忌の節・怯臆 其之弐『流転するもの』
②流転するもの
維はうめいた。
腹を抱えるようにおさえて、膝を突く。
「維!」
顗の声が遠い。
かたや、掌打の主は黙って目の前にたたずんでいる。
「顕醒……アタシ、駄目」
息も絶え絶えで、涎をすする余裕さえない。
恐怖に打ち勝とうとして、地下道場で組み手に没頭すること三〇分……答えは出た。いまの自分では、連中に勝てない。
《金剛》の神通力──肉体の硬化が使えなくなっている。
神通力にも種々あるが、維のそれは強い念によって物理法則を超えた力を発揮する《念法》型である。
その念が使えない。かつて邪願塔の巨人によって、虐待されていた当時の感覚を喚び起こされたときと同じだ。
向こうがただのヒトのままであれば、それでも楽勝だろう。だが十中八九、そうはいくまい。
また屈するのか。力尽くで、いいようにされるのか。
「無理すんな。奴らはオレらに任せろ」
駆けよってきた顗が肩を抱く。
それも悪くない。うん、とうなずいて、兄と顕醒に守られてしまいたい。
なまじ、自分がやらねばと思うから怖いのだ。絶対的な力の陰に隠れて、嵐が消えるのを待てばいい。
(それで……アタシは満足なの?)
この手で復讐すると誓って技を磨いた十数年間は、なんだったのだ。
(顕醒…………)
答えを請うように、潤んだ目で見上げる。
何を考えているのか分からない──だが迷いのない──いつもの双眸が、維をまっすぐ見下ろしている。
「ケン、お前もなんとか────」
沈黙に絶えかねた顗が声を上げたときだった。
顕醒のジャケットの胸ポケットからヘヴィメタルが鳴った。維が設定した着信音だ。
「はい」
端末を出して応答した顕醒が、数秒して眉根をひそめた。
「分かりました。顗達には、私から伝えます」
通話を閉じた。
「どした?」
「事務所に集合する」
そして、つづいて告げられた事実が、兄妹の息を止めた。
「──零子さんが倒れた」
二分前のこと──
ガラス窓の外は、夜明けが始まったばかりのインディゴブルー。
ラウンジに辿り着いて、紫藤は溜め息をつく。
事務所から零子の気配がする。
報告のために、翔達に先駆けて戻ってきたのだが、本音を言えば零子には寝ていて欲しかった。あとから「起こしてください」と叱責されてでも、待つつもりだった。
資料の不備を装って帰るか…………
考え、躊躇い、結局は戸をノックした。
「どうぞ」
「失礼します。紫藤、戻りました」
デスクの零子をひと目見て、唖然とした。
見た目以上に疲れている……紫藤にはそれが分かる。
「支部長、寝てください」
「寝てます。心配いりませんよ」
零子は即答して微笑んでみせるが、表情が弱い。
口に出したことはないが、紫藤はこの事務室をあまり良く思っていない。
窓がないのだ。刻を教えるものが時計しかない。逆を言うと、針を見なければ時間の感覚を失ってしまう。
そういう環境もあって、零子はよく寝食を忘れて仕事に没頭してしまう。睡眠障害を抱えてもいて、寝るときは導入剤で無理やり寝る。そうでなければ、いつまでも仕事をしているワーカホリックだ。それでいて、闘者のような体力強化訓練を受けているわけでもない。カフェインを濫用しないのが唯一の救いか。
朱璃が来てからはマシになったのだが、経験のためにとこちらへ同行させたのが、いま仇になっている。
「導星さんこそ、遅くまでお疲れさまです」
「恐縮です」
促されるままに、紫藤は応接セットへ向かう。こうなっては梃子でも効くまい。いかに迅速に用件を終わらせて休ませるか、というフロー図を頭のなかで組む。
「支部長。先にこれを──」
ソファを前にして、懐に手を入れながら振り返った。
それがあと一秒早ければ、と後悔する。
「れいこ──!」
麻霧零子の頭は、もう紫藤では止められない位置にまで墜ちていた。
*
空は水色の強い東雲。街はまだ目覚めない。
今日は朝靄が濃い。その彼方から遊環の音が響いてこないかと、凰鵡の心は落ち着かない。今のところ聞こえてくるのは鳥の声と、わずかな車、遠くで行き交うバイクの音だけだ(新聞配達だろうか)。
悪夢の続きは見ていない。ついさっき、兄からの電話で起こされたところだ。
ミーティングまでには時間があったが、家にいても何も手につかない。服を着がえると、すぐに支部へとやってきた。
またどこかで起こった事件への心痛と、これから始まる捜査への不安。
「あの、すみません」
正門をくぐった直後、背後から呼び止められた。
立ち止まり、振り返る。
ワンピース姿の少女がいた。十歳くらいだろうか。
「はい。どうしました?」
腰を曲げ、膝に手を突いて、少女と目線を合わせる。
「お姉さん、この建物の人ですか?」
「ええ、そうですよ」
お兄さんって言われたかったなぁ、と思いつつも訂正はしなかった。
「おぶせはるか、っていう人を知りませんか?」
「おぶせはるか?」
他意はないが、素っ惚けるようなオウム返しをしてしまう。事実、聞き覚えはない。
「ここの人?」
「……たぶん」
「ごめん、ボクは逢ったことがないかも。その人は、きみのお母さん?」
「はい。私、おぶせこはるっていいます」
どこか曖昧な少女の返答もさることながら、職員の娘という点に凰鵡は首をひねる。ここに務めている事実は、本人の家族にすら知られないよう厳重に秘匿されている。
少女が嘘をついているようには感じられないが…………
別の建物と勘違いしている? そもそも、こんな幼い子が、明け方にひとりで外にいること自体おかしい。
凰鵡はハッとする。少女の足は、この支部の敷居の前で止まっている。
まさか妖種────
「凰鵡?」
また背後から名を呼ばれる。声で誰かわかる。
迷いつつも、凰鵡は少女に気を配りながら振り向いた。
案の定、維が玄関からこちらに歩いてくるところだった。
珍しく不安げな眼差しに、凰鵡の心はざわつく。昨夜のことを気にしているのだろうか。
「……おはようございます、維さん」
つとめて穏やかな声を出す。
だが、維からの挨拶は帰ってこなかった。
「いま、誰と話してたの?」
「え──?」
驚いて門へと向きなおる。
朝靄にけぶる、いつもの街並み。
今のいままで、気配はあったはずなのに。
(幽霊?)
霊感は生まれつき強いほうだ。だから死者の霊に出くわすことも珍しくはない。ときには生者と見紛うものもいるが、近づけば区別はつく。
その自分をして、さっきの少女は、生者だった。
(空間転移?)
超能力者だというのか。疑い出せばキリがない。
「凰鵡」
維が隣まで来ていた。
「あ、えっと……女の子が、いたんです」
素直に白状した。維には見えなかったらしい。なら幻覚を見ただけということもある。どちらにしても、隠すとあとが面倒そうだ。
「十歳くらいの、ワンピース着た?」
「なんだ、見えてたんじゃないですか」
皮肉めいた言い方をしてしまう。
だが維にも見えていたことで心が安らいだ──直後に裏切られたが。
「んーん」
首を横に振られた。
「ラウンジにいたからアンタが来るのが見えて……でも、誰もいないトコに話しかけてたから……」
ぞく──背筋が一気に冷える。
「でも、それじゃ維さん……」
どうして相手の特徴が分かったのか。
「ごめん、話は中で。おいで」
玄関へ戻る維。
異存はない。凰鵡はその背を追いかける。
「そうそう、おはよう。早かったのね」
「家にいても落ち着かなくて。昨日の夜は……すみませんでした、嫌な言い方して」
「いいのよ。そろそろ来てるんでしょ」
「……はい」
謝らなければよかった、と少し思った。
イライラの大きな要因なのは間違いないだろうが、それで片付けられるのは気に入らない。分かってる、とでも言いたげな維のおおらかさも、今は癪に障るだけだ。
(ダメだ……ダメだ……)
心が、なにか黒いものに支配されている気がする。このままではいけない。
感情を抑えようと意識するほどに頭が朦朧としてくる。それを覚醒させようと意識して……負のスパイラルに陥る。
玄関を上がって階段に差し掛かったところで、維がふたたび口を開いた。
「じつは今、ちょっとトラブっててね」
「なんです?」
「零子さんが倒れたわ」
息が止まり、体がぐらつく。階段から転げ落ちないよう、手摺りを強く掴んだ。
「命に別状はないわ。いまは医務室でタヌキ先生が診てくれてる」
「なんで……」
「過労だって。面会はできないから、そこは気をつけて」
「そうですか…………」
無事と聞いても、心配と憂鬱で、もとから無い元気がさらに抜けていく。
今日は、なんて日なんだ──自分達のまわりに疫病神でもうろついているのか。
(翔……朱璃さん……)
友人達の顔が浮かぶ。
いつになく、彼らのことが恋しい。
*
(ッし──いっづ!)
ガッツポーズするや右手に走った激痛で、翔は無音の悲鳴を上げた。
「どしたの大丈夫?」
隣に座る朱璃が慌てて翔の(包帯でぐるぐる巻きにされた)手を見る。
「ダイジョーブダイジョーブ……」
笑って返すが、しかめっ面を隠しきれない。断たれた骨や筋は現場の医療班によって接合済みだが、安静を言い渡されてもいる。
ただ目に見えて(この数時間で判るほど)治りが早いらしい。このペースなら指の機能も数日で快復するだろうと言われた。
一方で、ヒトの域を超えたその治癒力に、皆が首をかしげた。しつこいくらいに心当たりを問われたが、あるはずもない。
「ああでもそういや……」
怪しいといえば、自分しか見ていないあの家出少年。彼の話をして、コンビニ内のカメラもチェックしてもらった。彼はたしかに映り込んでいた。それ以降は何も訊かれず、叔父は先んじて支部へと戻った。
明け方には翔達も駅まで送られ始発電車に乗った。傷に障るとのことで、雲脚は禁じられている。今はバスに乗り継いでの岐路の途上だ。
「ほらコレ」
翔は左手で繰っていたスマートフォンの画面を朱璃に見せた。
「わっ、おめでとう!」
朱璃の顔にパッと笑顔の花が咲く。小声で称賛し、音が鳴らぬように拍手する。
先月に翔が受験した大学からの、合格通知メールだ。
「さんきゅ……ッつってもFラン大だから、あんまり自慢できねぇな」
照れくさそうに、軽く頭を搔く。
「そんなことないよ。翔くん、勉強以外もいっぱい頑張ってたもの」
Fランという点は否定しない朱璃である。褒めてくれているのは学力ではなく、胆力のほうだ。
「ん……ありがとな。よーやく、肩の荷が一個降りたって感じ」
自分でも激動の半年だったと思う。父親と恋人を失い、衆に参入し、叔父に師事して厳しい訓練を受けつつ、受験勉強もこなし、さらには生家を引き払う準備も続けている。
負担軽減のために志望大のレベルは下げ、事務的な手続きは叔父が万事処理してくれた。バイトも辞めた。引っ越し準備は朱璃達も手伝ってくれている。
それでも高校生と衆の訓練生を同時にやるだけで、時間も体力もあっという間に消えた。部活動をやっていなかったのが幸いだ。
「いいなー私も大学行きたいなー」
朱璃が窓の外へと眼をやり、見慣れた景色を眺める。
次の停留所を降りれば、支部は目の前だ。
「零子さんに相談したら?」
「お金のこと考えたら、そうそう言えないよ。それに私、戸籍ないもの」
最後のひと言は、最小のボリュームで囁かれた。
「あ、そうだよな。わりぃ」
交友を深めるなかで朱璃の出自も知らされた。凰鵡が捨て子だと聞いたときも驚いたが、朱璃の場合には事態が超常的すぎて、いまだに理解が追いついていない。
「いいよ。その代わり、色んな分野の勉強とか研究とか、けっこう好きにやらせてもらってるし」
その話も一度聞いた。朱璃の学習意欲には頭が下がる。暇さえあれば難解な専門書や論文を分野問わず熟読し、ほぼ独学で知見を拡げている。
すでに対妖種の研究も始めていて、目下のテーマは『ヒトを捕食する妖種にとっての代替食糧』。大昔から取り上げられてきたものの、いまだに見つかっていない難問だ。とりあえず〝大卒〟の肩書きを得るのが目的のような自分よりも、よっぽど学生として相応しい。
が、衆で偽造できる個人情報の範囲では、民間認定の資格証を得るのが精一杯らしい。セキュリティ技術が向上してきたせいだという。
「なんにせよ、翔くんの合格祝いしないとね」
「いいって、大袈裟な」
「あんちゃん、大学受かったん?」
とつぜん背後から割り込んできた声に、ふたりは飛び跳ねる勢いで振り向いた。
猫耳付きの大きな帽子。こっちの背もたれに手と顎を乗せて、屈託ない笑顔を向けてくる少年。
「え⁈ あ、お前──!」
思わず大声が出る。
シーッ、と双方から諭されてしまった。
「翔くんの言ってた男の子?」
小声で訊ねる朱璃に、翔はうなずく。
「お前、なんでここに?」
「なんでって、いっかい家に帰って、また出てきたトコよ」
少年はヘラヘラ笑う。
翔は溜め息をついた。昨夜から、いいように誤魔化され続けている気がする。
(それに……)
額に手をあてる。頭痛がするわけではないが、それくらい気が重い。
再会した以上、見逃すわけにはいかない。
「お前、ちょっと俺に付き合え」
「え、デート?」
「ちげぇよ」
「翔くん、言いかた……」
苦言を呈しつつ、朱璃も思っていることは同じらしい。
この子は妖種を見ている。口止めか、勧誘か、記憶消去か……支部長がどう判断するかは分からないが、いま自分達がやるべきは、まず確保である。
「……真面目な話。飯奢ってやるから、次で一緒に降りてくれ」
ひと目もあるため、命令口調は極力抑える。内容を表立って口にするわけにもゆかない。
「うん。ええぞ」
「いいのかよ?」
呆気なすぎて思わず問い直してしまう。
「飯、奢ってくれるんじゃろ? あんちゃん、約束は守る男と見た。儂の勘が言うとる」
眼が輝いている。
「だ、そうだ」
「うん。じゃぁ、降りたら紫藤さんに連絡するね」
朱璃もうなずく。安堵と不安が半分半分、といった表情──翔自身も同じ顔をしている自信がある。
ほどなくしてバスは停留所に着き、少年は約束通り、二人と一緒に降車した(ちなみに、運賃も翔が出した)。
「ああ、そうじゃ。合格おめでとさん」
バスが去ってから思い出したように拍手する。
「ああ、どうも」
「そうじゃと言えば、手は大丈夫かい?」
「おかげさまで、これで済んだよ」
「よかったよかった。出逢ったばっかだのに話題が盛りだくさんじゃな、儂ら。そっちのおねえちゃんのことも紹介してよ」
「あとでな」
とうの朱璃は紫藤と通話している。
「お前、名前なんてンだ? オレは翔。翔ぶほうの翔な」
「翔あんちゃんね。儂はマオ」
「マオ?」
「真の嗚咽、で真嗚」
翔は眉根をひそめた。
「本名か?」
「おう。なかなか妙チキリンな字面じゃろ」
「いや……」
「ええよ。顔に出とる」
隠したつもりだったが。人相見をやるというのは本当かもしれない。それにしても、こんな名を子に付けるとは、親の面を拝見したいものだ。
「紫藤さん、手が塞がってるから……」
話がついたらしく、朱璃が端末をしまう。
「凰鵡くんが外まで迎えに来てくれるって」
そこまでする必要あるか? と翔は訝る。凰鵡が来るのは吝かではないが、そもそも支部は目の前だ。停留所から横断歩道を渡れば、そこに正門がある。
「お、ありは」
すると、少年がその支部に向かって手を振った。
翔も朱璃もポカンとして視線を追う。
少年が見ているのは二階──事務所前ラウンジの窓ガラス。偏光素材になっていて、外からは鏡のように見えるはずだが…………
「あ、青信号。ダッシュ!」
今度は勝手に駆け出した。
「ちょ、おいおい!」
「どうなって──もう!」
小さな背中を追って、翔達も走る。
追いつけない。横断歩道を渡り、その勢いのまま正面玄関に突っ込んだ。
「う⁈」
ふたりの意識に、冷たい電流が走った。
この支部に所属している者にだけ感じられる警報────
(まさか⁈)
朱璃の盾になるよう前へ出て、左手で銃を抜こうとする。
ない。作戦が終わった時点で叔父に預かられていた。もともと平時に携行する許可すら、まだもらっていない。
「へへ……騙すつもりは、なかったンじゃ」
蛇に睨まれたカエルのような翔達に向けて、真嗚はニタリと笑う。
「まぁそうビクつきねい」
やにわに帽子に手を掛け、スルリと脱いだ。
耳があった。帽子のそれはただの装飾ではなく、本来の姿を隠すためのものだったのだ。
ネコのような大きな耳──妖種。
「翔! 朱璃さんッ!」
そこに、玄関から凰鵡が飛び出してきた。
「なんで……!」
その凰鵡も、翔と同じように目を見開いて固まる。
「なんで、その人と一緒なの……?」
震える問いの意味は、翔にも朱璃にも理解できない。
「久しいの。えらくエエ顔になった」
「凰鵡、こいつ知ってんの?」
「翔ッ‼」
珍しい、凰鵡の怒鳴り声──しかも悲鳴のような。
何となく叱責されたように感じて、翔はそれ以上、なにも言えなくなる。
「構わんよ。お、もう出てきよったか」
ふと、真嗚から笑みが消えた。
凰鵡の背後から、顕醒がこちらに歩み寄ってくる。
翔は胸を撫で下ろす。
一九〇センチの長身。横幅もあり、着ている革ジャンとジーンズは黒一色。そして常に無表情。一緒にいるといまだに身が縮むが、これほど頼もしい存在もいない。
だが、そんな鬼不動にすら────
「しばらく、じゃな。元気そうでなにより」
真嗚は臆面なく話しかける。
(いや、まさか────)
その瞬間、翔は少年の正体に気付いて、身を震わせた。
「お久しゅうございます。老師」
自身の胸元にも届かないような不動翁に向けて、顕醒は深々と頭を垂れた。