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訣の節・妄執 其之壱『翔えぬもの』


 訣の節  妄執


   ⑩(かけら)えぬもの



 そこが、もといた酒場でないのは確かだった。

 歪に角張った、窓のない部屋。床も壁も不自然に柔らかく、白く……それでいて、ところどころに黄ばみや、赤茶けた染みを浮かせている。


 こはるから発散された影に呑まれた直後には、この異様な空間にいた。

 自分と、廣距の四人。凰鵡と翔はいない。

 何が起こったのか考えてしまう維に比べて、向こうの適応はあまりに早かった。


「ヒヒ……温香ァ、逢いたかったぜェ!」


 足下の阿都志がさらに触手を搦めてくる。ふたりを隔てていた鉄扉は消えていた。


「触んなッ! こはるちゃん、何したの? ここは何処?」


 身をよじるが、引けば引くほど触手は伸びる。力ではどうしようもない。


「知らない。でも、ここだったら、誰にも邪魔されないでしょ」

「よく分からねぇが、オレらだけなら、なんでもいいぜ」


 武流がのしのしと歩み寄ってくる。異様な状況にもかかわらず、目の前の獲物しか見ていない。ケダモノの思考回路だ。


「来るなゲスやろう! あの子、ホントは誰の子……ッ!」


 腹を殴られた。重い。鍛えに鍛えたはずの腹筋が、まるでちゃちなものに思える。

 当然、肉体を硬化しようとしたが、無理だった。強がってみても、いざ本物を目の前にすると、どうしても怖い。あの絶望と無力感の日々が、昨日のことのように甦る。


「こはる。父ちゃん達は大人の話し合いがあるからな。爺ちゃんとどっかに行ってな」

「うん。お母さんのこと、ちゃんと愛してあげてね」


 息を詰まらせる維を尻目に、不気味な言葉が交わされる。


「おじいちゃん、こっち」


 そう言うと少女は祖父の手を引き、いつの間にか生まれていた扉をくぐって、部屋を出ていった。


「こはるちゃ……待って……」

「焦んなって。あとでゆっくり会わせてやるよ。今は俺らの再会を祝おうじゃねぇか」


 ごつごつした手に顎を掴まれ、上を向かされる。


「いつの間にか不良になりやがって。こんなもんまで付けて、鬱陶しいンだよ」


 武流が、維の鼻のピアスに触れる。外そうとしたようだが、そう簡単にいかないと分かると、舌打ちして手を引いた。

 が、すかさず維のジャージを引き裂く。

 視線が、左胸のタトゥーに吸い寄せられる。


「誰だぁ? 可愛いお前に、こんなもん彫らせたクソはよ?」


「残念でした……アタシから彫ったのよ。今のダーリンへの愛の証にね」


 タトゥーは五芒星に羽根。星の酉で〝醒〟の字──心はいつも顕醒のもの。


「クソが! ソイツ、ブッ殺してやる!」


 武流の体が一気に膨れあがった。筋肉がボコボコと隆起して、いびつな葡萄のようになる。


「思い出させてやるぜ、お前が誰のものなのかをよ。オイ、しっかり押さえてろよ」


「ヘヘ、あいよ」


 阿都志の首から下が、四方八方に枝分かれした。めいめいに壁へと張り付き、絡み合い、蜘蛛の巣のように網を張る。天井側に移動した顔面がニタニタと獲物を見下ろす。

 網の中心に捕らえられた維は、腕も脚も開かされて、されるがままになるしかなかった。

 過去に何度も、何度も経験し、そして二度と味わいたくなかった屈辱。


(さっさと来なさいよ……クソどもが……!)


 だが今度はその屈辱から、維にとっての本当の闘いが始まる。




 冷たい夜風が、包帯の奥の傷口に滲みる。

 探している背中はバルコニーにあった。二日前の自分と同じ場所。

 服は道着に変わっていた。それも今の自分と同じだ。

 だが、兄は柵に寄りかかっていない。じっと佇んで、街のほうを見つめている。


「兄さん……」


 隣に並ぶでもなく、その背に声をかける。

 返事はない。だが気付かれてはいる。

 自分がどこにいても、兄には分かる。数時間前に、初めて知らされた真実だった。

 これまで何度も危機から救ってくれた理由が、やっと分かった。


 自分だけではない。維や零子……深く関わってきた相手の気配なら、兄はどこからでも感知できる。

 師も同じことが出来るという。因果を捉える、不動の力の一端らしい。

 だが、その兄達をもってしても、維の居所は分からない。

 雲水が別の力で妨害している可能性も考えられる。もう、あの怪僧なら何をしても不思議ではない。


 兄が負けた──そう聞かされたとき、凰鵡は世界が終わったように感じた。

 斗七山第一位《鬼不動》。名実ともに衆最強の闘者。凰鵡にとっては、一発の被弾も目にしたことのない完全無欠の存在だ。

 その兄を完封したという雲水が用いた技もまた……不動。


 「儂の名に賭けて、そんな奴は知らん」


 詰め寄った顗に、師はキッパリと言い放った。不動の者はこの世に三人──師と、兄と、自分。そのことは何年も前から聞かされている。

 なら、あいつは何なのだ。はるか山の頂にいるような兄をも凌駕する存在──天上の神だとでもいうのか。そんな相手に及ぶ力など、あるはずがない。


 それでも凰鵡はまだ、自分に出来ることがあると、信じたかった。

 維を助けたい。

 傍若無人を絵に描いたようなあの廣距の連中から、今どんな仕打ちを受けているか……想像 するだけで顔を搔きむしりたくなる。


 奴らは維を辱め、佐戸を殺し、翔も瀕死に追いやった。絶対に許せない。

 じかに、この手で叩きのめしてやりたい。

 そして……こはる。彼女はいったい何者で、何があったのか。すべてを突き止めて、もし苦しんでいるのなら、救い出したい。


 ……思い上がりもはなはだしい。力のなさを痛感しながら、やりたいことだけは湯水のように湧いてくる。

 もっと強ければ──いつもそうだ。悔しくてたまらない。兄や師のような……せめて顗や維ほどの力があれば、と。

 だが、強くなろうと師に教えを請うた自分を、兄は止めた。その理由が不可解であるがために、凰鵡は不満を抱かずにいられない。


 兄の言うことは信じていたい。一年前の凰鵡なら、わけも訊かずに従っていただろう。

 しかし、そのときの従順さは失われてしまった。それが自立心の芽生えであり、個人としての成長である。が、いまの凰鵡自身にはそうだと気付けない。自立の側面である孤独感と、他者との軋轢(あつれき)に、ただ途惑うしかない。


 軋轢が鳴らす摩擦音を、触れ合いによる共鳴へと変えるためには、人は支配や従属ではなく、緩やかな孤立と共存を受け入れ、維持しなければならないのだろう。

 本当なら、凰鵡にもそれが出来たはずだった。

 だが口から飛び出したのは、その本質を包み隠した皮肉だった。


「兄さん。ボクに、なにが出来るんでしょう?」


 こうも自分が力不足なのはあなたのせいだと、遠回しに兄を責めたのだ。


「前にも言った」


 背を向けたまま、顕醒は静かに答えた。


「お前の成したいことを念に込めろ」


 凰鵡は奥歯を噛む。

 分かっている……そんなことは。

 成したいことが多すぎる。それに見合う力が無いから、困っているのだ。


「第一歩を忘れたか」


 弟の逡巡と苛立ちを察したように、兄が言葉を重ねてくる。

 第一歩──一年前に教わった。念を拡げ、流れを捉えるということ。


「念は殺法ではなく活法。そう教えたはずだ」


 凰鵡はキッと眦を吊り上げる。


「なら、その念を殺法に使っている兄さんはどうなんですか!」


 今までにない強い口調で反論してから、ハッとなった。


「お前は、私とは違う」


 思った通りの答えがきた。師にもそう言っていたではないか。

 これが理由なのか。おなじ不動でありながら、自分とは違う道を行けと。

 だが凰鵡にとって、それは受け入れがたい。

 自分にとってのゴールフラッグ──顕醒という存在──を否定されたのだ。


 兄の欺瞞だと思いたかった。本当は自分には大きな才能があって、追い越されるのが怖いから、わざと成長を妨げているのだと。

 そんなはずはない。兄は、そんなことをする人ではない。


「わからない。ボクには……わかりません」


 自分が空っぽになった気がした。どっちを向けば良いかも分からない。道を教えて欲しい。レールを敷いてほしい。いっそ「黙って言うとおりにしろ」と言われたい。その背中に抱きついて、「一生ついていきます」と叫びたい。


 だが出来ない。

 背中を見たときに感じてしまった。

 兄の心はいま、ただひとりを見据えている、と。

 雲水──維の救出ではなく、あの怪僧との再戦に、全神経を集中させている。

 維が心配ではないのか──まったく逆だ。


 愛している。そして信頼してもいる。維の勝利を確信している。

 だから自分の戦いに専念できるのだ。

 一昨日のふたりが、脳裏に甦る。

 泣いてうずくまる維を、兄は傍観していたのではない。

 見守っていたのだ。維も分かっていたし、それを望んでいた。


 その関係は、ずっと以前から続いていたのだろう。その証拠に、彼女はどんな困難のなかでも、兄に助けを請うたことは一度も無かった。

 それが、ふたりの愛し方なのだ。

 自分には…………出来ない。

 凰鵡は黙って踵を返し、その場を去った。

 湧いてくる涙をひたすら堪えて、凰鵡は足早に廊下を渡った。


(勝てないよ)


 維が……ではない。

 維に、勝てないのだ──あのふたりのあいだに入り込む余地などない。


 胸が痛い。苦しい。寂しさと悔しさで、頭がおかしくなりそうだった。

 この一年、心の奥に抱いていた熱い想いはいま、バラバラに砕け、地にまみれ、無音の嗚咽を上げていた。




 誰かに呼ばれた気がした直後には、痛みで意識が覚醒した。

 動くな、と本能が告げる。ふわふわの羽毛布団。リネンの匂い。医務室の布団は宿泊室のそれよりも気持ちいい。病人を寝かせておく工夫だと聞いたことがある。

 だが、甦った最後の記憶が、横になっていることを許さなかった。


「凰──!」


 叫んで身を起こすや、声が出せなくなった。息をするだけで全身に響く。とくにギプスで固定された右腕は最悪だ。灼けた鉄球でも埋められたのかと勘ぐってしまう。


「駄目だ、寝てろ!」


 ベッドのそばにいた叔父に一喝された。


「……凰鵡は⁈」


 体がバラバラになっても、これだけは知っておきたい。


「彼は無事だ。お前よりもずっと軽傷だよ」

「マジ?」

「あとでお前が傷つくような嘘は言わない」


 翔は安心して目を閉じた。倒れこむ背を叔父が受け止めて、優しく寝かせてくれた。

 ふと見えた窓の外は、暗い。

 そこでようやく、自分が個室に入れられていることに気付いた。零子の隣だろうか。


「オレ、どんくらい寝てた? いま何時?」

「十四時間ほど。いまは朝の三時だ」


 驚いた。叔父はずっと付き添ってくれていたのだろうか。


「すげぇ早寝早起きしちまった」

「やめろ。そんな冗談は」

「……ごめん」


 自分が目を醒まさなかったら叔父がどんなに悲しむかと思うと、翔は謝るほかない。


「何があったかは凰鵡くんから聞いている。顕醒があと少し遅れていたら……」


 言い切れずに呑み込まれた言葉が何か、翔にはわかる。


「ほんと……ごめん、おじさん。オレ、どうしても許せなくて」

「わかっている。解っているんだ」


 雲脚を攻撃に使わないことは、習い始めたときに誓わされた。

 初心とも言える掟を、自分は破ったのだ。


 そのとき、部屋の戸が開かれた。

 凰鵡だった。翔が意識を取り戻しているとは思わなかったのか、目を皿のようにして固まっている。

 そんな仔猫顔に、翔はいつもの調子で「よッ」と声を掛けた。


「突っ立ってないで、入れよ」


 凰鵡のなかで何かが決壊したのが翔にも分かった。唇が引き結ばれ、瞼が(すぼ)まる。

 豊かな睫毛のあいだで、眼がどんどん潤んでゆく。


「置いていた仕事を思い出したよ」


 紫藤が立ち上がって、翔に背を向けた。


「おじさん……ありがとう」


 振り向きざまにフッと微笑んで、紫藤は凰鵡の横をすり抜ける。


「翔を頼んだよ」


 凰鵡は黙ってうなずき、部屋に入った。


「ッ!」 


 背後で戸が閉まったと同時に、凰鵡は翔のそばへ駆け寄り、ベッドに突っ伏していた。

 慟哭(どうこく)が部屋を包み、シーツを濡らした。


 五分、十分……言葉らしい言葉もなく、凰鵡は啼いた。

 その頭を、翔は管の繋がった左手で、やさしく撫でつづけた。




 スッと息を吸い込んで、朱璃は事務所の扉をノックした。


「朱璃です。入ります」

「れ? おねえちゃん、まだ起きとったん」


 支部長用のPCの向こうで、真嗚が目を円くする。


「不動翁、見てもらいたいものと……お願いがあります」

「まぁた。あんちゃんもおねえちゃんも(じじい)ジジィって……真嗚って呼んでにゃん」


 猫の手を作って、おどけたポーズを取る。

 だが、朱璃はまったく反応しない。


「……笑う余裕もないようじゃな。聞こうかい」


 耳を垂らして、真嗚は応接セットへ移動した。

 ソファに身を沈めるや、目の前に朱璃のタブレット端末が置かれた。


「ラボに籠もっとったンは、これが理由か」


 真嗚は体を乗り出し、食い入るように映像を見つめた。

 その視線がふと、端末の隣に差し出された、朱璃の手へと移る。


「これを、隔離している二名に投与する許可をください」


 その指は、厳重に封をした注射器を握っていた。


「効果を疑ごうとるワケじゃねぇが、結果は公表せにゃぁならん。ええのかい?」

「かまいません」


 即答する朱璃に対して、真嗚は背もたれに体を預け、頭を掻く。


「儂の一存では難しい。零子ちゃんにも是非を問わにゃ」

「それでは間に合わないかもしれません」

「うんにゃ、待つ必要はないて」

「どういう意味ですか?」

「私でしたら、ここに」


 朱璃は弾かれたように戸口へと顔を向け、目を見開いた。

 開かれた扉の前に、零子がいた。紫藤と、初めて見るふたりの男女が一緒だ。

 それよりも朱璃が驚いたのは、零子がふたたび眼鏡を装着していたことだ。




「ごめん……ありがと」


 ぐすぐすと鼻をすすりながらも落ち着いたときには、シーツにはコップ一杯分はあろうかという濡れ跡ができていた。

 本当は部屋に籠もって、ひとりで泣くつもりだった。だがその前に、どうしても翔を見舞っておきたかった。

 そうしたら、いつもの笑顔に迎えられて……気が付けば、我慢できなくなっていた。

 うれし涙に隠して、ぜんぶ流してしまおう……と。


 翔の前では、ことあるごとに泣いている気がする。とくに今日のは最長記録だ。自分を背負わせたくないと思いながら、結局はいつも泣かれ役をさせてしまっているのが申し訳ない。

 それでも、兄にも見せられない恥や弱さを曝け出せる。見栄や遠慮を抱かせない、そんな翔が親友でよかったと思う。


「マジか……維さんが……」


 てっきり紫藤から聞いたものと思って、うっかり現状を話してしまった。


「大丈夫。維さんは勝つよ」


 確証はない。だが彼女の執念の強さを凰鵡は知っている。

 なにより、兄が信じているのだ。


「ああ……オレもそう思う。それよかヤバいのは、雲水ってのか」

「兄さんに任せるしかないと思う。ボクらにどうこう出来る相手じゃないよ」


 気が付けば、またふたりきりの作戦会議が始まっていた。


「じゃ、あとは……こはるちゃんか」

「うん。そもそもボクら、彼女を探してたもんね」

「片方が吸収されたっていうの、朱璃ちゃんに似てるな」

「うん……」


 凰鵡は無意識に、ポケットのなかの宝剣を握る。


「大丈夫か?」

「……怖い」


 正直に口に出した。こはるの精神に飛び込んで、もうひとりのこはるを救出する。当然、考えはしている。だが、そのたびに怖気が走る。

 チャクラメイトが生んだ妖胎児のなかで、凰鵡はこのうえない恐怖を経験した。圧倒的な冷たさと孤独、自分が失われてゆく絶望感。

 できるなら、二度と経験したくない。


「すまん」


 ハッと顔を上げる。


「オレはなんにも出来ねぇのに、期待ばっかしてる」

「そんなことないよ。翔は──」


 ズボンのなかでスマートフォンが震えた。番号は事務所。


「夜分にすみません。至急、事務所までお願いします」


 出てみて驚いた。師ではなく零子だ。隣で寝ているとばかり思っていた。


「ごめん。行かないと」

「わかった…………凰鵡」

「ん?」

「……またあとでな」

「うん」


 残った涙を拭いて、笑顔でうなずき、凰鵡は部屋を出た。




 言えなかった…………

 あの泣きようでわかる。同じような痛みを知っているから、わかってしまう。

 相手が誰かも察しはつく。まだ、彼に未練があることも。

 その想いの残り香を、払ってやりたかった。

 ぽっかりと空いた心の穴に、滑り込みたかった。

 それには絶好のチャンスだった。

 オレが支えになる、と…………


 だが、そう言い切れる自信も、根拠も、傲慢さも、翔にはなかった。


 ──オレは弱い──


 支えたくても、隣に並びたくても、そこに立ち続ける力がない。

 重荷にしかなれない。足手まといにしかなれない。

 自分は、凰鵡に相応しくない。


 左手で顔を覆う。手の平に残る髪の匂いに、胸が締めつけられる。

 声も上げず、音も立てず、大鳥翔はひとり、静かに涙を流した。


     *


 午前四時。世間が目を醒ます前に、それは決行された。

 地下の一室に、ストレッチャーが二台──飯生木奈月と、顗に捕獲された呪者が、もの言わず横たわっている。どちらも薬で眠らされていた。


「では、よろしいですね」


 タヌキ先生が訊ね、零子と真嗚がうなずく。

 被験者らに一本ずつ、注射が施される。細いシリンジの薬剤は、またたくまに消えた。

 針が抜かれるや、結果は現れた。


「うううーううー」「アアアオオオオオ」


 昏睡状態にあるはずのふたりが呻きはじめた。

 その音色に、朱璃は思わず耳を塞いでいた。

 怨嗟──地獄の底から湧いてくるような、心を凍らせる声だった。

 そして、さらにおぞましいものが始まった。


 呪者達の体が、グニャグニャと変形をはじめたのだ。

 伸び、ねじれ、丸まり……まるで見えない手が粘土で遊んでいるかのようだ。

 それは、変異した部位だけに起こっていた。奈月のほうは肩からうえに留まっているが、もうひとりは全身だ。寝ているのか起きているのかの区別もつかない。

 両人とも拘束はされているが、激化する変形のまえに意味を失ってきている。


 べしゃり──暴れ回る奈月の頭が、目の前に張り付いた。真嗚が気の壁を張っていなければ、もろに被っただろう。


「──!」


 朱璃は口を押さえた。スライム状の赤黒い血肉の塊のなかに、無数の眼球と、バラバラになった歯が見えた。

 壁を伝い落ちながら、それらは無へと融解していった──妖種の遺骸がそうなるように。

 変異の重い部位は……消滅する。

 もうひとりは髪と骨の一部を残して、完全に融解していた。


「緊急手術入ります!」


 部屋の隅で待機していた医療班が、ワッと奈月を取り囲んだ。

 ストレッチャーに横たわる患者は、下顎と、頭骨の半分を失って、脳髄をほとんど露出させていた。


「朱璃さんのせいではありませんよ」


 愕然として立ち尽くす朱璃の肩を、零子が抱いてくれた。


「むしろ、勇気を出して教えてくださって、ありがとうございます。あとは先生方にお任せしましょう」

「はい」


 零子にうながされて、二重扉をくぐる。


「…………かかった」


 部屋を出たとたん、真嗚が何もない天井を見あげた。

 いよいよ始まるのか──戦慄が朱璃を震わせる。


「では、作戦どおりに」

「ん。荒事は儂ら向きじゃ。ほいじゃ、ご両人よろしく」


 廊下に控えていたふたりが、揃って礼をした。

 特徴のないスーツ姿の中年男性と、巫女のような和服を来た長身の老婆。

 男のほうは援軍として真嗚に喚ばれた他所の闘者。老婆のほうは、零子に新たな眼鏡を届けにきた情報員だという。




 古びたシーツを固めて作ったような椅子に、初老の男と、少女は座っていた。


「おじいちゃん。お母さんが帰ってきて嬉しい?」


 祖父と呼んだ男の膝に尻を乗せ、恍惚とした笑みで少女は訊ねる。


「ああ、嬉しいよ」


 どこか生気のない声で、男は答える。


「おじいちゃんも、お母さんと愛し合う?」

「ああ、お前がそうして欲しいなら」

「よかった。みんなでいっぱい……あ」


 急に、少女が表情を固くする。


「こはる?」

「友達が、殺されちゃった」


 どこを見るともなしに、少女は天井を仰ぐ。


「可哀相……なんにも悪いことしてないのに。そうだよね。仕返ししないと」


 フワッ、と一瞬、少女の体が、影を濃くする。


「いやな人達、嫌い……死んじゃえばいいのよ!」


 カッと見開かれた少女の眼球は、真っ黒に染まっていた。




 まだ夜と言ってもいい明け方の空が、一気に異様な色へと変わる。

 頬に当たっていた風が消えた。

 呑み込まれた瞬間を、凰鵡は初めて目の当たりにした。

 一年半ぶりに見る異空間だ。


(広い……!)


 前の鏡像世界は学校ひとつだったが、今回は規模が違いすぎる。

 支部の屋上から見渡せるかぎりの、街一面だ。

 どれだけの力があれば、こんな広大な土地を模造できるのだ。


「爺さまの策が当たったな」


 顗がガツンと拳を撃ち合わせる。隆々たる上半身は端から剥き出し。包帯やら湿布やらで痛々しい姿だ。それでも眼は闘志で爛々と輝いている。

 その隣で、顕醒は瞼を閉じ、静かに直立していたが…………


「捉えた」


 鋭く呟いて、眼を開いた。

 その時が来たのだ──凰鵡の腹の奥に、不安と緊張がスッと凝縮される。

 その腹に、顗の太い腕が回された。

 視界が一気に動いた。顕醒が先行し、凰鵡を抱えた顗がつづく。


(いま行きます、維さん…………こはるちゃん、待ってて!)


 自分の足がこのふたりに遠く及ばない歯痒さを今は捨て置き、待ち受ける闘いに、意識を集中させてゆく。

 自分に出来る──そして自分が成したいと思う──精一杯のことを果たすために。




 遠雷のような慟哭で、翔は眼を覚ました。

 また寝ていたらしい。

 が、意識がハッキリしても、泣き声が頭のなかに鳴り続けている。

 凰鵡の悲嘆の余韻か、それとも自分の心が上げた悲鳴か。


「翔? 大丈夫か?」


 個室にいて、叔父がいる。さっき目覚めた時となにも変わらない。

 だが同時に、外にいるような曖昧さもある……起きながらに夢を見ているようだ。

 その瞬間、意識のなかで光が爆ぜた。


(なん──ッ⁈)


 声と感情が流れ込んでくる。


 ──コロス──ああ──コロスコロスコロス──シネシネシネシネコロスああああシネしねころすしねァァァァころすころすしねァァァアアア──


 幾重もの憎悪と断末魔。まるで地獄にいるようだ。

 窓に眼を向ける──カーテンで外が見えない。

 否、見る必要はなかった。


「おじさん、飯生木はどうしたんだ?」

「お前は心配しなくていい」


 だが紫藤の気遣いは無駄だった。


「もうひとりは死んだんだろ。何があったんだよ?」


 甥の言葉に、紫藤は目に見えて表情を強張らせる。


「ハッキリ言ってよおじさん!」

「……呪いの力を払う血清ができた」


 奥歯を噛み締め、絞り出すように答える。


「それを、ふたりに投与した。飯生木さんは解放されたが、重体で手術を受けている」

「そうか……それで、もう片方のは、変異しすぎてて……」

「翔、お前……!」


 叔父に言われるまでもなく、自覚できた。

 ──自分は、呪いに感染した。


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