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証の節・蹉跌 其之壱『劾かれるもの』

 証の節  蹉跌(さてつ)


   ④(あば)かれるもの




 朝飯どきを少し過ぎた街なかは、まだ人もまばらで、裏通りともなれば場所によっては深夜よりも閑散としている。

 そのなかにある二階建てテナントビルの呼び鈴を、維は押した。

 カチリ、と扉のロックが解かれた。

 玄関をくぐり、直進をさえぎるように置かれた衝立の脇を抜ける。


「いらっしゃい」


 夜を統べるような妖艶な美女が、維を迎える。

 香音(かのね)──衆の元闘者だ。そして妖種医、藐都(ばくと)イルマの妻でもある。


「話はあの子から聞いてるけど、本当にいいの?」


 優しい──だが悲しげな眼で問う。

 その香音に、維は深々と頭を下げた。


「こないだは失礼な態度とって、すみませんでした。どうかよろしく願いします」

「いいのよ。そう……わかったわ」


 香音は壁際のソファに歩み寄り、底面に指を掛ける。

 そして、片手で横倒しにした。

 ソファと一緒に真下の床も垂直になって、コンクリートの階段が現れた。


「どうぞ」


 うながされるまま、維は灰色の(きざはし)を一歩一歩踏みしめながら降りる。


「へぇ」


 辿り着いた部屋の様相に、思わず感嘆を漏らした。

 十二分に快適そうな居住空間だ。奥行きのある広いワンフロアに、必要な設備がすべて揃えられている──さすがにトイレは別枠のようだが。

 床は絨緞、照明はシャンデリア型、壁紙も空調も整えられていて、窓がないことを除けば地下であることを忘れそうだ。


「拷問部屋でもあると思った?」


 入口を閉めて降りてきた香音が図星を突く。


「ちょっとね」

「まぁ、失礼は相変わらずじゃないの」


 言葉とは裏腹に微笑みながら、部屋の主は部屋の一角へと進む。

 クイーンサイズのベッド。夫妻の地下生活において、それが主役の位置を占めていることは、想像に難くない。掛け布団を剥がれた姿が、いかにも準備万端と言いたげである。


「いらっしゃい。あまり時間もないんでしょ?」


 香音がベッドの縁に尻をおろして、隣にいざなう。

 いわれるままに、維は並んで座った。

 スッと、香音の指が、維の頬に触れる。


「綺麗ね」

「お世辞はやめてください」

「……お世辞じゃないのよ」


 指が首筋におりる。

 ぞわ……と、悪寒ではなく、頭が痺れるような甘い刺激がきて、維は思わず吐息を噛み締める。

 これが《色者(しきじゃ)》の技か。


 色者──字のごとく、色妖や、色事を用いた呪術問題に対処するエキスパートだ。その多くはさまざまな《房中術(ぼうちゅうじゅつ)》や《色術》を操り、香音もまたその道では名うての使い手だったという。


「じゃ、はじめるわよ」


 窓のない部屋で、維の試練がはじまる。




 街を吹き抜ける風に、束ねた黒髪が揺れる。

 間口の狭いマンションの屋上。その縁に顕醒は座り込んで、藐都のオフィス兼自宅が入ったテナントビルを見下ろしていた。

 まれに往来から仰ぎ見る者がいても、彼らの意識に、革ジャンの男は映らない。

 抹殺された気配──だが、それを捉える者が、ひとりいた。


 背後から歩み寄るエナメルのブーツ。ベージュのスラックス。フリルの付いたサテンの白シャツ。そして、顔をすっぽりと隠す覆面。

 色妖、藐都イルマだ。


「きみは──」


 顕醒の隣ではなく、その斜め後ろで、足を止めた。


「──恐ろしい男だと、思う」


 広い背中を突き刺すように言葉を投げた。

 反応はない。


「維くんの決めたことだとしても、それを許すということが、ボクには理解できない」


 やはり返事は来ない。イルマも、そんなものは最初から期待していないのかもしれない。


「きみなら、すべてを片付けられる。どうして守ってあげない。彼女に殴られてでも、そうすべきだった」


 ひとり芝居のように、イルマの声だけが、その場を流れてゆく。


「彼女を愛していないのか? それとも、ボク達への当てつけなのかい?」


 非難じみた強い問いをいくらぶつけても、聞こえてくるのは下界の雑踏と、風の音だけだ。


「……わかったよ」


 結局、イルマが折れた。


「どうなっても恨みっこなしだ」


 顕醒の隣に歩み出る。


「彼女がどうなっても、だ」


 そう言うや、屋上からストンと飛び降りた。

 往来にまぎれた覆面の妖種を目で追うこともなく、顕醒は瞼を閉じる。

 ふたたび開かれた眼は、はるか遠くに向けられる。

 地上一〇〇メートルを超える電波塔。

 その頂にある、メンテナンス作業用の小さな足場。

 吹きつける風にボロ布のマントを揺らしながらも、ピクリとも動じずに佇む怪僧。

 その存在を捉えても、顕醒はただ静かに座り続けていた。


     *


 ひとつ前の世代に取り残されたような雰囲気のマンションだった。二十数年前の再開発で建てられた公営のものだという。


「二、〇……三。飯生木(いなりぎ)、と」


 集合ポストで部屋番を確かめる。

 たずね先の名は、飯生木(いなりぎ)奈月(なつき)。母親とふたり暮らし。

 ここへ来たきっかけは、およそ二時間前に遡る…………



 朱璃と紫藤も合流して皆で朝食を摂ったあと、真嗚の意向により、そのまま食堂での第二次ミーティングが始まった。

 理由は、喫煙者用の分煙ルームがあるからだ。


 「いやスマン。腹減りも天敵じゃが、コレがないとドタマが爆発するンでの」


 一服したあとの香草の匂いが残る長煙管(きせる)を指で回しながら、思索にふける。そんな師の姿を見たのも久しぶりだ。


 「怨みじゃな」


 煙管を回す手をピタリと止めて、真嗚は確信めいた声音で告げた。

 呪殺も囚人殺しも、誰かが犠牲者を強く怨んだことが、直接の原因だという。


 「どの事件も、呪具や術を介した痕跡がねぇ。犠牲者はみな、ファイト一発ならぬヘイト一発で死に追いやられとる。囚人らを襲った妖種も、怨みから生み出された思念体の一種じゃろう……まぁ、生霊(いきりょう)じゃな」


 悪寒と目眩がいっぺんに来た。怨んだだけで人を呪い殺せた──ひょっとしたら、なんの修行もしていない一般人が。

 怨霊、憑物、呪い屋……これまでにも怨念や呪術による事件は見てきたが、こうまで簡単かつ激烈な呪殺は聞いたことすらない。本当に可能なら、誰もが人を呪い殺せてしまうだろう。犠牲者の数だけ呪者がいるかもしれない。


 「問題は、死者を怨んだのは誰かじゃ。特定は容易ならん。誰からも怨まれずに生きるッちゅぅんはムズいもんじゃ。ちぃとした行き違いで遺恨なんぞズカボコ生えるし、聖人君子でも悪党から疎まれりゃアウトかもしれん」


 師の言葉に、凰鵡は生きているのが少しつらくなった。気付かないあいだに失言や無神経で誰かを傷つけていたとしたら……正しいと信じてやったことで誰かの立場を潰していたら……いずれ自分も、身に覚えのない呪いで死ぬことになるのだろうか。


 「凰鵡らのほうは、とにかく呪者をひとりでも特定してくれい。そうすりゃ、呪死者と呪殺者を繋ぐ念の性質がわかる」


 師の言った念とは特別なものではなく、精神の作用だ。力そのものはあらゆる人に備わっていて、心身で感じられずとも、つねに他者や周囲と繋がっているという。


 超能力者や神通力者は、強靱な意志と想像力によってこの念を増幅させ、物理法則を破る力を発揮している。

 が、まれに一般人でも、強すぎる感情や長年の蓄積によって、大きな影響を及ぼすほどの念を発揮させることがある。怨念もその一例だ。


 「ッてなわけで、まず、こンなかから、ひとり選ぶ。ほんで一意専心、徹底究明で、呪殺者を突き止めるンじゃ。よろしく」


 そう言うや、不動翁はコーヒーや紅茶のカップが並ぶテーブルの中央に、何枚もの写真を撒いた。

 呪死者の顔写真──むろん生前のものだ。枠外には読みやすい字で名前と年齢、おおよその住所が書き込まれている。おそらく零子が事前に用意していたものだろう。

 とはいえ、凰鵡は「うーん」と頭を抱える。犠牲者は十二人。老若男女入り混じっていて共通点もなさそうだ。もちろん顔見知りはおらず、彼らが誰から怨まれていたかなど、どうやって調べればいいのかも分からない。


 が、ここでまさかの巡り合わせが起こった。

 導かれるように、翔が一枚に手を伸ばしたのだ。

 髪を明るい茶色に染めた女性。いかにも今風で、少し気の強そうな印象だ。


 彼女を見る翔の眉は、疑心に駆られたように、強く顰められている。好みのタイプだから選んだ、というわけでないのは明らかだ。

 名は浦田三香(うらたみか)。翔と同じ十八歳。


 「……知り合い?」


 凰鵡が訊ねると、翔はやましさを隠すように目を泳がせながら答えた。


 「中学の同級だ」



 …………階段を昇りきると、二〇三号室は目の前だった。

 住人の飯生木奈月もまた、翔の中学時代の同級生だ。深い面識があったわけではないらしいが、浦田三香から彼女を結びつけたのも翔だった。当時とは住所を変えていたが、紫藤の手助けもあって、二時間ほどでここに辿り着くことが出来た。


 呼び鈴に指を構えて、翔が凰鵡を見る。

 凰鵡がうなずくと、部屋のなかにベル音が響いた。


「はい……」


 少しあって、くぐもった女性の声がインターフォンごしに応じる。

 ザワリと凰鵡の背筋が粟立つ。こういうときは、よくないものが近い。


「翔、やばいかも……」


 常人には聞き取れない声量で囁く。

 翔は渋々といった表情でうなずき、インターホンに向けて口を開く。


「えっと……僕は、大鳥翔っていいます」

「大鳥くん──?」


 静かだが、驚いた声。


「飯生木か?」


 先方は沈黙した。音には出ないが、鉄扉の向こうに空気の揺らぎのようなものを感じる。翔も感じているだろうか。


「……なんで、ここ知ってるの?」

「ごめんだけど、住所は調べた。浦田のことで話があって。けど警察とかは関係ない……これはマジ」

「私が殺したって言うの?」


 決まった、と凰鵡は確信し、翔の手際に感嘆する。

 浦田の死は、ただのいちども報道されていない。遺族にすら周囲に漏らさぬよう堅く口止めがされている。

 そして翔は「浦田のことで」としか言っていない。


「わからない。一個だけ、教えてほしい」

「なに?」

「浦田を怨んでるか?」

「うん。それが?」


 冷然とした答えに、凰鵡は考え込んでしまう。

 怨念の力は科学で証明できない。ゆえに怨むことや、呪いそのものが法で裁かれることはない。


 だが、誰かを怨んだり、呪ったりすること、それ自体に、やましさや虚しさは感じないのだろうか──たとえそれが、身に受けた理不尽に対する復讐だとしても。


 凰鵡には分からない。殺してやりたい、あるいは死んでほしいと願う相手など、まるで思いつかない。


「そりゃそうだよな」


 それだけに、翔の肯定にも一瞬、耳を疑った。


「オレも今じゃ、この手でぶっ殺したいほど憎いヤツがいる」


 凰鵡はハッとなって、翔に申し訳なく思った。

 天風鳴夜──翔にとっては父と恋人を死に至らしめた仇敵。衆に参入し、厳しい訓練に耐えているのも、ふたりの仇を討つためだ。


「だから浦田が憎いのも、少しわかる。オレも……あのとき何もできなくて、ごめん」

「私に殺されたくなくて、謝りに来たの?」


 凰鵡の頭はふたたび混乱する。なぜ、翔が彼女に殺されねばならないのだ。


「そうかもしれねぇ。ほかにも誰かを?」

「答えるのは一個じゃなかったの?」

「そうだな……浦田のことが本当なら、オレはお前を捕まえなきゃならない。他にも誰かを殺ろうとしてるンなら、ドアをぶっ壊してでも止める」


 決然とした翔の言葉に、飯生木の息が震えたのが分かった。


「警察は関係ないって、嘘なの?」

「嘘じゃない。けど、ある仕事をしてる。呪いとか妖怪とか……信じられないくらい変なものに関わる仕事だ」


 凰鵡からすればかなり大雑把な言い方だ。だが、くどくどと説明してしまう自分と違って、要点を絞って相手に伝えるのが翔は上手いと感じる。


「変なもの……いっぱい見るの?」

「かなりな」


 長い沈黙。インターホンがホワイトノイズを流し続ける。

 不安げな視線を向けてくる翔に、凰鵡は同じような眼差しを返すしかない。

 突入か……それとも…………


「大鳥くんは悪くない」


 ガチャリ──鉄扉から、鍵の解かれる音が響いた。

 翔がノブに手を掛ける。

 いいの? と凰鵡は唇を動かす。

 少し迷いながらも、翔はうなずいて扉を開けた。


「……おじゃまします」


 前に出ようとする凰鵡を止めて、翔が先にかまちを越える。

 うす暗いダイニングキッチンだった。インターホンの親機から受話器が垂れ下がって揺れている。そばには誰もいない。

 腐臭。靴下ごしに感じる床の塵埃。動く気配に部屋の隅を見やれば、食器棚の陰に隠れる黒虫の影。


「飯生木……?」


 翔はゆっくりと進む。

 ダイニングの先にある、閉ざされた襖。その向こうから息遣いが聞こえる。


「待って」


 引手に指を掛ける直前で、奥から待ったがかかった。


「なにを見ても怖がらないって、約束して」

「飯生木? 大丈夫か?」

「怖がらない?」

「……ああ」

「じゃ、いいよ」


 翔は襖を開いた。

 カーテンの閉ざされた暗い和室。

 布団に臥せった人影と、それに寄り添うように毛布を被って座り込む人影。


「いな……」


 一歩踏み込んで翔は止まった。

 寝ているのは生者ではなかった。かろうじて年輩の女性と見える。不自然に黒ずんだ肌。見開かれた両眼は白濁し、鼻からも口からもドロリとした濃液が漏れ出ている。

 腐臭の原因はこれだ。


「もしかして、お母さんか?」


 翔がかたわらの人影に訊ねる。

 人影は毛布ごと傾いて肯定する。


「そうか……」


 翔は溜め息を吐く。困惑、悲嘆、諦観……様々な感情の混じった吐息だった。


「飯生木は、大丈夫なのか?」


 翔が問うと、毛布がブルブルと震えた。


「私が……殺した」


 声が潤んでいる。顔は見えないが、泣いているのが分かる。


「私、自分が分からない。どうしちゃったの? なんでこんなことになったの?」

「オレらも、まだ調べ始めたとこだ。よく分かってない」

「私のこと、殺すの?」

「まだ、あなたが──」


 ここへ来て、凰鵡が初めて応えた。


「──誰かを……殺めるつもりなら、そうしなきゃいけません。けど、これ以上、誰も傷つけたくないのなら、ボクらはあなたを保護したいです」

「黙って帰るってことは出来ねぇ。すまん」

「いいよ。でも私なんか、殺されたほうがマシかも」


 毛布の内側から長細い指が出てきて、ベールを剥いだ。

 凰鵡は息を呑んだ。翔は悲鳴も呑んだだろう──暗がりの至近距離で目の当たりにしたのだから。


「助けてよ……ねぇ」


 涎を垂らして嘆き訴える飯生木奈月の口は、下顎を失っていた。

 違う。頭部と頸部の区別がなくなって、あり得ないくらい縦に引き延ばされている。


「無理なら、殺してよ。そうじゃなきゃ……」


 飯生木が立ち上がる。

 その瞳が一斉に翔を見下ろす。

 十……二〇……反射的に数えようとして、凰鵡はやめた。


「……大鳥くんのことも、殺しちゃうかも」


 もとの双眸がどれかも判らない、いびつな瞼の群れ。

 そのなかに、涙を流していないものは、ひとつもなかった。


     *


 強い情念はその人の面相をも変える、という話を聞いたことがあるが、これはそんなレベルではない。

 医療棟地下の隔離施設。収容された飯生木奈月の姿に、朱璃の心は痛む。


 ヒトが妖種に化けるのは以前にも見た。だが、あのときの変異者達は己を顧みなかった。寄生した蟲の作用によって、変異を受け入れるように仕向けられていた。

 奈月は違う。いまの自分の姿を嘆いている。


「変わったことは、なにもしてません」


 ベッドの縁に掛けて、奈月は質問に答えてゆく。首から下は変異していなかったおかげで、入院着には問題なく袖が通せている。


「違和感を覚えたのは、いつからですか?」


 パイプ椅子に座った女性医師が問いかける。この部屋のなかでは、頭ひとつ抜けた年長者だ。あとは凰鵡、翔、そして自分。


「三日前……だと思います。私、ひとりで家から出られなくて、お母さんと病院に行く以外だと、ずっと部屋で寝てるんです」


 奈月はかねてより重度の気分障害を患っていた。そのために高校を中退、復学も就職も出来ず、自宅での療養が続いていたという。

 発症のおもな原因は両親の不仲と離婚……そして中学時代に受けた〝いじめ〟である。

 その加害者側たる女子グループのリーダー格こそが、浦田三香だった。


 翔が浦田の写真から奈月を連想したのなら、いじめの事実を知っていたことになる。どういう形で関わっていたのだろう……彼に限って、加担していたとは思いたくないが。


「あの日も、布団のなかでずっと泣いてて、動けなかったんです。つらかったことがフラッシュバックしてて」


 そうして過去に苛まれるうちに、ふと浦田の姿が脳裏に浮かんだのだという。それも、明晰夢を見るような鮮明さで。

 すぐに、中学時代の回想ではなく、現在の浦田が見えているのだと確信した。彼女は自室のベッドに寝転び、友人と旅程の話をしていた。卒業を前にした記念旅行の相談だ。


 怒りと憎しみが、奈月の悲しみを喰らった。

 自分がこんなに苦しんでいる一方で、元凶のコイツは何食わぬ顔で青春を謳歌している。

 憎しみは怨みへ、怨みは殺意へと、またたく間に膨れ上がる。

 死ねばいい。いっそ、この手で殺してやる。


 復讐心──あまりにも人間的で、ありふれていて、苦しんでいる者にとっては、すべてを正当化しうる感情。その衝動にかられるままに、奈月は浦田のうえに跨がって、その顔に、腕を突き刺していた。

 その行為に違和感は覚えなかった。まさに夢のなかにいるような全能感だけがあった。出来る。いまの自分なら出来る。コイツを殺せる。

 顔、胸、腹、股……手当たり次第に、奈月は浦田をめった刺しにした。


 浦田は別人のように顔を歪めて、奈月のほうを見た。こちらに気付いたかは分からない。悲鳴を上げたようだったが、その口からはなんの音も聞こえてこなかった。ただ彼女の苦痛だけは伝わってきて、それが奈月にはとても心地よかった。


 震える足で上手く立つことも出来ないまま、浦田は精一杯逃げようとした。這いずりながらベランダへ出ると、最後の力を振り絞って、目の前の恐怖から脱した──地上七階の柵の向こうへと。


「気が付いたら家の布団に戻っていて……でも、あれは夢じゃないって思ったんです。怖くなって震えてたら、お母さんが帰ってきて……私、部屋から出ました。お母さんの顔を見たら、全部ただの夢だったって思える気がして」


 だが、部屋から出てきた娘を見て、母親は聞いたことのない悲鳴を発した。


「うち、キッチンにも鏡があるんですけど、私もそれで自分を見て……」


 そのときの彼女の衝撃は、察するにあまりある。鏡のなかの頭は長く伸び、眼球を十個近くも増やしていた。とうぜん視界にも異常が出ていたが、映して見るまで自覚がなかったという。

 しかし、そこから母親が亡くなるまでの顛末こそ、朱璃には聞くに堪えないものだった。

 ふたたび部屋に逃げ込んだ娘に対し、襖の向こうから母親が浴びせたのは、心配でも気遣いでもなく、あらん限りの罵倒だった。

 バケモノ──なんでこんなことに──もうおしまい──もっと普通の子だったら──なにもかもお前のせい────


 もともと、衝動的に暴言を吐く癖が母親にはあったらしい。養われている負い目もあって、奈月もこれまではそんな母に耐えるしかなかった。だが今回、ついに理性の鎖は解かれ、恐ろしい凶器へと変じた。


 ──死んでよ。

 奈月は襖の向こうに透けて見えた母へと、腕を伸ばしていた。


「私……もとに戻れるんでしょうか」


 話し終えた奈月は、不安に満ちた声で訊ねた。


「正直、まだ何とも言えませんが、戻れるように全力を尽くします」


 女医が答える。容赦がないが、偽りもない。不確実な希望を見せるよりも、諦観に沿うほうが人に安心をもたらすこともある。


「お願いします」


 小さく頭を下げる奈月の様子は、かなり落ち着いて見える。誰ひとり彼女を怪物扱いしないからか、それとも翔がいるからか。


 普通だ──飯生木奈月は、心に傷を負っただけの普通の人間だと、朱璃は思う。零子のような霊感や見識がなくても、肌でそう感じる。

 その彼女が、いったいどうして、こんな恐ろしい力と姿を手に入れてしまったのだ。


「──⁈」


 インカムから着信音が聞こえた。リンクさせた端末を取り出すと、架電の主は顗。


「ごめん、着信入ったから出るね」


 小声で翔と凰鵡に告げ、小走りで戸口へと向かった。


「はい、朱璃です」


 通話を開きながら扉を閉ざす。刹那、奈月の目がこちらを向いているのに気付いた。

 その視線が、なぜか、ひどく恨みがましいものに感じられた。



 ──およそ一分前。

 家屋そのものは綺麗だが、門柱に併設されたポストにはチラシと封書が詰まっている。四人ほどの核家族で、そこそこ広く住めそうな庭付きの一戸建て。

 塀に囲まれた庭に面するテラスドア。そのノブが突然、パキンと吹き飛んだ。


(おじゃましますよッと)


 顗は戸を開きながら、土足で上がり込んだ。

 リビングのなかは、まるでゴミ捨て場。ろくに調理もされていない食材のカスや、叩き割られた缶詰の残骸が、えた臭いを撒き散らしている。


 その片隅に、空間を切り取ったような闇の塊が横たわっていた。一見、翔に倒されたものと似ているが、こちらは巨大なフナムシのようなシルエットだ。


 動かない。かといって融解も始まらない。

 たったいま、顗が外から吹っ飛ばしたノブの直撃を喰らって、昏倒したのだ。


「あ、もしもしー。えっと、朱璃さんか」


 顗はスマホを取り出して電話を架けた。


「リストの六件目でアタリだ。回収班の派遣を頼む」


 会話中も、標的から眼は逸らさない。

 リストとは、情報部が作成してくれた〝受刑者殺し〟の容疑者リストだ。怨恨が要因とのことで、候補はみな、犠牲者が生前に起こした犯罪の被害者や、その関係者である。

 天祐(てんゆう)が炸裂した凰鵡達とは異なり、こちらは列挙された人物を順番に当たってゆくという〝足での捜査〟が展開されていた。


 そして家々を当たること六軒、外観を見た瞬間に、顗はこいつだと確信した。

 鉄臭をはなつ赤錆にも似た禍々しい念が、家屋全体にこびり付いていた。


「よろしく、じゃぁこのまま見張っとくぜ」


 通話を切ると、あらためて異形を観察する。

 話に聞いたとおり、ほんとうに光の反射率がゼロだ。首を動かして視点を変えないと、立体であることを見失う。

 こいつは何なのだ。呪者の念に応じて使役される類のものだろうか。こうして気絶し、死後には融解もしていたということは、悪霊ではなさそうだが。


「あ……?」


 ふと違和感を覚えて、顗は妖種の体を真横から覗きこんだ。


「まじか」


 その闇の一部は、口を大きく開いたヒトの横顔に見えた。

 


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