訣の節・妄執 其之弐『順わぬもの』
⑪順わぬもの
何時間経っただろう──維にとって、もはやそれは、どうでもいいことだった。
ただひたすらに与えられる刺激と苦痛を受け止め、そのひとつひとつに集中する。
(ほんと、ごめんね……顕醒)
こんな闘いかたしか出来なかった自分を、彼はどう思っているだろう。
愚問だ。すべてを見通し、認めたうえで、見守り、そして自分が帰るべき場所になってくれる。顕醒とはそういう男なのだ。
その顕醒と、いまは無性に、思いっきり、愛し合いたい。
今夜は思い切り甘えよう(いまが昼なら……だが)。
だから、自分は帰るのだ。
(駄目、もう……抑えらんない……)
何層にも重ねた心の波が、腹の底でグルグルと渦を巻いて暴れている。
いまの自分の器では、もう溜め込めない。
「おらあ温香ァ! 俺を愛してるって言えよ!」
──温香? ちがう、アタシは──アタシはァ──ッ‼
維は心のなかで咆吼した。
武流の最後の一発を引鉄に、腹のものを一挙に、全身へと解き放った。
そこからは、面白いくらいに上手くいった。
「おおああ──ァ⁈」
熊のような絶叫が、武流の口からほとばしった。
「いいいぃッ⁈」
阿都志も悲鳴をあげた。触手がゆるみ、その直後、みじん切りになった。
「ぉ────ッ!」
猛然と突き出された足裏が、巨躯を吹き飛ばす。
壁に叩きつけられた武流は、歯を食いしばり、唖然とした目で自分を見下ろした。
吐き出された血が、自慢の肉体をべったりと汚していた。
さらに、維は「ペッ」と阿都志の先端を吐き出す。
口唇で触手を噛みちぎったのだ。
力のみで出来ることではない。肉体を硬化したからこそ成せた荒技である。
使えなかったはずの神通力が復活していた。
だがそれは恐怖を克服したためではなく、自身のなかで蓄えに蓄えた霊力を念に注ぎ込んだことによる、一種力押しのような発現だった。
霊力の強弱は神通力にも関わってくる。念に必要な集中力や想像力を、霊力がアシストするからだ。
そして維は体内に霊力を蓄積できる《積霊法》を会得するために、藐都夫妻に教えを請うた。
色術における《積霊法》とはすなわち、性の絶頂にさいして瞬間的に増大する霊力を取り置き、体の一ヶ所に蓄積する技である。
すべては、この男達への復讐のためだった。
維にとって、これがただひとつの勝ち筋だった。
そして策は当たった。腹の底に溜めた霊力を解放した瞬間、維は今までにないくらい、スムーズに金剛の絶技を発現させた。
斬撃の心得も、半年前から学んでいた。金剛と合わせたその力で、肉体のすべてを研ぎ澄ませ、忌まわしい鎖を斬り刻んだ。
「ちっ」
ただ最後の一撃──武流への蹴り──だけが浅かった。床も壁も見た目どおりに柔らかいせいで、勢いが削がれたのだ。
マットレスのような感触の床を蹴って、維は走った。
呻く男どもには目もくれず、こはる達が消えていった扉をくぐった。
「はぁるかぁぁ!」
武流の叫びに、後ろ手の中指で答える。
作戦を少し変更し、この異様な空間からの脱出を優先した──こはるの救出も。
嵐のような拷問を受けながらも、反撃のプランは心のなかでいくつか練っていたのだ。
黄ばんだ白色の廊下。ところどころに、肉襞のような二枚扉の戸口。
その配置に維は既視感を覚え、そして気付いた。
これは、生家の間取だ。なら、今までいた場所は……母屋に併設されていた道場。
(まさか──)
維はその部屋に向かった。案の定、そこの扉だけは、ほかと様相が違った。
洋風の開き戸は、ペンキをぶちまけられたかのように、周辺から床まで真っ赤に染まっている。
「こはるちゃ──!」
もぎ取る勢いで扉を開き、維は絶句した。
決して、あってはならない光景だった。
「あ、お母さん、いらっしゃい」
しかも、それが当然の営みであるかのように、こはるは維に笑顔を向ける──子供とは思えぬ、艶然とした笑みを。
「はるか……」
宗豪のほうは、もはや諦めたような、疲れ切ったような、虚ろな表情をしている。
「あんた……その子に何してんのよ。離れなさい!」
維の怒りは当然、父に向かう。
だが、反論は予想外の方向から飛んできた。
「何って、家族がやることでしょ」
こはるである。
家族がやること──その言葉を聞いた瞬間、維のなかで、考えたくもないことが次々に繋がった。
「まさか……あいつらとも」
「あたりまえじゃない。だって家族なんだから」
最大級の怖気が来た。自分が犯される何倍も激烈だった。
父子揃ってこの子を──十歳になるか否かという女児を──歪んだ家族観で洗脳し、架空の母子像まで植え付けて。
「こはるちゃん騙されないで! 本当の家族なら、あなたにそんなことしない!」
「どうして? どうしてそんなこと言うの、お母さん?」
「アタシは、あなたのお母さんじゃない。目を醒まして。あなたは、悪い奴らに操られてるの!」
「うそ。うそばっかり。私を捨てたくせに!」
「捨てたりしないわ! ほら、アタシと一緒に行こ。ここから出るの!」
「うるさい! 嫌い! 出てけぇぇえええええ‼」
こはるの体から影が膨れあがった。
空気の塊のような圧が、維を吹き飛ばす。
「こはる──!」
部屋だけでなく、空間そのものが遠ざかっていた。
「え⁈」
次の瞬間、維はまったく別の場所にいた。
どこか、施設の廊下らしい。見覚えはない。
窓から見える空で、そこが異空間のなかだということだけが分かる。
「──ッ!」
不意に現れた気配に、とっさに体を硬化した。
正解だった。大気が歪むほどの掌打に突き飛ばされ、維は窓ガラスを破って、外に投げ出された。
雲水──なぜここに? なぜいま?
疑問を抱えながら自由落下に身を任せ、地面との衝突に備える。
が、来たのは、水の抱擁だった。
プール……にしては深く、温かい。
水面に戻って、窓を見上げる。
(ここ……)
建物の外観に覚えがあった。支部からそう遠くない山手にある、閉鎖された工場だ。
そして今いるのはどうやら、貯水槽らしい。
(うげ、排水⁈ 雨水?)
だが匂いと味からして真水だ。しかも湯気が立つほどの温水。
槽自体も綺麗で、濁りがない。悪趣味な露天風呂である。
普通の工場でも奇妙だろうに、なぜ異空間にこんなものが。
(アイツが?)
ここに突き落としたのは雲水だ。体を洗っておけとでもいうのか。
真意は不明だが、体にこびりついた男どもの匂いを擦り落して、槽から出た。
アスファルトの遊歩道に下りる。怪僧の姿はない。
「見ぃつけたァァ」
棟の二階の窓から、阿都志が飛び降りてきた。二〇メートルほど離れて着地したその姿は、顔以外、触手のままだ。とうとうヒトに戻るのを諦めたらしい。
「はぁるかぁぁああ!」
壁を割って武流も現れる。近くに玄関があるのに、せっかちなことだ。
額の血管が切れそうな形相をしている。
だが、プライドを傷つけられた復讐の炎を、拳に乗せる暇はなかった。
「維さん!」
三つの影が、維を守るように降り立った。
真嗚が本当に凰鵡達の師なのか、じつのところ、朱璃は少し疑っていた。
だがいま、呪者達が次々に爆ぜてゆく光景を見れば、認めざるをえない。一年前に見た顕醒の闘いと、瓜二つだ。
彼らの総攻撃は、凰鵡達が発ってから、ほんの数秒後にはじまった。その数は二〇〇とも三〇〇ともつかない。こちらが把握していたよりも、ずっと多くの人間が呪いに取り込まれていたのだ(あるいは異空間内で、分裂や増殖を繰り返していたのだろうか)。
その黒い影の群れを、真嗚が屋上から気弾の嵐で迎撃した。
奈月とおなじ呪殺者の影は、敷地にも入れずに右往左往している。援軍の老女が、特別な結界を張ったのだという。
そうして攻めあぐねいている影達に対し、スーツの男が印を切って、一体ずつ消滅させてゆく──零子いわく、衆最高の《呪詛返し》の遣い手なのだとか。
ラウンジから見える範囲でも圧倒されるほどの防衛力だ。だが、呪者達が消えてゆく姿に、朱璃は忸怩たる思いを抱かずにはいられない。
血清を作り出せたというのに、それを量産する暇がなかったのだ。
だが、仮に量産できていたとしても、いま襲ってくる呪者達は、朱璃の目にも変異が進みすぎている。投与しても消滅するか、奈月よりもずっと悲惨な姿でヒトに戻るか。
詰まるところ、あの血清は、この闘いの狼煙にしかならなかった。
それでも真嗚によれば、なんらかの手段で、事態を動かす必要があったのだという──維救出の援護策として、あえて呪者達をここに引きつけるための、だ。
その点から見れば、朱璃の発見は、予想外の最善手だったという。
「朱璃くん!」
ふと、紫藤がラウンジに駆け込んできた。目尻を引きつらせた焦燥の表情──甥が重傷で運び込まれたときも、同じ顔をしていた。
今は、その翔の警護に入っていたはずだ。
「導星さん? まさか、翔くん……⁈」
零子の声がうわずる。朱璃も同じことを考えた。
彼の容態が悪化したのか──だが、そこで自分が呼ばれるのはなぜだ。
直後に返ってきた言葉に、朱璃も零子も愕然とした。
「血清が、あと一本残っていたはず……頼む、翔に使わせて欲しい!」
「ダーリン来てくれたのねぇー! 来世でも愛してるぅ!」
維は顕醒に抱きつき、唇にキスした。
された方は無反応のまま、手にしていた衣服のひと塊を手渡す。
「アア? テメェ誰だコラ?」
あからさまに見せつけてくる維の態度に、当然のごとく武流が顕醒を恫喝する。
「アンタも来てくれたのね。ありがと」
その武流を無視して、維は凰鵡に微笑んだ。渡された服のなかから、ボクサーパンツとスポーツブラだけを取って着る。
凰鵡も、まごころから微笑み返す。本当に自力で脱出していた。維はやっぱり凄いのだ、と感歎する。
「オラ、ロン毛! 俺の女に触ってんじゃネェ。タイマン張れや! 殺してやる!」
ロン毛と言われ、まさか自分か、と凰鵡はビクついてしまう。もちろん顕醒のことなのだが、凰鵡は凰鵡で、別所からの注目を浴びていた。
「へへ、あんときの可愛い子ちゃんジャン」
阿都志がニタニタと笑っていた。
「お前はオレんトコ来てくれるよな? な?」
凰鵡は無言で睨み返す。今なら舌打ちしていいかな、などと考えてしまった。
が、それを守るように、維が一歩前へと出た。
「ギャーギャーうっさいわね。アンタらそれで格好いいつもり?」
可哀相な男達だ、と維は心から蔑む。この期に及んで、あんなナリで、まだ自分に脈があると信じているのだから。
「紹介するわ。これがアタシのダーリン。強すぎ、カッコよすぎ、エッチ上手すぎ、の三拍子パーフェクトで、テメェらなんか端ッから眼中にないってさ」
顕醒を示した親指をぶんぶんと振ってみせる。
事実、顕醒の眼ははるか上方──棟の屋上へと注がれている。
いつの間にか、雲水が自分達を見下ろしていた。
「で、この子はアタシとダーリンの子供同然」
ぽん、と両肩に手を置かれ、凰鵡はビックリして固まった。
自分が、維の子供? 思ってもみなかった。ずっと姉のようだとばかり…………
「スッゴく可愛くて、スッゴく大事。泣かすような真似したら……死んだ方がマシな目に合わしてやるわ」
ギリッ、と歯を軋らせて笑みを浮かべる。
怒りと闘志が一緒くたになったときの維の顔だ。
「つまり、テメェらはアタシがぶっ潰すって言ってんのよ!」
その闘志が爆発する──そこに「待った」がかかった。
「ちょい待て。オレを忘れるな」
顗だ。最初からいたのだが、まったく会話に入っていなかった。
「あ、そうだったわね。どっちがいい? コイントスする?」
獲物を分けるような遣り取りに、凰鵡は味方ながら寒気を覚える。
「頑張った妹の顔を立てて、本命のバカ筋肉は譲るぜ。オレは腰巾着のタコと──」
顗は棟の二階を指差し、手招きした。
窓から様子を窺っていた宗豪が、飛び降りて阿都志のとなりに並んだ。
「──あのクサレオヤジで我慢してやる」
「サンキュー、兄」
がつん、と兄妹が拳を撃ち合わせる。
「凰鵡。こはるちゃんは建物のなかよ。頼んでいいかしら」
「はい。任せてください」
互いの顔を見ることなく、維は構えを取り、凰鵡も倶利伽羅竜王を握る。
顕醒が屋上に跳んだ。
それを待っていたかのように、雲水は羽織っていたマントを脱ぎ捨てた。
そして、錫杖をコンクリートの床面に突き刺した。
ガシャン──遊環の音が空気を震わせた瞬間、全員が動いた。
「らあああああッ!」
維と顗は、討ち果たすべき敵へ。
凰鵡はこはるを探して、棟へと駆け込んだ。
棟全体が震えていた。屋上の激突のせいだ。
(格闘戦──⁈)
気弾の撃ち合いになれば、こんな建物ひとつ、すぐにでも倒壊しかねない。
それを避けるため、兄はあえて肉弾戦を挑んだのか。そして雲水も承知しているかのような雰囲気だった。
(──違う。いまは自分のことに──)
ひたすら施設の奥を目指す。広い部屋、狭い部屋。大きなベルトコンベア、無数のメーター、壁を埋め尽くすパイプ……何のためのものか、凰鵡には想像もつかない。
機械の群れを抜けるうちに、違和感はふいに襲ってきた。
足下が柔らかい──ベッドの上を走っているかのようだ。固い床はいつの間にか、使い古したシーツを思わせる布地に変わっている。壁も天井もだ。
「え……」
そこは、病院のなかを思わせる、一本の通路だった。
だが、扉らしい扉はひとつもない。両壁にずらりと並ぶのは肉々しい裂け目──震えながら、息をするように開閉している。
まるで生物だ。まさかこの建物自体がもう、こはるの体内なのではないか。
と思ったが、最奥にあるのは、血に染まったような真っ赤な襖だ。
凰鵡は倶利伽羅竜王を握り、おそるおそる、最初の裂け目に近づいた。
「うッ⁈」
ぶわっ、と切れ目から噴き出た何かを浴びた瞬間、凰鵡のなかに、少女の泣き声と、生々しい感覚が飛び込んできた。
──お母さん……お母さん……
真夜中、布団のなかでひとり、母親を思って涙を流す。懐に抱きしめた写真には、ピアスがひとつもない維の姿。
凰鵡は悟った。
こはるの記憶──ここはすでに、こはるの心のなかだ。
倶利伽羅竜王は使っていない。肉体の感覚もある。こんなことは初めてだ。
現実の鏡像であるはず異空間が、じつはこはるの精神の具現だったとでもいうのか。
(朱璃さん……翔……)
とたんに、足が怖じける。
妖胎児の闇が脳裏に甦って、息を詰まらせる。
(ボクに出来ること……維さんと約束した……!)
それでも、一歩一歩、前に進む。
「つ──!」
凰鵡が前を通るたびに、裂け目が記憶を吹き付ける。
──おばあちゃん…………
こはるのなかに強く刻まれた祖母の思い出。本当の母のように愛し、育んでくれた、優しい人。だがある夜、トイレに起きた際に聞こえた苦しげな(それでいて、どこか甘い)声。そっと襖を開けてみれば、裸で重なり合う祖母と……父。
その翌日、祖母は死んだ。居間の梁に縄をかけて、首を吊っていた。それを最初に見つけたのは、あろうことか少女自身だった。
──あれを見たから、おばあちゃんは死んだんだ。
傷ついた少女の心は両者を結びつけ、罪悪感と後悔に沈んだ。
そこに付け入ってきた者がいた。
──お前が、おばあちゃんの代わりにならなきゃな。
どこの家でも、こうしている。これが女の役目だ──だけど、他の人に知られたら、お前もおばあちゃんのように死ななきゃいけない。
そう言われて、父を受け入れた。
「やめろぉぉぉ──ぉ!」
凰鵡は絶叫した。頭を抱えて膝を折る。
痛みと、言いようのない恐怖、喪失感。
もう進みたくない。見たくない。聞きたくない。ひどすぎる。こんなことが、あっていいはずがない。
「凰鵡──!」
「凰鵡くん!」
背後の声に、凰鵡は耳を疑う。
振り向いた涙目に、いるはずのない人物が映る。
紛れもない翔と朱璃、そして────
「ちわッ、ネコの宅急便ーッす。お友達をお届けしやしたー」
真嗚だった。
──数分前。支部の医務室。
「私は反対だ!」
紫藤の叫びは、ほとんど怒号に近い。
ひとつだけ残っていた血清の投与を、翔は拒否した。
それどころか、凰鵡のもとへ連れていって欲しいと懇願してきたのだ。
「おじさん頼む! あいつだけじゃ駄目なんだ……オレには判るんだよ!」
呪力によって、翔の感覚の一部は他の呪者にリンクしていた。そのなかには、こはるも含まれている。ゆえに、彼女の心に入り込んでしまった凰鵡も感じ取れたのだ。
「大丈夫よ、凰鵡くんなら。私のときだって、ひとりで助けてくれたもの」
朱璃も紫藤に同意する。だが、それは凰鵡への信頼より、凰鵡の力を疑うような翔への反感によるところが大きい。
零子も個室内にいるのだが、翔の暴挙に対しては、いまだ意見がない。静観しているというよりは、迷っているようだ。
しかし、たとえ零子までが叔父達の側に加わったとしても、翔に諦める気はなかった。
「いまのアイツは敏感すぎるんだよ。引っぱられそうになってる」
「だとしても、お前が行く必要はない」
「ある! アイツがオレを呼んでる。それから……朱璃ちゃんも」
「私も?」
朱璃のなかにも迷いが生じる。あまりに強い誘惑だ。凰鵡に求められているのなら、行ってあげたい。
「だから、せめてオレだけでも行ってやらないと」
「顕醒も顗くんもいる。そんな体のお前と朱璃くんが行っても──」
「あいわかった」
全員の視線が戸口に集中した。
火の付いていない煙管をくるくる回しながら、真嗚はベッドへ歩み寄ってくる。
「不動翁⁈ 外にいらっしゃったのでは?」
「落ち着いたよ。あとは他の者らで足りるじゃろ」
言われてはじめて、翔は断末魔や怨嗟が激減していることに気付いた。
「儂も向こうの応援に行こうとしてたトコじゃ。責任を持ってふたりを無事に帰すから、どうか預けてくれんかな……たのむ」
そう言うや、やおら帽子を脱いで、紫藤に頭を下げた。
「──ッてわけで、さすがのおじさんも断れなくってさぁ」
翔が苦笑いする。右腕にギプス。服の下は包帯まみれという酷い姿だが、一時的にでも動けるよう、真嗚にかなりの気を注がれているという。
「あんちゃんとは波長が合うから、内功がやりやすいわい。あ、痛覚も鈍らせとるから、無理は厳禁な。あとが怖いぞ」
「はいよ──てっ」
「なんて口の聞き方してんの」
気安い翔の頭を、朱璃が張る。最初は反対していたものの、いざ行くとなれば名乗りを上げたらしい。一応、無茶しやすい翔のブレーキ役を自称している。
「ええよええよ。むしろ、お姉ちゃんにもこれくらいのノリで来て欲しいにゃん」
と言って猫手のポーズをする真嗚に、朱璃は付き合いきれないとばかりに顔を覆う。
「あは」
三人の遣り取りに、凰鵡は思わず笑みをこぼしていた。
ここまで抱え込んできた苦痛が、少し和らぐ。
「お師匠様。ありがとうございます。ふたりも……」
嬉しくて、また泣きそうになる。
ここが今までの精神世界とは違うから出来たのだ。
本当なら、ひとりで立ち向かわねばならない。
それでも、孤独ではないという実感が、凰鵡に前を向く力をくれている。
「ん。おめぇさんへの援軍は確かに届けた。じゃ」
と言って真嗚は来た道を戻っていった。紫藤への説得は何だったのかという、掌の返しぶりである。
「……よし、行こうぜ」
翔がスッと表情を切り替えて、廊下の先を見据える。
「そうね。翔くんも、いつまで保つか分かんないし」
「うん。でも、ホントに大丈夫? その……」
こはるの記憶にふたりが耐えられるのか。とくに朱璃は、過去に強姦されかけている。
「もう見ちゃったよ。本当、酷い……でも、だからこそ、こはるちゃんを助けないと」
「オレもマジでムカムカしてる。あのクソ野郎ども、出来りゃオレがボコしてやりてぇ」
ふたりの存在を、凰鵡はあらためて嬉しく思う。
苦しみに呑まれるだけの自分と違って、朱璃はこはるを助けることを常に忘れず、翔は非道への怒りを真っ直ぐに表せる。
「そうだね。ねぇ……手、繋いでいい?」
反対する者はいない。凰鵡を中心に、三人は手を握り合って、異形の通路を進んだ。
触手の肉片と刃の破片が混ざり合って、バラバラに飛び散った。
「や、やめ──」
阿都志の懇願を無視して、顗はその顔面を大地に叩きつけた。
背後では、両手を失った宗豪が膝を突いて、ぜいぜいと肩で息をしている。
二対一、しかも重傷上がりにもかかわらず、勝負は呆れるほど一方的だ。
鉄壁の防御、影すら消える神速、そして山をも砕くと言われる拳と脚──攻守を極め、打撃戦では斗七山最強と言われる《万濤破山の顗》にとって、かつてさんざんに自分をいびり倒したはずの父と次兄は──妖種の力を得てさえ──もはや敵ではなかった。
こいつらはザコだ。そう確信した時点で雪辱は果たした。
だが、それで怒りが収まるはずもない。自分達を受け入れ、衆に導いてくれた人への計り知れない恩義が、矛を収めることを許さない。
「立てやぁ! 佐戸さん殺っといて、これで済むと思うなぁ!」
ほとんど頭だけの(立てるはずもない)阿都志を宗豪へ投げつけ、ふたりまとめてマウントに敷いて、タコ殴りにする。
あのとき雲水さえ邪魔しなければ、早々に片付けられた。維の執念と努力は称えるが、彼女が新たに苦役を負わねばならなかったことには、やはり兄として歯痒いものを感じる。
(次はテメェだ。覚悟しやがれ!)
眼下のふたりを殴り続けながらも、顗の闘志は怪僧との再戦に燃えていた。
「らぁ!」
維の裂帛に、野太い悲鳴が重なる。
突き出された拳の先で、巨躯がくの字に曲がっていた。
すかさず異形の拳が撃ち返してくる。
が、どこを殴られても維は動じない。せいぜい衝撃の重さで、後ろにさがるくらいだ。
逆に、維の一撃一撃が、筋肉の怪物のような体に、着々とアザや腫れを作ってゆく。
(こんなやつに、アタシはなにを血迷ってたのよ)
攻防のあいまに内省的になる余裕すら生まれていた。
溜めた霊力はすでに底を突いていたが、消費するのに比例して、維のなかには自信が戻っていた。
勝てるンじゃね──勝てる──楽勝──カスじゃん!
相手がトラウマを植え付けたこの男でなければ、色術を修得するまでもないくらい、自分はもう強くなっていたのだ。
だが、闘う前にメンタルで負けていた。それは覆しようのない事実だ。
だから藐都夫妻の愛撫や、この男達の拷問を甘んじて受けたことに後悔はない。
「んならぁ!」
顔面に来たパンチに合わせて、額を突き出した。
向こうの拳から嫌な音が上がった。指四本と手首が折れた、と手応えで分かる。
痛みに怯んだ武流の体を、維はすかさず蹴り込んだ。
巨躯の背中が、貯水槽の分厚いコンクリート壁に叩きつけられた。
そこに連打を入れた。胸に、肩に、腹に、股に、腿に…………自分の腕が届く、ありとあらゆる箇所に、滅多やたらに拳を撃ち込んだ。
武流の肌が陥没し、筋肉が裂けとび、骨という骨が砕け、背後のコンクリートが削れはじめても、維は殴るのを止めない。
(テメェなんざ! テメェなんざ──ァ!)
狂わされた人生。この十数年間続いた苦しみ。研ぎ清ませてきた復讐の念。
すべてはこの時のためにあった。今日で悪夢を終わらせる。
ここにすべてをぶつけ、すべてを消し去るのだ。
そして、なんの憂いもない顔で、帰りたい。
「維ちゃん」
横から拳を掴まれた。
「もうよいじゃろ。どう見てもきみの完全勝利じゃ」
「じいさん……」
ニッと笑顔を向ける真嗚に驚き、そして拳の先を見返して唖然とする。
壁の割れ目に埋まって、かろうじて立っている、人間の顔と手足が付いた、赤茶けた、いびつな細木──皮も肉も削がれ、骨も微塵にされた武流だった。
その変わり果てた姿が、光の縄で縛られる。真嗚が手から編み出した気の縄だ。
と、背後からポンと肩を叩かれる。
ふりむくと、顗が笑顔で親指を立てていた。
眼の奥から熱いものが込み上げる。だが、意地で堪える。
苦楽を共にした兄には悪いが、最初に涙を見せる相手は、もう決めている。
「さて、人使いが荒うて悪いが──」
縛った武流を、真嗚が背後へ放り投げる。
それが落ちた隣では、あとのふたりが武流に劣らぬ凄惨な姿でお縄についていた。
「──うちのアホ弟子のために、力を貸してもらいたい」
真嗚がそう言った直後、維達の数メートル先に、何かが落ちた。
コンクリートが砕け、粉塵が舞う。
「顕醒‼」
維も顗も叫んでいた。
怪僧に両腕を極められて、《鬼不動》はその後頭部を、大地に叩きつけられていた。