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訣の節・妄執 其之弐『順わぬもの』


   ⑪(まつろ)わぬもの



 何時間経っただろう──維にとって、もはやそれは、どうでもいいことだった。

 ただひたすらに与えられる刺激と苦痛を受け止め、そのひとつひとつに集中する。


(ほんと、ごめんね……顕醒)


 こんな闘いかたしか出来なかった自分を、彼はどう思っているだろう。

 愚問だ。すべてを見通し、認めたうえで、見守り、そして自分が帰るべき場所になってくれる。顕醒とはそういう男なのだ。


 その顕醒と、いまは無性に、思いっきり、愛し合いたい。

 今夜は思い切り甘えよう(いまが昼なら……だが)。

 だから、自分は帰るのだ。


(駄目、もう……抑えらんない……)


 何層にも重ねた心の波が、腹の底でグルグルと渦を巻いて暴れている。

 いまの自分の器では、もう溜め込めない。


「おらあ温香ァ! 俺を愛してるって言えよ!」


 ──温香? ちがう、アタシは──アタシはァ──ッ‼

 維は心のなかで咆吼した。

 武流の最後の一発を引鉄に、腹のものを一挙に、全身へと解き放った。

 そこからは、面白いくらいに上手くいった。


「おおああ──ァ⁈」


 熊のような絶叫が、武流の口からほとばしった。


「いいいぃッ⁈」


 阿都志も悲鳴をあげた。触手がゆるみ、その直後、みじん切りになった。


「ぉ────ッ!」


 猛然と突き出された足裏が、巨躯を吹き飛ばす。

 壁に叩きつけられた武流は、歯を食いしばり、唖然とした目で自分を見下ろした。

 吐き出された血が、自慢の肉体をべったりと汚していた。


 さらに、維は「ペッ」と阿都志の先端を吐き出す。

 口唇で触手を噛みちぎったのだ。

 力のみで出来ることではない。肉体を硬化したからこそ成せた荒技である。


 使えなかったはずの神通力が復活していた。

 だがそれは恐怖を克服したためではなく、自身のなかで蓄えに蓄えた霊力を念に注ぎ込んだことによる、一種力押しのような発現だった。

 霊力の強弱は神通力にも関わってくる。念に必要な集中力や想像力を、霊力がアシストするからだ。

 そして維は体内に霊力を蓄積できる《積霊法(しゃくりょうのほう)》を会得するために、藐都夫妻に教えを請うた。

 色術における《積霊法》とはすなわち、性の絶頂にさいして瞬間的に増大する霊力を取り置き、体の一ヶ所に蓄積する技である。


 すべては、この男達への復讐のためだった。

 維にとって、これがただひとつの勝ち筋だった。

 そして策は当たった。腹の底に溜めた霊力を解放した瞬間、維は今までにないくらい、スムーズに金剛の絶技を発現させた。


 斬撃の心得も、半年前から学んでいた。金剛と合わせたその力で、肉体のすべてを研ぎ澄ませ、忌まわしい鎖を斬り刻んだ。


「ちっ」


 ただ最後の一撃──武流への蹴り──だけが浅かった。床も壁も見た目どおりに柔らかいせいで、勢いが削がれたのだ。


 マットレスのような感触の床を蹴って、維は走った。

 呻く男どもには目もくれず、こはる達が消えていった扉をくぐった。


「はぁるかぁぁ!」


 武流の叫びに、後ろ手の中指で答える。

 作戦を少し変更し、この異様な空間からの脱出を優先した──こはるの救出も。

 嵐のような拷問を受けながらも、反撃のプランは心のなかでいくつか練っていたのだ。


 黄ばんだ白色の廊下。ところどころに、肉襞のような二枚扉の戸口。

 その配置に維は既視感を覚え、そして気付いた。

 これは、生家の間取だ。なら、今までいた場所は……母屋に併設されていた道場。


(まさか──)


 維はその部屋に向かった。案の定、そこの扉だけは、ほかと様相が違った。

 洋風の開き戸は、ペンキをぶちまけられたかのように、周辺から床まで真っ赤に染まっている。


「こはるちゃ──!」


 もぎ取る勢いで扉を開き、維は絶句した。

 決して、あってはならない光景だった。


「あ、お母さん、いらっしゃい」 


 しかも、それが当然の営みであるかのように、こはるは維に笑顔を向ける──子供とは思えぬ、艶然とした笑みを。


「はるか……」


 宗豪のほうは、もはや諦めたような、疲れ切ったような、虚ろな表情をしている。


「あんた……その子に何してんのよ。離れなさい!」


 維の怒りは当然、父に向かう。

 だが、反論は予想外の方向から飛んできた。


「何って、家族がやることでしょ」


 こはるである。

 家族がやること──その言葉を聞いた瞬間、維のなかで、考えたくもないことが次々に繋がった。


「まさか……あいつらとも」

「あたりまえじゃない。だって家族なんだから」


 最大級の怖気が来た。自分が犯される何倍も激烈だった。

 父子揃ってこの子を──十歳になるか否かという女児を──歪んだ家族観で洗脳し、架空の母子像まで植え付けて。


「こはるちゃん騙されないで! 本当の家族なら、あなたにそんなことしない!」

「どうして? どうしてそんなこと言うの、お母さん?」

「アタシは、あなたのお母さんじゃない。目を醒まして。あなたは、悪い奴らに操られてるの!」

「うそ。うそばっかり。私を捨てたくせに!」

「捨てたりしないわ! ほら、アタシと一緒に行こ。ここから出るの!」

「うるさい! 嫌い! 出てけぇぇえええええ‼」


 こはるの体から影が膨れあがった。

 空気の塊のような圧が、維を吹き飛ばす。


「こはる──!」


 部屋だけでなく、空間そのものが遠ざかっていた。


「え⁈」


 次の瞬間、維はまったく別の場所にいた。

 どこか、施設の廊下らしい。見覚えはない。

 窓から見える空で、そこが異空間のなかだということだけが分かる。


「──ッ!」


 不意に現れた気配に、とっさに体を硬化した。

 正解だった。大気が歪むほどの掌打に突き飛ばされ、維は窓ガラスを破って、外に投げ出された。

 雲水──なぜここに? なぜいま?

 疑問を抱えながら自由落下に身を任せ、地面との衝突に備える。

 が、来たのは、水の抱擁だった。

 プール……にしては深く、温かい。

 水面に戻って、窓を見上げる。


(ここ……)


 建物の外観に覚えがあった。支部からそう遠くない山手にある、閉鎖された工場だ。

 そして今いるのはどうやら、貯水槽らしい。


(うげ、排水⁈ 雨水?)


 だが匂いと味からして真水だ。しかも湯気が立つほどの温水。

 槽自体も綺麗で、濁りがない。悪趣味な露天風呂である。

 普通の工場でも奇妙だろうに、なぜ異空間にこんなものが。


(アイツが?)


 ここに突き落としたのは雲水だ。体を洗っておけとでもいうのか。

 真意は不明だが、体にこびりついた男どもの匂いを擦り落して、槽から出た。

 アスファルトの遊歩道に下りる。怪僧の姿はない。


「見ぃつけたァァ」


 棟の二階の窓から、阿都志が飛び降りてきた。二〇メートルほど離れて着地したその姿は、顔以外、触手のままだ。とうとうヒトに戻るのを諦めたらしい。


「はぁるかぁぁああ!」


 壁を割って武流も現れる。近くに玄関があるのに、せっかちなことだ。

 額の血管が切れそうな形相をしている。

 だが、プライドを傷つけられた復讐の炎を、拳に乗せる暇はなかった。


「維さん!」


 三つの影が、維を守るように降り立った。




 真嗚が本当に凰鵡達の師なのか、じつのところ、朱璃は少し疑っていた。

 だがいま、呪者達が次々に爆ぜてゆく光景を見れば、認めざるをえない。一年前に見た顕醒の闘いと、瓜二つだ。


 彼らの総攻撃は、凰鵡達が発ってから、ほんの数秒後にはじまった。その数は二〇〇とも三〇〇ともつかない。こちらが把握していたよりも、ずっと多くの人間が呪いに取り込まれていたのだ(あるいは異空間内で、分裂や増殖を繰り返していたのだろうか)。

 その黒い影の群れを、真嗚が屋上から気弾の嵐で迎撃した。


 奈月とおなじ呪殺者の影は、敷地にも入れずに右往左往している。援軍の老女が、特別な結界を張ったのだという。

 そうして攻めあぐねいている影達に対し、スーツの男が印を切って、一体ずつ消滅させてゆく──零子いわく、衆最高の《呪詛返し》の遣い手なのだとか。


 ラウンジから見える範囲でも圧倒されるほどの防衛力だ。だが、呪者達が消えてゆく姿に、朱璃は忸怩たる思いを抱かずにはいられない。

 血清を作り出せたというのに、それを量産する暇がなかったのだ。

 だが、仮に量産できていたとしても、いま襲ってくる呪者達は、朱璃の目にも変異が進みすぎている。投与しても消滅するか、奈月よりもずっと悲惨な姿でヒトに戻るか。


 詰まるところ、あの血清は、この闘いの狼煙にしかならなかった。

 それでも真嗚によれば、なんらかの手段で、事態を動かす必要があったのだという──維救出の援護策として、あえて呪者達をここに引きつけるための、だ。

 その点から見れば、朱璃の発見は、予想外の最善手だったという。


「朱璃くん!」


 ふと、紫藤がラウンジに駆け込んできた。目尻を引きつらせた焦燥の表情──甥が重傷で運び込まれたときも、同じ顔をしていた。

 今は、その翔の警護に入っていたはずだ。


「導星さん? まさか、翔くん……⁈」


 零子の声がうわずる。朱璃も同じことを考えた。

 彼の容態が悪化したのか──だが、そこで自分が呼ばれるのはなぜだ。

 直後に返ってきた言葉に、朱璃も零子も愕然とした。


「血清が、あと一本残っていたはず……頼む、翔に使わせて欲しい!」




「ダーリン来てくれたのねぇー! 来世でも愛してるぅ!」


 維は顕醒に抱きつき、唇にキスした。

 された方は無反応のまま、手にしていた衣服のひと塊を手渡す。


「アア? テメェ誰だコラ?」


 あからさまに見せつけてくる維の態度に、当然のごとく武流が顕醒を恫喝する。


「アンタも来てくれたのね。ありがと」


 その武流を無視して、維は凰鵡に微笑んだ。渡された服のなかから、ボクサーパンツとスポーツブラだけを取って着る。

 凰鵡も、まごころから微笑み返す。本当に自力で脱出していた。維はやっぱり凄いのだ、と感歎する。


「オラ、ロン毛! 俺の女に触ってんじゃネェ。タイマン張れや! 殺してやる!」


 ロン毛と言われ、まさか自分か、と凰鵡はビクついてしまう。もちろん顕醒のことなのだが、凰鵡は凰鵡で、別所からの注目を浴びていた。


「へへ、あんときの可愛い子ちゃんジャン」


 阿都志がニタニタと笑っていた。


「お前はオレんトコ来てくれるよな? な?」


 凰鵡は無言で睨み返す。今なら舌打ちしていいかな、などと考えてしまった。

 が、それを守るように、維が一歩前へと出た。


「ギャーギャーうっさいわね。アンタらそれで格好いいつもり?」


 可哀相な男達だ、と維は心から蔑む。この期に及んで、あんなナリで、まだ自分に脈があると信じているのだから。


「紹介するわ。これがアタシのダーリン。強すぎ、カッコよすぎ、エッチ上手すぎ、の三拍子パーフェクトで、テメェらなんか(はな)ッから眼中にないってさ」


 顕醒を示した親指をぶんぶんと振ってみせる。

 事実、顕醒の眼ははるか上方──棟の屋上へと注がれている。

 いつの間にか、雲水が自分達を見下ろしていた。


「で、この子はアタシとダーリンの子供同然」


 ぽん、と両肩に手を置かれ、凰鵡はビックリして固まった。

 自分が、維の子供? 思ってもみなかった。ずっと姉のようだとばかり…………


「スッゴく可愛くて、スッゴく大事。泣かすような真似したら……死んだ方がマシな目に合わしてやるわ」


 ギリッ、と歯を軋らせて笑みを浮かべる。

 怒りと闘志が一緒くたになったときの維の顔だ。


「つまり、テメェらはアタシがぶっ潰すって言ってんのよ!」


 その闘志が爆発する──そこに「待った」がかかった。


「ちょい待て。オレを忘れるな」


 顗だ。最初からいたのだが、まったく会話に入っていなかった。


「あ、そうだったわね。どっちがいい? コイントスする?」


 獲物を分けるような遣り取りに、凰鵡は味方ながら寒気を覚える。


「頑張った妹の顔を立てて、本命のバカ筋肉は譲るぜ。オレは腰巾着のタコと──」


 顗は棟の二階を指差し、手招きした。

 窓から様子を窺っていた宗豪が、飛び降りて阿都志のとなりに並んだ。


「──あのクサレオヤジで我慢してやる」

「サンキュー、兄」


 がつん、と兄妹が拳を撃ち合わせる。


「凰鵡。こはるちゃんは建物のなかよ。頼んでいいかしら」

「はい。任せてください」


 互いの顔を見ることなく、維は構えを取り、凰鵡も倶利伽羅竜王を握る。

 顕醒が屋上に跳んだ。

 それを待っていたかのように、雲水は羽織っていたマントを脱ぎ捨てた。

 そして、錫杖をコンクリートの床面に突き刺した。

 ガシャン──遊環の音が空気を震わせた瞬間、全員が動いた。


「らあああああッ!」


 維と顗は、討ち果たすべき敵へ。

 凰鵡はこはるを探して、棟へと駆け込んだ。

 棟全体が震えていた。屋上の激突のせいだ。


(格闘戦──⁈)


 気弾の撃ち合いになれば、こんな建物ひとつ、すぐにでも倒壊しかねない。

 それを避けるため、兄はあえて肉弾戦を挑んだのか。そして雲水も承知しているかのような雰囲気だった。


(──違う。いまは自分のことに──)


 ひたすら施設の奥を目指す。広い部屋、狭い部屋。大きなベルトコンベア、無数のメーター、壁を埋め尽くすパイプ……何のためのものか、凰鵡には想像もつかない。

 機械の群れを抜けるうちに、違和感はふいに襲ってきた。


 足下が柔らかい──ベッドの上を走っているかのようだ。固い床はいつの間にか、使い古したシーツを思わせる布地に変わっている。壁も天井もだ。


「え……」


 そこは、病院のなかを思わせる、一本の通路だった。

 だが、扉らしい扉はひとつもない。両壁にずらりと並ぶのは肉々しい裂け目──震えながら、息をするように開閉している。


 まるで生物だ。まさかこの建物自体がもう、こはるの体内なのではないか。

 と思ったが、最奥にあるのは、血に染まったような真っ赤な襖だ。

 凰鵡は倶利伽羅竜王を握り、おそるおそる、最初の裂け目に近づいた。


「うッ⁈」


 ぶわっ、と切れ目から噴き出た何かを浴びた瞬間、凰鵡のなかに、少女の泣き声と、生々しい感覚が飛び込んできた。


 ──お母さん……お母さん……


 真夜中、布団のなかでひとり、母親を思って涙を流す。懐に抱きしめた写真には、ピアスがひとつもない維の姿。

 凰鵡は悟った。

 こはるの記憶──ここはすでに、こはるの心のなかだ。


 倶利伽羅竜王は使っていない。肉体の感覚もある。こんなことは初めてだ。

 現実の鏡像であるはず異空間が、じつはこはるの精神の具現だったとでもいうのか。


(朱璃さん……翔……)


 とたんに、足が怖じける。

 妖胎児の闇が脳裏に甦って、息を詰まらせる。


(ボクに出来ること……維さんと約束した……!)


 それでも、一歩一歩、前に進む。


「つ──!」


 凰鵡が前を通るたびに、裂け目が記憶を吹き付ける。


 ──おばあちゃん…………


 こはるのなかに強く刻まれた祖母の思い出。本当の母のように愛し、育んでくれた、優しい人。だがある夜、トイレに起きた際に聞こえた苦しげな(それでいて、どこか甘い)声。そっと襖を開けてみれば、裸で重なり合う祖母と……父。


 その翌日、祖母は死んだ。居間の梁に縄をかけて、首を吊っていた。それを最初に見つけたのは、あろうことか少女自身だった。


 ──あれを見たから、おばあちゃんは死んだんだ。


 傷ついた少女の心は両者を結びつけ、罪悪感と後悔に沈んだ。

 そこに付け入ってきた者がいた。


 ──お前が、おばあちゃんの代わりにならなきゃな。


 どこの家でも、こうしている。これが女の役目だ──だけど、他の人に知られたら、お前もおばあちゃんのように死ななきゃいけない。

 そう言われて、父を受け入れた。


「やめろぉぉぉ──ぉ!」


 凰鵡は絶叫した。頭を抱えて膝を折る。

 痛みと、言いようのない恐怖、喪失感。

 もう進みたくない。見たくない。聞きたくない。ひどすぎる。こんなことが、あっていいはずがない。


「凰鵡──!」

「凰鵡くん!」


 背後の声に、凰鵡は耳を疑う。

 振り向いた涙目に、いるはずのない人物が映る。

 紛れもない翔と朱璃、そして────


「ちわッ、ネコの宅急便ーッす。お友達をお届けしやしたー」


 真嗚だった。




 ──数分前。支部の医務室。


「私は反対だ!」


 紫藤の叫びは、ほとんど怒号に近い。

 ひとつだけ残っていた血清の投与を、翔は拒否した。

 それどころか、凰鵡のもとへ連れていって欲しいと懇願してきたのだ。


「おじさん頼む! あいつだけじゃ駄目なんだ……オレには判るんだよ!」


 呪力によって、翔の感覚の一部は他の呪者にリンクしていた。そのなかには、こはるも含まれている。ゆえに、彼女の心に入り込んでしまった凰鵡も感じ取れたのだ。


「大丈夫よ、凰鵡くんなら。私のときだって、ひとりで助けてくれたもの」


 朱璃も紫藤に同意する。だが、それは凰鵡への信頼より、凰鵡の力を疑うような翔への反感によるところが大きい。

 零子も個室内にいるのだが、翔の暴挙に対しては、いまだ意見がない。静観しているというよりは、迷っているようだ。

 しかし、たとえ零子までが叔父達の側に加わったとしても、翔に諦める気はなかった。


「いまのアイツは敏感すぎるんだよ。引っぱられそうになってる」

「だとしても、お前が行く必要はない」

「ある! アイツがオレを呼んでる。それから……朱璃ちゃんも」

「私も?」


 朱璃のなかにも迷いが生じる。あまりに強い誘惑だ。凰鵡に求められているのなら、行ってあげたい。


「だから、せめてオレだけでも行ってやらないと」

「顕醒も顗くんもいる。そんな体のお前と朱璃くんが行っても──」

「あいわかった」


 全員の視線が戸口に集中した。

 火の付いていない煙管をくるくる回しながら、真嗚はベッドへ歩み寄ってくる。


「不動翁⁈ 外にいらっしゃったのでは?」

「落ち着いたよ。あとは他の者らで足りるじゃろ」


 言われてはじめて、翔は断末魔や怨嗟が激減していることに気付いた。


「儂も向こうの応援に行こうとしてたトコじゃ。責任を持ってふたりを無事に帰すから、どうか預けてくれんかな……たのむ」


 そう言うや、やおら帽子を脱いで、紫藤に頭を下げた。 




「──ッてわけで、さすがのおじさんも断れなくってさぁ」


 翔が苦笑いする。右腕にギプス。服の下は包帯まみれという酷い姿だが、一時的にでも動けるよう、真嗚にかなりの気を注がれているという。


「あんちゃんとは波長が合うから、内功がやりやすいわい。あ、痛覚も鈍らせとるから、無理は厳禁な。あとが怖いぞ」

「はいよ──てっ」

「なんて口の聞き方してんの」


 気安い翔の頭を、朱璃が張る。最初は反対していたものの、いざ行くとなれば名乗りを上げたらしい。一応、無茶しやすい翔のブレーキ役を自称している。


「ええよええよ。むしろ、お姉ちゃんにもこれくらいのノリで来て欲しいにゃん」


 と言って猫手のポーズをする真嗚に、朱璃は付き合いきれないとばかりに顔を覆う。


「あは」


 三人の遣り取りに、凰鵡は思わず笑みをこぼしていた。

 ここまで抱え込んできた苦痛が、少し和らぐ。


「お師匠様。ありがとうございます。ふたりも……」


 嬉しくて、また泣きそうになる。

 ここが今までの精神世界とは違うから出来たのだ。

 本当なら、ひとりで立ち向かわねばならない。

 それでも、孤独ではないという実感が、凰鵡に前を向く力をくれている。


「ん。おめぇさんへの援軍は確かに届けた。じゃ」


 と言って真嗚は来た道を戻っていった。紫藤への説得は何だったのかという、掌の返しぶりである。


「……よし、行こうぜ」


 翔がスッと表情を切り替えて、廊下の先を見据える。


「そうね。翔くんも、いつまで保つか分かんないし」

「うん。でも、ホントに大丈夫? その……」


 こはるの記憶にふたりが耐えられるのか。とくに朱璃は、過去に強姦されかけている。


「もう見ちゃったよ。本当、酷い……でも、だからこそ、こはるちゃんを助けないと」


「オレもマジでムカムカしてる。あのクソ野郎ども、出来りゃオレがボコしてやりてぇ」


 ふたりの存在を、凰鵡はあらためて嬉しく思う。

 苦しみに呑まれるだけの自分と違って、朱璃はこはるを助けることを常に忘れず、翔は非道への怒りを真っ直ぐに表せる。


「そうだね。ねぇ……手、繋いでいい?」


 反対する者はいない。凰鵡を中心に、三人は手を握り合って、異形の通路を進んだ。




 触手の肉片と刃の破片が混ざり合って、バラバラに飛び散った。


「や、やめ──」


 阿都志の懇願を無視して、顗はその顔面を大地に叩きつけた。

 背後では、両手を失った宗豪が膝を突いて、ぜいぜいと肩で息をしている。

 二対一、しかも重傷上がりにもかかわらず、勝負は呆れるほど一方的だ。


 鉄壁の防御、影すら消える神速、そして山をも砕くと言われる拳と脚──攻守を極め、打撃戦では斗七山最強と言われる《万濤破山の顗》にとって、かつてさんざんに自分をいびり倒したはずの父と次兄は──妖種の力を得てさえ──もはや敵ではなかった。

 こいつらはザコだ。そう確信した時点で雪辱は果たした。


 だが、それで怒りが収まるはずもない。自分達を受け入れ、衆に導いてくれた人への計り知れない恩義が、矛を収めることを許さない。


「立てやぁ! 佐戸さん殺っといて、これで済むと思うなぁ!」


 ほとんど頭だけの(立てるはずもない)阿都志を宗豪へ投げつけ、ふたりまとめてマウントに敷いて、タコ殴りにする。

 あのとき雲水さえ邪魔しなければ、早々に片付けられた。維の執念と努力は称えるが、彼女が新たに苦役を負わねばならなかったことには、やはり兄として歯痒いものを感じる。


(次はテメェだ。覚悟しやがれ!)


 眼下のふたりを殴り続けながらも、顗の闘志は怪僧との再戦に燃えていた。




「らぁ!」


 維の裂帛に、野太い悲鳴が重なる。

 突き出された拳の先で、巨躯がくの字に曲がっていた。

 すかさず異形の拳が撃ち返してくる。

 が、どこを殴られても維は動じない。せいぜい衝撃の重さで、後ろにさがるくらいだ。

 逆に、維の一撃一撃が、筋肉の怪物のような体に、着々とアザや腫れを作ってゆく。


(こんなやつに、アタシはなにを血迷ってたのよ)


 攻防のあいまに内省的になる余裕すら生まれていた。

 溜めた霊力はすでに底を突いていたが、消費するのに比例して、維のなかには自信が戻っていた。


 勝てるンじゃね──勝てる──楽勝──カスじゃん!

 相手がトラウマを植え付けたこの男でなければ、色術を修得するまでもないくらい、自分はもう強くなっていたのだ。


 だが、闘う前にメンタルで負けていた。それは覆しようのない事実だ。

 だから藐都夫妻の愛撫や、この男達の拷問を甘んじて受けたことに後悔はない。


「んならぁ!」


 顔面に来たパンチに合わせて、額を突き出した。

 向こうの拳から嫌な音が上がった。指四本と手首が折れた、と手応えで分かる。

 痛みに怯んだ武流の体を、維はすかさず蹴り込んだ。

 巨躯の背中が、貯水槽の分厚いコンクリート壁に叩きつけられた。

 そこに連打を入れた。胸に、肩に、腹に、股に、腿に…………自分の腕が届く、ありとあらゆる箇所に、滅多やたらに拳を撃ち込んだ。


 武流の肌が陥没し、筋肉が裂けとび、骨という骨が砕け、背後のコンクリートが削れはじめても、維は殴るのを止めない。


(テメェなんざ! テメェなんざ──ァ!)


 狂わされた人生。この十数年間続いた苦しみ。研ぎ清ませてきた復讐の念。

 すべてはこの時のためにあった。今日で悪夢を終わらせる。

 ここにすべてをぶつけ、すべてを消し去るのだ。

 そして、なんの憂いもない顔で、帰りたい。


「維ちゃん」


 横から拳を掴まれた。


「もうよいじゃろ。どう見てもきみの完全勝利じゃ」

「じいさん……」


 ニッと笑顔を向ける真嗚に驚き、そして拳の先を見返して唖然とする。

 壁の割れ目に埋まって、かろうじて立っている、人間の顔と手足が付いた、赤茶けた、いびつな細木──皮も肉も削がれ、骨も微塵にされた武流だった。

 その変わり果てた姿が、光の縄で縛られる。真嗚が手から編み出した気の縄だ。


 と、背後からポンと肩を叩かれる。

 ふりむくと、顗が笑顔で親指を立てていた。


 眼の奥から熱いものが込み上げる。だが、意地で堪える。

 苦楽を共にした兄には悪いが、最初に涙を見せる相手は、もう決めている。


「さて、人使いが荒うて悪いが──」


 縛った武流を、真嗚が背後へ放り投げる。

 それが落ちた隣では、あとのふたりが武流に劣らぬ凄惨な姿でお縄についていた。


「──うちのアホ弟子のために、力を貸してもらいたい」


 真嗚がそう言った直後、維達の数メートル先に、何かが落ちた。

 コンクリートが砕け、粉塵が舞う。


「顕醒‼」


 維も顗も叫んでいた。

 怪僧に両腕を極められて、《鬼不動》はその後頭部を、大地に叩きつけられていた。


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