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訣の節・妄執 其之参『恕されぬもの』


   ⑫(ゆる)されぬもの



 それから、何度も役目を果たした。叔父と祖父の相手もした。行為の最中には痛みと苦しみだけがあって、終わったあとにも吐き気と気怠さが延々と続いた。


 罰──そう、これは祖母を死なせてしまった自分への罰なのだ。そう自責しながら日々を耐えた。

 それでも、いつも思わずにいられなかった。


 ──お母さん、助けて。

 ──お母さんさえいたら、こんなことには。


 凰鵡は頬を引き攣らせる。翔達が一緒でなかったら、とても耐えられない。朱璃も見るからに顔色を悪くして、ときどき吐き気をこらえている。歩みこそ止めないが、自分からはひと言も発さない。


 積極的に声を上げてくれるのは翔だった。こはるへの同情……武流達への悪態……どちらも凰鵡にとっては、前へ進むための陣太鼓にひとしい。


「翔って、タフだよね……」


 口にするとどうしても皮肉めいてしまうが、その胆力が、素直に羨ましい。


「終わったことは、どうしようもないからな」


 翔は寂しげな横顔で笑った。

 残酷だが、真実だと思った。どれほどの力があっても、いま感じられるこはるの苦痛はすべて過去。過去を変えることは出来ない。自分達に出来るのは、その呪縛からこはるの未来を解放することだけだ。


 ──お母さん、逢いたい。

 ──お母さんも苦しめばいい。


 母を求めるふたつの心は、時を経るにつれて分裂をはじめた。


「やっぱり……」


 翔が何かを確信したように独りごつ。


「どうしたの?」

「多重人格だ……」


 その言葉は、凰鵡も知っている。


「私達の知ってるこはるちゃんは、分離した別の人格ってこと? そんなことって……」

「そうだと思う。たぶん」

「たぶん、ってあなたねぇ……」

「すまん。オレと繋がってンのは、廣距側にいたこはるちゃんだけなンだよ」

「翔、まだ……ッ⁈」


 そういえば、結局、翔が血清を打ったとは、聞いていない。


「ああ、それもすまん。朱璃ちゃんが持ってる。いざってときは、ぶち込んでもらう」

「いま打ってよ!」

「ギリギリまでねばらしてくれ。本気で誰も怨まなきゃ、もうちょっと保つはずだ」


 さっきは廣距らをボコボコにしたいなどと言っていたが、その程度では呪いは発動しないらしい。

 自嘲癖の強い翔のことだ。怒りすら斜に構えて見ることで、制御しているのだろう。


「信じらんないよ、もう」

「でしょ。頭おかしいよ絶対」


 そんな翔を散々に言いながら、三人はついに最奥へと辿り着いた。

 真っ赤な襖。忌まわしい記憶を見てきた凰鵡には、それがどうしても別のものに思えてしまう。


「こんどはボクが開ける。さがってて」


 凰鵡はふたりから手を放した。引手に指をかけ、躊躇うことなく、ひと息に開く。


 ──お母さんに逢える力、欲しいですか?


 予想だにしなかった記憶が駆け抜けた。

 天使のような微笑。白皙の美貌と、幻想的な輝きを揺らす銀髪。

 だが、その青年の存在は、凰鵡達にとってあまりに悍ましいものだった。

 天風鳴夜が、こはるに接触していたのだ。


 これ以上ないと思える衝撃──そして襖の先に現れた光景が、三人の心を凍りつかせた。

 ギンガムチェックのインバネス。蝶のバレッタ。ショートブーツ。

 凰鵡達が知る少女は、部屋のまんなかで、宙吊りになっていた──壁や天井からほぐれた糸束を口へと注がれて。


 否、よく見れば糸束は少しずつ、こはるから外側へと動いている。

 この精神世界は、少女が吐き出す糸によって、編まれたものだったのだ。


「何しに来たの?」


 床に近い糸束のなかから、巨大な顔が現れた。

 顔だけの、真っ白なこはるだ。

 その威容にギョッとするも、凰鵡は真っ先に応えた。


「こはるちゃん……だよね。ボクは凰鵡」

「知ってる。そっちが翔さん、そっちが朱璃さんでしょ。こっちの私と遊んでくれたよね」


 饒舌だが感情の見えない平坦な声音でこはるは喋り、チラリと目を上にやる。もうひとりを取り込んだときに、記憶も吸収したらしい。


「どうして、もうひとりの自分に、こんな酷いことをするの?」

「だってズルいじゃない。偽物のくせに、自分だけ楽しい思いして……きれいな服着て、おいしいもの食べて」


 少女の悔しさが、凰鵡達には痛いくらいに分かる。

 こはるのなかには、どこにでもいる女の子としての──それどころか、子供なら当たり前に経験しそうな、家族の団欒の記憶すらなかった。


 オモチャもオシャレもない。生きるのに必要最低限のもの以外は、何も与えられなかった。唯一の慰めは、母と教えられた人の遺品。それすらも、厳格な家風のなかにあっては質素極まりないものだった。


「きみにだって出来るよ。一緒に行こう」

「もう遅いわ。私、分かっちゃったの」


 翔が小さく「やばい」とつぶやく。


「世界中のみんな、みんなを、ひとつにしちゃえば、いいのよ」


 凰鵡は耳を疑った。


「そうすれば、みんな家族でしょ。世界がひとつの家族になるの。誰も離ればなれにならないの。それってすごく幸せじゃない」

「違うよ──!」


 真っ向から叫んだのは、朱璃だった。


「そんなのは、家族じゃないよ!」

「嘘つき。あなたに何が分かるの」

「分かるよ! だって……私だって、お父さんとお母さん、いないもの!」


 朱璃の言葉が真っ直ぐにこはるを突き、凰鵡の胸にも響く。

 父も母もいない。凰鵡もまったく同じだ。


「でも、お母さんみたいな人がいる。お姉さんだと感じてる人もいる。ときどき離ればなれになるけど、ずっと繋がってるのを感じるの! 家族って、そういうのだよ!」

「知らナイ! なにそれ、知らナイ。わけ分かラナイ。勝手なコト言わナイデ! 私はイヤ……もう、ひとりぼっちはイヤ!」


 ひとりぼっち……少女はずっと孤独だった。おそらく〝おばあちゃん〟が死んだときからずっと。

 男達に奴隷のように扱われ、それをみずからの役割と受け入れても、肉の繋がりは、心の穴を埋めはしなかった。そのふりをさせていただけだった。


「駄目だよこはるちゃん! その力を、もう使わないで!」


 天風鳴夜が少女に送ったのは、たった一匹の蟲──それは体内で宿主の願いや欲望、そして愛憎を吸収し、増殖と融合を繰り返した。

 やがて、廣距こはるは〝呪いの力〟そのものと化した。

 呪力は次第に父親達をも憑り混んで、肉体と精神を変貌させていった。


 大人達に連れ回されていたように見えて、真実は逆だった。

 母に会いたいというこはるの願いを叶えるよう、三人が立ち回らされていたのだ。


「まだ間に合うよ! ボクらと行こう! 維さん──きみのお姉さんも待ってる!」

「ちがう……お姉サン……! オ母さん……お姉サ…………? おばあちゃん……オバア、チャン……オカァ……」


 こはるが混乱を深めてゆく。


「う……ぐッ!」


 翔がこめかみを押さえてうずくまる。ついにこはるの怨念の影響を受け始めたのか。


「翔くん!」


 すかさず、朱璃が懐から注射器を取り出し、針を包むキャップを外した。


「朱璃ちゃん、わりぃ!」

「え──?」


 注射器を奪うや、翔はそれを、床に突き立てた。

 スッと針が埋まり、ブランジャーが押し込まれ、シリンダーの液体が空になる。


「翔⁈」

「翔くん‼」

「マジですまん! コレしかなか──ッ!」


 突風のような圧が三人を叩いた。


「ああああああああ! ああああああ!」


 こはるの顔が絶叫した。空気が震え、部屋全体がグニャグニャと蠢く。

 脱出を……と振り返ったが、入ってきた襖が見えない。

 四方の壁が急速に縮まっているのだ。このままでは押し潰される。


 ──だめーぇ!


 そのとき、悲痛な叫びが響きわたった。


(こはるちゃん⁈)


 凰鵡がそう感じるや、部屋が──世界が、サァッと遠ざかった。


「あっ!」


 気が付くと、三人は施設の廊下にいた。

 天井も壁も普通の素材だ。精神世界から、はじき出されたのか。


「地震──?」


 建物の揺れかたが、入ってきたときとは違う。雲水との戦いが激化しているのか。

 と、廊下の奥から床が波打ってきた。それを追うように、天井が崩れ始める。


「うっそだろ──ッ⁈」


 仰天する翔の身体が、背後からスッと、誰かに引き寄せられた。


「凰鵡くんは朱璃くんを!」

「え、紫藤さん⁈」


 またしても予想外の援軍に面食らいながら、凰鵡は朱璃を抱えて走った。


「紫藤さんったら、翔くんがどうしても心配で……」


 横抱きにされた朱璃が説明してくれる。


「自分も同行するって条件で、ようやくオッケーしてくれたの」


 廊下の終わりが見えた。開けていた窓から飛び出して、アスファルトに着地する。


「え……ッ!」


 外で繰り広げられていた光景に、凰鵡は新たな戦慄を覚えた。

 今までに見たことのない死闘だった。

 雲水ひとりを相手に、顕醒、真嗚、顗、維の四人がかりの肉弾戦である。

 次元が違うと、ひと目で悟った。速すぎて、傍目からでさえ一手先も読めない。

 判ることはただひとつ──雲水がノーダメージということだ。


 かろうじて喰らいついていると見えるのは顕醒と真嗚のみ。つねに因果を読み合っているのだろうが、読み切れなかった攻撃を身に受けるのは師弟のほうだった。

 顗兄妹にいたっては、拳や脚を出した先から吹き飛ばされている。


 悪夢もいいところだ。闘者最高位の兄、その弟子に譲るまで不敗だったという真嗚、そして格闘戦では顕醒にも勝ると言われる顗。その三人が束になり、上級の維を加えてなお、雲水を止められない。


「いづ──ッ!」


 ついに維が大きく蹴り飛ばされ、凰鵡達のもとに転がってきた。


「維さん!」

「やばい、強すぎ……着いてけない」


 大の字になった維にいつもの不敵さはない。汗まみれで荒い息を繰り返し、目を開けるのも苦しそうだ。ただでさえ薄い衣服はズタズタで、乳房がまた露わになりかけている。


「来る!」


 翔が叫んだ。

 雲水ではない。凰鵡達の脱出してきた、建物のほうだ。

 外観が膨れあがったかと思うと、ガラガラと倒壊しはじめた。

 コンクリートの内側から、柔毛に覆われた、白いかたまりが現れた。

 繭だ──と、誰もが一瞬、そう思った。


 それ以上のものだった。

 巨大な……あまりにも巨大な、蛾であった。

 だが、その顔面は、まぎれもなく、こはるの顔をしていた。


 ──ミンナイッショ、ミンナカゾク


 言葉なのか鳴き声なのかも判らない音を響かせる口が、白い糸束を吐き出す。

 それらは凰鵡達のほうへ向かって一気に伸び──廣距の三人を捕らえた。


「こは……? やめ──」

「いやだ──あーァ!」


 真嗚が練った光の縄ごと、武流、阿都志、宗豪を口のなかへと運んだ。

 くしゃり……唇が閉ざされた瞬間、凰鵡にはその音が聞こえた気がした。


 ──ミンナイッショ、ミンナカゾク


 凛と伸ばされる、体の何倍もの羽根。

 その薄膜は、忌まわしい虹色の輝きを(まと)っていた。かつて凰鵡も目にした、世界を喰らう光だ。


「こはるちゃん……?」


 信じられないという目で、維は仰ぎ見る。

 妖蛾はゆっくりと翼をはためかせ、空に光を拡げてゆく。


「ごめんなさい、維さん。ボクでは……止められませんでした」


 凰鵡には詫びるほかない。膝を折り、頭を下げ、あふれる涙を地面に落とす。


「まだだ……」


 ハッと横を向く。


「もうひとりのこはるちゃんが……なかで生きてる」


 うずくまり、汗ばんだ額を押さえながら、翔は絞り出すように言葉をつむぐ。


「翔! 翔、しっかりしろ! 朱璃くん血清は⁈」

「それが……翔くん、バカ、なんで……!」


 紫藤が狼狽し、朱璃が打ちひしがれる。

 そんなふたりを差し置いて、翔は話し続ける。


「すぐにチャンスが来る。そのときに、凰鵡……」


 チャンスってなに? と訊くよりも早く、そのときは訪れた。


 ──ナンデ……ナンデ……


 こはるの音色が変わった。光から色が褪せ、異色の空に溶けてゆく。

 巨体から柔毛がパラパラと抜けて、タンポポの綿毛のように、ないはずの風へ散る。

 ──イヤア……オカアサン……オカアサン


「翔くん、まさかこのために──!」


 朱璃から奪った血清が、効果を発揮しているのだ。


「凰鵡、頼む……今しかない」

「……うん!」


 翔の言葉に、凰鵡は力強くうなずく。

 倶利伽羅竜王を取り出し、念を籠めた。


(こはるちゃん、いま行く!)


 精神世界への再突入だ。今度こそひとりで──だが凰鵡に恐れはない。

 自分はひとりじゃない。

 こはるにも伝えたい。きみもひとりじゃない、と。

 光刃を発した鈷杵(こしょ)を、左手で霞に構える。

 こはるの巨体までは一〇〇メートル以上。

 だが届く。届かせる。


「待って!」


 目の前に、維が立ち塞がった。


「凰鵡、アタシもいっしょにブチ抜いて」

「え──⁈」

「アタシもあの子のなかに入る。凰鵡みたいに念を籠めるなんて出来ないけど、そうしたらイケるでしょ──たぶん」


 無茶苦茶だ。だが迷っている暇はない。維の眼は本気だ。


「わかりました。いきます!」


 信じよう──維と、自分の念いを。


(こはるちゃん! 維さん!)


 凰鵡は光を突き出した。

 次の瞬間には、真っ白い世界が広がっていた。

 上も下も、右も左も分からない──だが、歪んでいるのは判る。

 引き裂かれ、剥がされたマットレスのように、乱れて、裏側をさらけ出している。


 ──ごめんなさい……ごめんなさい……


 その真ん中で、少女は泣きながら、幾度も謝っていた。


 ──こはる。


 維と凰鵡は、彼女をそっと包んだ。少女の悔恨が伝わってくる。

 送られた蟲を食べてから、憎しみは膨れあがっていった。

 その一方で、母への恋しさも、いっそう強くなっていった。

 いつしか愛情は肉体を離れ、その人の気配を探して、遠くへと飛んだ。


 主人格から解れた〝母への思慕〟──それが、凰鵡達の前に現れたこはるの生霊だった。

 だが、彼女もまた呪力によって生まれた存在に違いはなかった。

 しかも霊体であるがゆえに、より純粋な呪力である。

 母を探すなかで偶然近づいてしまった──強い怒りや憎しみに囚われた──人々に、力を感染させてしまったのだ。


 ──ごめんなさい。私のせいで……いっぱい、人が……


 感染源となって多くの人を死に至らしめた自責に、少女は押し潰されていた。


 ──もういいのよ。あなたは頑張ったわ。逢いに来てくれて、ありがとう。

 ──こはるちゃん。帰ろう。

 ──お姉さん。


 少女は泣くのをやめ、ふたりに(もた)れた。まるで母の胸で眠る子供のように。


 ──行くな!


 世界が安らぎを拒否した。裂け目という裂け目から、妄念が手を伸ばしてくる。


 ──ずるい! ──なんでアンタだけ! ──私だって──苦しい──怖い──死にたくない──アンタだけ──一緒に来い──お母さん!


 何人ぶんもの声に聞こえて、それはすべて、こはるひとりの想いだった。

 もうひとりの自分への妬みと嫉み。悔しさと恨めしさ。孤独と消滅への恐怖。すべてを撒き散らして、凰鵡達をも呑み込もうと押し寄せる。

 断ち切らないと……凰鵡は手に剣を念じる。

 だが、維の意識が、それを止めた。


 ──ええ、あなたも一緒に、おいで。


 そして、こはるの怨嗟に向かって、あろうことか、いとも簡単に心を開いた。

 妄念の手が、一斉に止まった。


 ──今日からアタシが、こはるのお母さんよ。


 そうか。凰鵡は納得する。

 この母性こそが維なのだ。血の繋がりはなくとも、この人に育てられ、愛されていると、自信を持って言える。自分にとって、維が母だと。


 ──じゃぁボクが、新しいお兄さんだね。


 この言葉が、なんの抵抗もなく心から出た。


 ──おかあさん……おにいちゃん……

 ──それに翔と、朱璃さんも。他のみんなにも、こはるちゃんを紹介しないと。

 ──いきなり大家族ね。ここには、あなたを怖がらせる人は、誰もいないわ。アタシ達がこはるちゃんを守る。約束するわ。


 世界が激震した。

 だが怖くはない。

 手という手が崩れ落ち、光になって、中央のこはるへ吸収されてゆく。

 嬉しさも怒りも哀しみも怨みも、すべてがひとつになって、維の胸に飛び込んだ。


「──あ⁈」


 ふたりは同時に顔を上げていた。 

 維は佇んで、凰鵡は宝剣を突き出した姿勢のままだ。光の刃だけが消えている。


 ぼろり……崩壊の加速する妖蛾から、顔面が剥がれ落ちた。

 投げ出された羽毛のように漂い、凰鵡達のもとへと舞い降りてくる。

 白い綿毛の下から、ギンガムチェックのコートが覗いた。


「こはるちゃん!」


 維と凰鵡は走る。

 少女はうっすらと目をひらき、維を見て、微笑む。

 ──おかあさん──

 唇が、そう動いたように見えた。


「ア──!」


 血肉と骨片が、インバネスの背中から噴き上がった。

 何が起こったのか理解できないまま、維は落ちてきたこはるを抱きとめる。

 かたや、凰鵡は呆然として、少女から飛び出したものを見つめていた。


 心臓から何匹ものムカデが生えたような蟲。

 だが、ムカデにあるまじき羽根を拡げて、そいつは空を泳いだ。

 そして、倒壊をまぬがれた屋上の一角で、白魚のような掌に納まった。


「おつかれさまでした」


 血濡れの手をものともせず、青年……天風鳴夜は、天使のような笑みを浮かべた。


「いやあああッ!」

「あまつかぜぇええええ!」


 朱璃の悲鳴に怒号を重ねたのは、翔だった。


「顕醒──!」


 不動のふたりが一斉に雲水との闘いを棄てた。

 真嗚は維のもとへと走り、顕醒は鳴夜へと跳びながら光の網を放つ。

 怪僧が封じたのは後者だった。一瞬にして鳴夜をかばう位置に移動し、腕のひと振りで網を千々に裂く。突貫してきた顕醒の掌には掌で返し、たちまち両者のあいだに爆竹のような光の連打が巻き起こった。


「長居は無用のようで。お世話になりました、遊行者さん(ピルグリム)


 そういうと、鳴夜は手にした蟲ごとバラバラに分裂した。


「くッ!」


 紫藤がすかさず銃を抜き、瞳に銀光をひらめかせて連射した。

 が、弾丸はことごとく、蟲達のまえで光の火花と爆ぜる。雲水だ。なおも喰らいついてくる顕醒達を捌きながら、必中の魔力を帯びた弾を片手間で撃ち墜としてみせたのだ。


 紫藤らが愕然とするあいだにも、鳴夜の分身はめいめいに瓦礫へと姿を消した。

 一方の真嗚は、傷と砂にまみれたままの手で、こはるの額に触れていた。


「爺さま、お願い……たすけて……!」


 維の願いもむなしく、不動翁は目を閉じ、かぶりを振った。


「なんで⁈」


 真嗚が答えるより早く、こはるの体が崩れはじめた。妖蛾とおなじ散りかただ。

 呪力に蝕まれきっていた──維と出逢ったときにはすでに、ヒトとしての肉体を失っていたのだろう。


「どうあっても、呪いから解き放てば、こうなる運命じゃったか」


「そんな……そんな…………いや、駄目よ、お願い……」


 維は少女を強く抱きしめる。それでも消滅は止められない。腕を擦り抜けるように、コートの下の体はどんどん小さくなってゆく。


「こはる‼」


 服、靴、髪留め、そしてぬいぐるみ。思い出の品々を残して、少女は白い塵になり、空に溶けた。


「──翔くん、駄目!」

「しっかりしろ! 自分を見失うな!」


 維が打ちひしがれるさなか、朱璃達には悲しむ暇もなかった。


「翔⁈」


 凰鵡が駆けつけたとき、翔は頭を地面にこすりつけ、涎を垂らしながら呻いていた。苦痛が、見るからに悪化している。


(まさか──!)


 こはるが消滅しても、呪力は消えていない。そして、これまで翔が無事だったのは、発症のトリガーになる〝怨み〟を、うまく制御してこられたからだ。

 だが、あの妖人を目の前にして、ついに感情の抑制が効かなくなったのだ。無理もない。奴こそ、父親と恋人を無惨極まりない手段で死に至らしめた仇敵なのだから。


 絶望が凰鵡を貫く。血清はもうない。

 天風鳴夜を倒さねば、翔が呪いに食い尽くされる──飯生木のように。

 だが、とうの天風には、またしても逃げられてしまった。


「うぅあああああ────‼」


 凰鵡は吼えた。

 倶利伽羅竜王を振りかぶって跳んだ。絶望を突き破って心のなかに噴き出す、マグマのような怒りと哀しみのすべてを、宝剣に注ぎ込む。

 その矛先は、唯一この場に残った敵──雲水。


「凰鵡やめろ!」


 兄の声も聞こえなかった。

 防御も二の太刀も考えなかった。あるのはただ、全身全霊の殺意────

 この怪僧が現れなければ……天風に味方しなければ……こうまで、皆が苦しむこともなかったのだ。


(お前さえいなけりゃ! お前さえ──ァ!)


 大上段からの渾身のひと太刀を、怪僧は両手で受けた。

 その瞬間、凰鵡の意識に、幾重もの火花が弾けた。


「あ……あ」


 激痛が全身を駆け巡って、何度も往復する。

 すべての骨が折れた、と思った。

 怒りに駆られるまま、凰鵡は無意識のうちに雲脚で突進し、全体重と速度を乗せて剣を振っていた。禁じ手である。しかも、それを真っ向から止められて、すべての衝撃が返ってきたのだ。


 光を失った竜王とともに、凰鵡は崩れ落ちた。

 地面に頭を打つ寸前で、真嗚がその身体を受け止めた。


「ふたりとも畳み掛けい!」


 顕醒らへ叫び、凰鵡を寝かせると、戦線に舞い戻った。

 予期せぬことが起こっていた──雲水が右腕を震わせ、身体をぐらつかせたのだ。


「凰鵡くん! ……ッ!」


 朱璃が唇を噛んだ。意を決したように、ポケットからツールナイフを取り出す。

 刃を展開し、自分の親指に滑らせた。

 細い一文字の裂け目から、赤い血が滲み出る。


「朱璃くん⁈」

「これしかないんです!」


 その指を、やおら翔の口へと突っ込んだ。


「あとで説明するから、舐めて! お願い!」


 反射的に拒絶する翔の頭を掴んで懇願する。


「う、あ……ッ! ええ……!」


 翔の呻き方が変わった。親指を引き抜いて、激しく嘔吐く。

 すると、唇のあいだから、ドロリとした黒い液体がしたたり落ちた。

 効いた……朱璃は確信し、安堵の笑みを紫藤と交わした。

 ドォン──その瞬間、数十メートル先で光の爆発が起こった。


 すさまじい風のなかから、三人分の影が転がってくる。

 顗と、真嗚、そして顕醒だった。

 顕醒はなんとか立ち上がったものの、真嗚は片膝立ちが精いっぱい。顗に至っては指一本動かせない様子だ。

 そして、土埃の立ち込める爆心地からは、雲水が悠然とした足取りで現れる。

 凰鵡の一打で怯んだのはなんだったのか。いまだ、三人をまったく寄せ付けていない。


(ダメなの……もう……)


 朱璃のなかにも、諦めが芽生え始めていた。もう誰もあの怪僧を止められない。

 せっかく翔を治せたというのに、ここでみんな、終わりなのか。

 そのときだった。


 ざら……と、紙ヤスリで肌を撫でられるような感触が、あたりの空気を支配した。

 あらゆる物体が、グニャリと曲がったり、ボロボロにほどけながら、消滅してゆく。

 創造主──こはる──を失った異空間が、崩壊を始めたのだ。


 雲水がスッと腕を上げた。

 その手のなかに、棟とともに崩れたはずの錫杖が現れる。

 がしゃん──地面がひと突きされ、遊環が鳴り響いた。


「……!」


 全員が息を呑んだ。

 薄雲のたなびくインディゴブルーの空。まだ肌寒い三月の朝の風。鳥の声。

 雑草と錆と砂にまみれた工場跡。漂ってくる鉄と汚水の腐臭。

 雲水のすがたは、何処にもない。

 闘いは終わったらしい。

 しかし、誰の心にも、達成感はなかった。


 真嗚はあらためて凰鵡の容態を診て、両肩に担ぎあげた。朱璃もそこに付き添う。紫藤は翔を背に負い、顗は自力で立ち上がった。

 そして顕醒は維のもとへと歩み寄り、肩を抱いた。


「けんせ……」


 血濡れのコートを握ったまま、維は恋人の胸に身を預けた。

 痛ましい慟哭が天に昇った。


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