言えよオイ!」
太い指が革ジャンの襟首を鷲掴みにする。約二五センチの身長差を撥ね返して、顗が顕醒を差し上げるような状態になる。
「オレは貴様だから、安心して妹を任せてたんだ。それを……貴様はあいつに、何をやらせてンだよッ!」
差し上げた体勢から、予備動作なしに顕醒を庭の中央へと放り投げた。
受け身もとらず、顕醒は芝生に転がる。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
(なにが……なんで…………なんで?)
自分が何を見ているのか凰鵡には理解できない。ただ、悪夢のようだとしか思えない。
兄と顗に確執があるなどとは聞いたことがない。
むしろ、顗は顕醒のことを──自分より年下にもかかわらず──深く尊敬している。〝顗〟の名も、おなじ頁を用いた〝顕〟にあやかって名乗ったという。
兄が維の正式な恋人になったときにも、誰より喜んだと聞いている。
そのふたりの関係が、なぜいま、こうも壊れているのだ。
顗は何に怒っていて、なぜ維が兄をかばうのだ。
そして兄はなぜ、何も言わない。
「オレが維を守るくらい言えねぇのか、貴様はァ!」
たたずむ顕醒に、顗が襲いかかった。
大地を揺るがす震脚から、拳が空を裂く。
ガァン──大きな鉄塊どうしが撃ちあうような轟音が響いた。
突風が庭に吹きすさび、木々が揺れ、窓という窓が揺れた。
「おまえ……⁈」
顗が驚いて身を引いた。
「聞けッつってンのよこのバカ兄貴‼」
いまの衝突音にも負けない咆吼が、周囲を揺るがす。
顕醒をかばうように、維が顗の拳を、額で受け止めたのだ。
「これはアタシと顕醒の問題。兄にも口出しさせない!」
「お前がどう思おうが、オレにも兄貴として許せんことがある!」
「だったら、アタシを殴ればいいでしょ!」
「出来るわけねぇだろ!」
「じゃぁ八つ当たりしないで! アタシのせいで悔しい思いしてンのは、兄だけじゃないのよ!」
「維、もういい」
「よくない!」
ここへきて初めて発せられた顕醒の声を即座に粉砕して、維はなおも捲し立てる。
「いちばん悔しいのはね……コイツよ! ぶっ殺したいくらい嫌いな藐都にアタシが抱かれてンのを、ずっと見てなきゃいけないのよ!」
凰鵡のなかに、嫌悪感をともなう衝撃が走った。
維が何かに打ちこんでいるのは知っていたが、それがあの色妖とのセックスだというのか。なんのために…………
「だから……なんでソイツは、そんなことが許せるンだよ⁈」
「そうしてでも、アタシがアイツらに勝ちたいからよ」
「そんなことするくらいなら──!」
「──守ってもらうつもりなんかないわよ! 兄にも、誰にも! アタシは……アタシは自分でアイツらをぶっ潰すンだ‼」
途中から声に嗚咽を混じらせ、維はガックリとその場に膝を折った。
「いまのアタシには何の力もない。でも、勝つんだ……だから、これしかない……!」
ぐすぐす、と鼻をすする。泣くのを懸命に堪えている。
その維の背後で、顕醒はなおも静かにたたずんでいる。恋人が泣いているというのに、肩を抱いてすらあげない。
「……もういい、勝手にしろ!」
顗が言葉を投げ捨て、踵を返した。棟に入らず、ひとっ跳びで屋上へと消えた。
中庭には、肩を震わせる維と、それを見守る顕醒が残った。
「凰鵡くん」
不意に後ろから袖を引っぱられ、凰鵡はハッとして振り向く。
朱璃がいた。維達を悲しげに見つめてから、また凰鵡に視線を戻す。
「ふたりに、してあげて」
翔は、少し歩いたところで待っていた。
「うん」
最後に兄達を一瞥し、凰鵡はうつむいて棟に戻った。
(わからない……)
彼らのことがわからない。
ずっと一緒に生きてきた。
ずっと好きだった──そう、顕醒のことも維のことも、心から好きなのだ。
だが、自分には、決してあいだに入ることの出来ない、ふたりの世界があることを、凰鵡は今日、思い知らされた。
それを「異常だ」と言い切ることすら、凰鵡には出来なかった。