業の節・幕間
業の節 幕間
小さな棺には、コートとブーツだけが納められていた。
「本当に、よろしいのですか?」
零子が問う。眼鏡の奥で、瞼が哀しげに細められる。
十畳ほどの飾り気のない空間──支部に併設された火葬場である。公的に存在していない者や、消滅しない妖種など、公営施設を通せない遺体はここで荼毘に伏される。
「いいんです、これで」
維はうなずき、棺の蓋を閉じた。
そして、壁に空いた炉口へと押し入れた。
すべて自分ひとりの作業だ。朱璃も顕醒も、実兄であるはずの顗もいない。零子が立ち会っているのは、施設の管理責任者としての立場からだ。
「アタシが、押していいですか?」
「ええ、どうぞ」
普通の火葬場と違って、炉の点火装置は表側に出ている。棺の前室もない。
装置のボタンに、指をかける。
(さよなら……こはる)
閉ざされた炉の扉を見つめながら、親指を押し込む。
壁の向こうで、バーナーが起動した。
事務室のなか、仕事が一段落した合間を縫って、朱璃は事件のファイルを開いた。
「どうかしたかい?」
紫藤は六杯目のコーヒーカップを空にした。こちらも、事件の後処理に追われる身である。だが、今日は回復した翔のために講義もやるという。
「こはるちゃんが維さんに逢いに来た理由は分かりました。けど、どうして維さんの次に逢ったのが、顗さんじゃなくて、凰鵡くんだったんでしょう。私達のなかで一番、こはるちゃんに歳が近かったせいでしょうか?」
朱璃の疑問に、紫藤は腕を組んで天井を仰ぐ。
「血縁は関係ないのだろう。彼女にとって大事なのは、母としての維くんだった。そして母性の行き先をたどって、凰鵡くんのもとに現れた……私には、それくらいしか思いつかない」
「そう……ですね」
すこし強引な気もするが、朱璃もその意見に同意した。
付け加えるなら、こはるはきっと、凰鵡が維に愛されているかどうかを知りたかったのだろう。そして、瞼の裏にいるだけだった母は、望んでいた優しさを彼女にもくれた。
維の愛は、こはるの心をたしかに救った。そう信じなければ、やりきれない。
(でも……)
部屋の一角に貼られた、大きなホワイトボードを見る。
そこには、昨日の闘いから帰ったあと、紫藤によって書かれた文字がまだ残っていた。
『KAZURAYAMA NATSUE』
葛山なつ江──〝囚人殺し〟の受刑者達が会っていたという自称カウンセラー。
まだ何の情報も得られていないというが、それも道理だろう。
すべてはまた、あの男によるゲームだったのだろうか。
それぞれのアルファベットからは、幾本もの矢印が下へと伸び…………
『AMATSUKAZE NARUYA』へと変じていた。
そう、こはるの心が救われたとしても、朱璃にはやりきれないのだ。
愛しさで維と繋がることの出来たこはる──憎しみの人格をも救う手だてとなった生霊──は、天風なしには、生まれえなかったのだから。
「立ち位置が逆転したな」
ベッドの凰鵡に、翔はふふ、と不敵な笑みを浴びせる。
「ホントだよ。なんで翔のほうは動けるのさ。あんなにボロボロだったのに」
凰鵡は包帯でミイラのようになっていた。
翔のほうは数時間前に、医務室から退院していた。真嗚の内功で自然治癒力が限界まで引き出されていたらしい。とはいえ腕のギプスはまだ取れず、歩くだけで全身は痛み、疲労感も続いている。起きているあいだは眉間に皺が寄りっぱなしだ。
「もう、あんな無茶しないでよね」
「お前が言うかよ」
「血清のことだよ。朱璃さんの血が効いたからよかったけど……」
ズキリ、と翔の胸が痛む。
誰にも言わなかったが、呪力を祓えばこはるも消えることに、自分は薄々感づいていた。
だからこそ、せめて彼女の心だけでも救いたかった。そのための突破口を開く、唯一の手段だと、あのときは思った。
だがその結果、凰鵡は雲水に激昂し、重傷を負った。自分のせいだ。
「ああ、すまねぇ」
ふと、枕元の棚に目をやる。水差しの横にパンダのぬいぐるみが鎮座している。朱璃がこはるにあげたものだが、形見分けとして、維から凰鵡に譲られていた。朱璃には蝶のバレッタが渡った。
翔にも何か、と言われたが、辞した。残ったのはコートにブーツにコスメ。持っていてもしょうがない。
それに、形見をもらう資格などない──こはるを消滅させた自分には。
罪悪感と後悔……そして虚無感がずっと付きまとっている。
自分がいなくても、結果は変わらなかっただろう。やることなすこと、なにもかも空回りして、ろくな結果を残さなかった。たいした実力もないのに、凰鵡と一緒にいられるのが嬉しくて、調子に乗って、周囲を引っ掻き回しただけだ。
端から関わっていなければ、奈月や朱璃を苦しめることもなかった。
飯生木奈月──彼女には何と詫びればいいか──もう、謝ることも出来ないが。
医療班の懸命な処置によって、彼女はかろうじて一命を取り留めた。
だが顔面の半分は戻らず、一部を失った脳にも、重い障害が残った。
いじめを受け、心を壊され、母親を亡くし、顔は欠け、脳にも傷を負い……それでも生き延びた以上、奈月は生きつづけなければならない。
記憶の処理と事実工作を施されたうえで、民間の介護施設に保護される。いまも隔離室で移送を待っている奈月に、翔はついさっき面会してきた。
そして、いつかの凰鵡のつらさを、思い知った。
「どうも。はじめ……まして」
彼女にとって、翔はもう何者でもなかった。
「翔」
「え?」
「……自分を責めないでね」
「それ、しばらく言われそうだな」
「もうッ、これは真剣な話!」
「わかってる。ありがとな」
翔は椅子から立ち上がった。脳天から足先まで痛む。
「よし。おじさんとお勉強の時間だし、行ってくるわ。頭は動くだろうって、今日から座学ミッチリなんだよ」
「うっわ、厳し……頑張ってね。あ、翔」
「ん?」
「朱璃さんから聞いたよ。合格おめでとう」
「ああ、サンキュ。じゃ、またすぐに来るわ」
「うん……………………翔」
部屋を出る寸前に、もう一度呼ばれ、翔は立ち止まって振り向いた。
クリクリした大きな眼が、不安げに揺れていた。
「……いなくなったら、ボク、イヤだよ」
答えに詰まった。
思わず床に落としてしまった視線を、すぐもとに戻す。
「お前こそな」
笑みを投げて、翔は個室をあとにした。
自信を持って「大丈夫だ」と言ってやれなかった。正直に「分からない」とも言えなかった。何もかもが中途半端で、不安に押し潰されそうだ。
ひょっとしたら明日、いや、今ここで自分は突然、恐ろしい肉塊に変異して、そのまま死んでしまうのでは。そんな想像すらしてしまう。
「これを見て」
死闘から帰ったあと、もとの個室に戻された翔に、朱璃はPCのモニターを見せた。
細胞群の変化を記録した映像だ、というのは分かった。それが六つ、同時に流れている。
「これ……六人分の血に、飯生木さんの血を混ぜたところを映したもの」
なるほど、なら細胞らしいのは赤血球や血小板か。
「呪者が変異するのを見て思ったの。霊力は体のすみずみに遍在している、って教わったでしょ。だから呪いも、霊力を媒介して体に変化を起こさせるんじゃないかって」
朱璃が話しているあいだにも、ひとつの画面内では、細胞達が黒く変色していった。
「この真っ黒になったのが……翔くんの血」
翔は唸った。自分のなかで何かが変化している覚えは感染中にもあったが、こうして視覚化されると、あらためてゾッとする。
「ビクともしてないのは凰鵡くん。この、少し変化したけど消えちゃったのが、維さん」
こはると長く接触していたメンバーの血で、呪いへの抵抗力を調べていたのか。凰鵡はもとから莫大な霊力の持ち主。維は修行を積んで高めたと聞いた。その強さで撥ねのけたのだ。さすがに〝常人より強いていど〟の自分とは格が違う。
「それで、これが私。血は、去年採って保存してたやつ」
やはり無事な細胞群だ。
「朱璃ちゃんはオレと違って、誰も怨んでなかったってことだろ?」
感染する条件は、強い怒りや怨みの持ち主──その意味で、朱璃は抵抗力が強かったのだ。
「もう一度見て。感染から平癒までのパターンが、このふたつと一緒なの」
五つ目、六つ目との比較をうながしながら、朱璃はふたたび映像を流す。たしかに、朱璃のもふくめ、三者の動きはどこか奇妙だった。
細胞の多くが一時的に黒く変色するのだが、その後、もとの姿に回復するのだ。
「このふたつは?」
「名前は伏せるけど……衆に協力してくれてる、妖種」
言葉の意味が呑み込めなかった。
否、その意味するところを、信じたくなかった。
「この呪いはね、もともと妖種には効かなかったの。霊力じゃなくて、体の構造が違うから」
厳密には、あれは血清などではなかった。
朱璃の血そのものが、もとから抗体だったのだ。
「私、ヒトじゃなかった……」
それまで事務的な無表情だった朱璃の眼から、ボロボロと涙がこぼれはじめた。
翔も泣きたかった。
朱璃はどう見てもヒトだ。彼女に妖種の気配を感じた者はひとりもいない。衆の結界にも反応していない。
「このこと、凰鵡は」
「教えないで……! レベルAのシークレットになったから。血清の作製も、いまは凍結されてる」
「なんでオレには言ったんだ」
「いまは大丈夫だけど、なにが起こるか分かんないから。血清は成分を絞ってテストもしたけど……血を飲ませるなんて、考えてなかった」
最後の言葉は、ほとんど翔への非難だった。
「でも、あれしかなかった」
「……けど、ありがとな。助かったよ」
翔にはそれしか言えなかった。
「格好付けないでよ、バカ……ッ!」
力なく罵ると、朱璃はシーツに顔をうずめ、嗚咽を洩らした。
*
そこは月明かりも枝葉に遮られた闇のもと、虫と風の囁きに満ちた世界だった。
見渡すかぎりの木々に覆われた、人が入るにはあまりに剣呑な渓谷。
その奥底に、怪僧はいた。
なぜ、そこにいるのかは、誰にも分からない。
ただ、彼をおとなう者が、ひとり、いた。
「やっぱ、アンタは強ぇよ……」
震える声と、密やかな足音に、巨躯がゆっくりと振り向く。
真正面から見据えた客人は、子供のような、小さな影。
暗闇を見通すような大きな眼。
虫の吐息さえ聞きつけそうな猫状の耳。
「やっと逢えた。アニキ……!」
雲水に駆けよった真嗚は、その体を、力いっぱい抱きしめた。
『降魔戦線 -warriors in the darkness- 怨鎖編』 了
最後までお読みいただきありがとうございます。
今回は登場人物も多く、かなり難産な話でした。
ときに敵側が人格のハッキリしたタイプだと、科白回しや移動が難しいですね。もうこういう敵キャラは描きたくないです(笑)
では、また、別の作品でお逢いしましょう。