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証の節・蹉跌 其之参『顕されるもの』


   ⑥(あらわ)されるもの



 一夜明けて、凰鵡の心にはふたたび、重苦しい空気が垂れこめていた。

 不安……停滞……焦燥…………次に起こる〝何か〟に備えたくても、何のために何をすべきなのか。

 こはるの行方、雲水の目的、天風鳴夜の居所、消えた呪者達、飯生木奈月の呪いの性質、彼女の体をもとに戻すすべ…………何もかも判らない。


 呪いの性質は奈月から判明したらしく、いまは情報部が裏を取りに回っているらしいが、凰鵡と翔は今日も待機を命じられている。

 その一方で、顗は呪者達を探し、維は今日も朝早くから出掛けていった。兄は昨日から帰っていない。


 闘者だけではない。紫藤は当局と情報部を連携させるための司令塔的な役割を担っている。朱璃も支部長補佐として、分刻みで舞い込んでくる大小の案件や進捗を適切に分類し、真嗚へ伝達している。

 それぞれが、なすべきことをしている。


 自分だけが、漫然と機を待っているわけにはいかない。

 そんな焦りもあったのだろうが、凰鵡を突き動かした最大の理由は、やはり恐怖だった。


「お師匠様」


 ガラスの向こうで紫煙をくゆらす真嗚に、思いきって声を掛けた。


「なんじゃ、ヌシも吸いたいンか? ダメじゃよ」

「ボクに、稽古をつけてください」


 師の冗談を無視した。普段の凰鵡なら絶対にやらないことだ。

 その態度で、真嗚も弟子の真剣さを察したか、煙を喫む手を止めた。


「この状況で、儂にそれを頼むか」

「お忙しいのは分かっています。けれど、どうしても……お願いします。三〇分、いえ十分でもいいんです」


 思い切り頭を下げた。立場上は不動翁こそが本来の師であるため、こんな嘆願はいささか本末転倒だ。が、実質の師である兄がいない以上、頼める相手はこの人しかいない。


「……件の奴に、なん心当たりがあるンか?」


 さっそく図星を突かれて、凰鵡は唾を呑む。

 雲水を見たことは、むろん報告してある。

 だが、報告の陰に秘した事実──自分が誰よりも雲水を恐れていること──に、師は感づいているのか。


「夢を見ました」


 凰鵡は観念し、二日前の夜のことを明かした。


「……おんしが予知夢か」

「初めてです。こういうのは」

「声のほうも面妖じゃな。怖がるな、か」

「ひょっとしたら、雲水は敵じゃないのかも。けど、天風を助けてますし……」

「おまけに結局、おんしの直感は、奴をとんでもなく恐れとる」


 凰鵡はうなずく。まるで夢のなかの闇。逃げようとしても、泥中で藻掻いているように進めない。そうしているあいだに、追いつかれてしまう。

 なら……面と向かうしかない。


 恐怖に勝つ。それが自分にとっての〝なすべきこと〟だ。たとえ悪あがきのようであっても、立ち止まったまま掴める光明などない。


「よしゃ」


 真嗚が煙管を一回転させた。雁首を逆の手に打ち付けて、まだ赤い吸い殻を灰皿に落とす。

 分煙室から出ると、凰鵡の前を横切って食堂の出口へ向かう。


「一時間後に修練場。身体ほぐしとけや」

「それじゃぁ……!」


 パッと明るくなった凰鵡の顔は、直後に強張った。


「十分でよいと言ったな。保ってみせぇよ?」


 振り向いた大きな目は、いつもの剽軽さが嘘のような厳しさを帯びていた。


「儂の遣り方……顕醒ほど甘くないと思え」




 二日目にして、維のレッスンは早々に次の段階へと進んだ。

 教官がひとり加わった。色妖、藐都イルマである。

 上級色妖たる彼の愛撫に、維の精神は明滅を繰り返した。


 ずっと嫌悪してきた相手に己をゆだねることに、はらわたは煮えくり返りながらも、与えられる刺激に体はいやおうなく反応を示す。

 その葛藤のなかで、維の心は剥き出しになってゆく。

 それでも、まだ足りない。こんなものでは満足できないのだ。


(けんせい──)


 今もどこかから自分を感じている男のことを想いながら、維はまた、身体が破裂するような衝撃を腹の奥で抱きしめるのだった。




 翔は生唾を呑んだ。医療棟地下の隔離エリアは、支部のなかでも、もっとも危険な場所のひとつだ(もうひとつは研究棟の最奥部である)。

 扉や窓は堅牢で、看守も警備部の手練れだ。それでも、自分が中にいるときに脱走者が出たら、という不安は拭えない。


「よ、気分どう?」

「悪く、ないかな。よく……も、ないけど」


 座っていても翔を見下ろせる頭がクニャリと曲がって、目という目が細まる。


「それじゃ──」


 同行していた医師が言った。


「お体の様子をチェックさせてくださいね」


 奈月の定期健診が始まる。血圧、体温、簡単な問診。やっていることは一般の病院と変わらない。

 それでも、訓練生である翔がひとりで面会に来ることは出来ない。今ここにいるのは幸運の賜物だった。

 今日も引き続きの待機命令に加えて、凰鵡は真嗚に稽古を付けてもらうという。自分もトレーニングに励みたかったが叔父は多忙。右手が完治してないとのことで、タヌキ先生から自主練の許可も下りなかった。


 皆が務めに励むなかで身の置きどころがなく、一度家に帰ることも考えた。

 そこに、奈月の担当医から面会の誘いが来たのだ。

 形式上は、健診への同行。安全面から警備員もひとり随伴していて、部屋の隅で気配を完全に断っている。


「なにか、欲しいものとかあるか? 出来るだけ掛け合ってみる」


 健診のあとにしばしの時間を与えられて、翔は当たり障りのない話をした。


「ありがとう。でも、物はいいかな。ずっと眠たくて、あんまり、手に付かなそう」


 奈月には今までと異なる薬剤が処方されていた。詳細は翔も知らないが、衆の薬師が作ったもので、鎮静効果が強いらしい。


「でも少し寂しいから、できれば大鳥くんに、もうちょっと多く会いたい」

「すまん。オレひとりじゃ、ここに来られないんだ。今みたいに、健診に着いて来るとかしないと」

「そうなんだ……」


 奈月の長い頭が弧を描いてうつむく。

 頭頂の目が、翔を真上から見下ろしている。


「ねぇ、朱璃さんって人、大鳥くんの彼女?」


 唐突な問いに、翔は眉根を顰めた。

 周囲の空気が黒く染まったような気がした──照明を遮られたのとは別に。


「いや、ダチ……ていうか同僚だけど」

「そう」

「翔くん、そろそろ戻りましょう」


 医師が割って入った。長居できないのは事実だが、この空気から抜ける助け船を出してくれたようで、翔にはありがたかった。


「じゃぁ、また来る」

「きっと来てね」


 手を振る奈月。幾重もの視線に見送られて、翔は部屋を出た。


「大丈夫かい?」


 警備員に訊かれて、我に返る。

 嫌な汗がドッと湧いてきた。

 なにか、泥のような影が奈月の部屋から伸びて、自分にまとわりついている──そんなイメージが頭に浮かぶ。

 何かが起こる──直感が凶兆を告げている。




 兄が《鬼不動》と呼ばれはじめたのは、十五歳のときだと聞いた。自分の十五歳はもうすぐ終わろうとしている。にもかかわらず、兄ほどの名声は得られていない。

 皮肉のように付いた渾名は、あろうことか《姫不動》。

 そのことが、この一年、ずっと悩みの種だった。

 が、この差はどうやら修行の方法に原因があるらしい、と凰鵡は肌で感じた。


「──ッ!」


 声も上げられず、修練場の壁に叩きつけられた。息を整える間もなく、眉間とみぞおちに拳が連続で突き込まれる。

 強烈な目眩のなか、くの字に折れる身体を引っぱられて、今度は床へ放り投げられた。受け身もまともに取れず、顔面から着地する。


「ほれほれェ! 動かにゃサンドバッグになるだけじゃぞ!」


 本人が言ったとおり、師の稽古は、兄のそれとはまったくの別物だった。

 浴びせられる徹底的な猛攻。まったく緩まぬ攻め手に対して、即応できねば滅多打ち。むろん反撃は認められているが、防御すら満足にならない。


 兄は体力作りにこそ厳しいノルマを課すが、実戦修練では弟弟子にひたすら攻め込ませ、自分は決して反撃しない。防戦の修練でも威力を弱めた気弾を用いる。

 ゆえに、稽古でこうも痛めつけられるという経験を、凰鵡はついぞ味わったことがない。


「ぐぅッ」


 立ち上がった刹那に背後から腰を掴まれ、真後ろに投げられていた。後頭部を庇って背中から着地する。息が詰まり、視界が明滅する。

 寝たまま脚を振り回して、距離を取りつつ起きる。すかさず詰めてきた師にカウンターを狙って蹴りを放つも、アッサリとかわされ、また連打からの投げを喰らう。


 その次も、その次も……何度やっても同じ。格闘ゲームの起き上がり攻めをリアルに受けているようだった。

 激しく揺さぶられ、痛めつけられ、息を整える暇もない。完全なルーティンに入り込む。


(いやだ……たすけて…………)


 心がパニックを起こし、体力よりも先に、平衡感覚と気力が尽きてくる。


「流れを感ぜぇィ! 顕醒はやってみせたぞ!」


 急速に意識が冴え渡る。

 凰鵡にとって、その言葉は魔法の呪文だ。

 耐えてみせる──この地獄のような試練に。その先に、兄の背中があるのなら。

 息を吸った一瞬、流れが来る。

 師の動きにあわせて、凰鵡は身を退いた。


(竜王──!)


 パーカーから倶利伽羅竜王を繰り出し、揮う。


「おッ」


 真嗚も即応した。刃と掌、双方の気がぶつかって光の火花が弾ける。

 刹那、真嗚の掌がひるがえって竜王を斜め上へといなす。


(おん)──!)


 その瞬間、凰鵡は逆の手でもうひとつの剣を抜いた。

 二本指を立てた印。その指先から気弾を放つ。


「うッ⁈」


 驚く真嗚だったが、これも弾いた──否、掴み取った。

 だめか──凰鵡にはこれ以上、打つ手がない。来たる連打に覚悟する。

 ……が、師は踏み込んでこない。気弾を握った拳を見つめて、立ち止まっている。


「お師匠様……?」

「おんし、これは何じゃ?」


 手を開いてみせる。掌のうえでは、光の礫がまだ、淡い輝きを発して浮遊していた。

 問いの意味を掴めず、凰鵡は黙り込む。


「これは、おんしの気か?」

「は……はい、そうです」

「顕醒に教わったンか?」

「はい。兄さんから」

「ふぅむ……ふむ」


 困惑する二番弟子を尻目に、真嗚はパチンと指を鳴らす。凰鵡の気が弾けて消えた。


「此度はこれまで。次は明朝じゃ。最後はよう反撃に出たが、まだ序の口と思えよ」


「はい……ありがとうございまし──」


 礼をした瞬間、バランスを失って頭から落ちた。かろうじて手を突き、四つん這いになる。

 十分も保たなかった。疲労困憊。身体じゅうが痛い。


「活」


 首筋に触れる指。あたたかな流れが全身を巡り、疲れと痛みが和らいでゆく。

 不動の内功。操れて当然なのだが、師が用いるのを見たのは久々で、どこか新鮮だ。


「ありがとう……ございます」

「ええよエエよ」


 いつもの人懐こそうな笑顔で、真央は弟子に肩を貸した。


「よしゃ、医務室行くぜ」

「大丈夫です……少し休めば。お師匠様は事務所に戻ってください」

「いんや、ちょっと聞かせろい」


 修練場を出て廊下を進む。


「おんし、念についてなんと教わっとる?」


 念──衆の闘者が、神通力や超能力を発現させる鍵である。

 念ずる、とは、強い意志と想像力をもって一心不乱に(おも)うことだ。その念を特別な修練によってさらに鍛え上げ、最後には物理法則を覆すほどの作用を自身や他者に反映させる。

 この技術を《念法》と呼ぶ。


「ふぅむ」


 学んだことを確かめるように語った凰鵡に、真嗚は溜め息のような相槌を返した。


「あの弾……撃てた言うとったのは、去年の今ごろじゃったな。浮かせられるか?」


 凰鵡はドキリとする。気弾を出せるようになって一年経つが、兄のように自在に操るには至っていない。いまだに投げつけることしか出来ない。

 それを白状しても、不動翁は静かに「そうか」と応えただけだった。


「《呪い》をどう考える?」 


 話が転じたことに、凰鵡はいささか混乱する。


「とくに、相手にアホほど災厄を喰らわすくらいの、とんでもない呪いじゃ」


 頭を切り替えて凰鵡は考える。

 呪い──誰かの不幸を願うこと。あるいはそのための儀式。

 だが、その願いが、実際に災いを起こす。

 思いが現実に影響する……それではまるで。


「呪いも……念法なんでしょうか」

「そうじゃな」


 師の同意が、凰鵡の心を冷え込ませる。


「この世には《(ことわり)》というものがある。神通力が破る物理法則もそうじゃが……因果関係というものもある」


 因果──不動では〝流れ〟として捉える重要な概念だ。さっきは凰鵡も一瞬だけ流れを感じた。


「この世のすべてが、因果の流れのなかにある。人の身に起こることも同じじゃ。幸運になるも、不幸になるも、それなりに原因があっての結果じゃ。どんなに唐突に見えても、病には病の、事故には事故の、死には死の原因がある。じゃが、ときに呪いは、因のないところから不幸という果を生みだす」


 因のない果……原因のない結果…………

 心で復唱するうちに、凰鵡のなかで寒気が増してゆく。


「顕醒がまだ教えとらんようじゃが、儂が先に言うてしまう」


 真嗚の声で意識が現に戻った。

 気が付くと、医務室は目の前だ。


「因果に通ずる点でな……儂ら《不動》は他の念法よりも、《呪い》に近い」


 凰鵡は愕然とする。

 だが、師の言葉を吟味する暇はなかった。

 医務室のなかが騒がしい。

 そこそこの人数がいるようだが、何かあったのだろうか。


「ことの次第を聞かせぇい!」


 扉を開け放って真嗚が叫ぶ。

 この瞬間、凰鵡は師が医務室に来たわけを理解した──自分を診せるためではなかったのだ。

 翔、紫藤、タヌキ先生がこちらを振りむく。その中心にいるのは零子と────


「朱璃さん⁈」


 師の肩を脱して、ベッドへと駆け寄った。

 縁に座った朱璃は、血走った両眼を見開いて、必死に呼吸を整えていた。

 乾いた血が、顔と服を真っ赤に汚していた。




 五分前────

 事務室にある自分のデスクで、朱璃はいつものように情報の分類作業をしていた。

 大事件の捜査が行われているあいだにも、怪異の目撃、心霊相談、他組織からの応援など、支部にはさまざまな情報が舞い込んでくる。

 支部長がそれぞれの問題を精査しやすいよう、あらかじめカテゴライズしておくのも朱璃のおもな仕事だ。


「朱璃ちゃんいる⁈」


 とつぜん扉が開かれて、朱璃は椅子から転げ落ちるかと思うほど驚いた。

 翔だ。奈月のところへ行っていたはずだが、何があったのか息を荒くして、尋常ならざる雰囲気を発している。


「翔どうした?」


 朱璃より先に、紫藤が問う。


「ごめん、話してる暇がない! 朱璃ちゃん、オレと医務室来て──すぐ!」

「え、え、え?」


 混乱しているうちに、翔が腕を掴んで引っぱる。


「痛い! いきなりなに⁈ 仕事中なんだけど!」

「ホントわりぃ! 急いで!」


 仕方なく、掴まれたまま部屋を出る。


「翔⁈」

「飯生木と話してたら、すげえ嫌な予感がしたんだ!」


 ほとんど駆け足に廊下を渡りながら、追ってきた紫藤に対して、要領を得ない釈明をする。


「予感⁈ 予感って──!」


 そんな曖昧なもので振り回されていることに苛立ち、腕を振りほどこうとした。

 が、思いとどまった。翔の勘はよく当たる──凰鵡もそう言っていた。それに奈月といえば、昨日の、まとわりつくような視線。

 まさか…………だが、なぜ。


「──ッ⁈」


 階段を降りた直後、朱璃は声にならない悲鳴を上げて、強引に足を止めた。


 廊下のさきに、真っ黒いものがいた。

 人の影……に見えるが、なにか、いびつだ。

 頭が…………そう、頭がいくつもあるように見える。そして、自分を見ている。


「朱璃ちゃん?」

「いや!」


 翔に引かれても、朱璃は頑として動かない。

 医務室は、その影の先なのだ。


「朱璃くん、どうした⁈」

「そこ……! そこに!」


 震える手で影を指す。


「翔、見えるか?」

「見えねぇ」

「なんで⁈」

「朱璃くん、落ち着いて。何が見える?」


 両肩に紫藤の手が置かれる。


「真っ黒い……人みたいなもの……頭がいっぱいあって、たぶん、私を見てます……」


 そう答えた瞬間、影が、こちらに向かってきた。地面を滑るように、ゆっくりと。


「いやぁ!」


 反応で察したのか、紫藤がふたりの前に出る。印を結んだ手を前に突き出すが、影は止まらない。


「どうした⁈」


 騒ぎを聞きつけたか、玄関脇の詰所から警備員が走ってくる。


「彼女にしか見えない何かがいる! 不動翁に連絡を──!」

「朱璃ちゃん、こっち!」


 翔が朱璃の手を引いて廊下を逆走した。支部の建物は回廊になっているため、回り込もうという算段だ。

 が、最初の角を曲がったところで、またも朱璃は悲鳴を上げた。

 いるのだ──目の前に。


 もと来た道を振り返れば、紫藤の向こうには何もない。確実に、自分を狙って瞬間移動してきている。

 逃げられない。絶望感が朱璃を包んだ。


「目ぇ瞑って!」


 翔がいきなり抱きしめてきた。足裏が床を離れる。


「オレのせいだ。すまねぇ──」


 瞼を閉ざした暗闇の世界に、翔の囁きが聞こえた。

 とたん、ジェットコースターに乗ったような揺れと風切り音が襲ってきた。


「翔、無茶を──!」


 紫藤の声が、一瞬で近づいて遠ざかる。

 それに被さるように…………


 ──ィィィイイイイィィィィ──


 叫び? 警報? 泣き声? 金属音?

 人の声かどうかも分からない音が、耳のすぐそばを通り過ぎていった。


「入って!」


 タヌキ先生の声。急減速の衝撃、靴底が床を擦る音、ドアが乱暴に閉じられる。医務室の独特の薬品臭。


「そのベッドに──地下からも話は聞いてるよ」


 尻にマットレスの柔らかさを感じて、ようやく助かったと感じた。

 翔に絡めていた手を放し、目を開ける。

 …………真っ暗な両手があった。

 翔とタヌキ先生のあいだに無理やり挟まるように、ぐにゃりと歪んだ影。


「ぁ……」


 影の両手が、朱璃の顔に埋まった。


(やめ……ゃ……)


 視界が赤く染まる。鼻の奥から熱いものが広がって、前へも後ろへも流れ出す。

 言葉にならない強烈な悪寒で、頭のなかがメチャクチャになってゆく。


(私、死ぬんだ……)


 否定しようのない確信に包まれ、朱璃の意識はブラックアウトしてゆく。


 ──ナ、ンデ!──


 暗室に電灯をつけたように、すべてが鮮明になった。


「朱璃ちゃん!」

「朱璃さん!」


 零子が目の前にいた。面会謝絶だったのに、部屋から飛び出してきたのか。

 朱璃は今度こそ安堵し、泣いた。

 猛烈な吐き気、顔の奥に渦巻く疼痛。眼と鼻から出血していたらしい。


 たったいま体験した恐怖も甦って、心のなかはグチャグチャだ。

 それでも、生きていられることが、何よりも嬉しかった。


「ことの次第を聞かせぇい!」

「朱璃さん!」


 真嗚と凰鵡が医務室に入ってきた。


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