典の節・懦闇 其之参『試されるもの』
⑨試されるもの
「やぁぁッ!」
地下道場に、凰鵡の裂帛が満ちる。
床も割れよという震脚からの後ろ回し蹴り。
──だが、その足が回りきらぬうちに、掌打が五発、胴体に撃ち込まれる。
「づぅっ!」
痛みと圧に耐えて踏ん張り、畳み掛けてくる掌に対して貫手の弾幕を張る。
が、突き出された足に蹴り飛ばされた。
「浅ぇ! 儂に反応するんでなく、念を拡げンかぃ!」
師の叱咤が浴びせられる。
(念を拡げる──因果を捉える──念を拡げる──因果を捉える──!)
自分に強く、何度も言い聞かせながら立ち上がる。
体中が重く、痛む。関節が軋む。激震する鼓動は頭のてっぺんにまで響いてくる。
叫びすぎて喉は枯れ果て、舌の奥に血の味が絡みつく。
「あああッ!」
気管が裂けるのもお構いなしに声を張りあげ、もういちど挑みかかる。
何度やっても叩きのめされる。こちらの動きはすべて読まれている。もう何発喰らったかも分からない。
それでも、じっとしているよりはいい。
身体は痛んでも、がむしゃらにでも、動いているあいだは少なくとも心の痛みを忘れられる。
だが、その凰鵡の憂さ晴らしを、無情にも止める者がいた。
「う……!」
とつぜん、身体が動かなくなった。
力が入らないのではない。光る縄に縛られているのだ。
「顕醒、やめい!」
師が真横を向いて叫ぶや、光が散って、凰鵡に自由が戻った。
同時に、誤魔化していた疲労感が、ドッと押し寄せてきた。四つん這いになることも出来ず、大の字に寝転ぶ。
「ぬし、まだ出とらんかったンか」
いつの間にか道場に来ていた一番弟子に向けて、真嗚はバツが悪そうに頭を掻く。
「凰鵡のことは、私に一任されたはずです」
不気味なほど静かに、顕醒は歩み寄ってくる。昨夕、顗に殴られた痕はほとんど腫れもせず、わずかな青みを残すに留まっている。
「あいスマンな。さりとてコイツも弟子に変わらんし、儂からすりゃ孫みたいなもん。ぬしが留守がちともなりゃ、構ってやりとうもなる」
「お心遣い痛み入ります。ですが──」
「ぬしの──」
真嗚が顕醒の言葉を食う。
「──教育方針も、気になったもんでな」
至近距離で相対した師弟のあいだに、冷たく張りつめるような空気を感じて、凰鵡はゾッとする。
顗とだけでなく師とも争ってしまうのか、兄は──それも、今度は自分を巡って。
「兄さんッ」
そう思うと、たまらず声を上げていた。
「ボクが、お師匠様に頼んだんです。もっと強くなりたくて……!」
とたん、キッと向けられた兄の眼に射竦められ、凰鵡は何も言えなくなる。
だが反発も感じる──自分に自由意志は認められないのか。
「凰鵡は私とは違う。このような遣り方は逆効果です」
ふむ、と真嗚は首をかしげる。
「わかった。たしかに凰鵡を任せたのは儂じゃ。出過ぎた真似を詫びよう。じゃが、仮にもぬしの師として、訊きたいことも多々ある。今とは言わんが、近いうちに答えてもらうぞ」
「御意に」
凰鵡は心のなかで胸を撫で下ろす。ひとまず、師兄の諍いは見ずに済んだようだ。
安堵の溜め息をついて、立ち上がる。
(あ……)
粘つく不快感が、股間を濡らした。
霊科班のラボ内にただよう独特の薬品臭が、朱璃は嫌いではない。
これから作業をしようという気持ちを奮い起こさせる──たとえその探求が、暗い真実を明らかにするものであってもだ。
班員ではない朱璃だが、ゲスト用の研究ブースを借りるのは初めてではない。
試験管立てには、赤黒い液体の入ったサンプルが六本、並んでいる。
ラベルの記載をしっかりと確認して、まず一本から、なかの液体をスポイトで、空の試験管へと少量、移す。
そこへさらに、サンプルとはまた離れた場所に置いておいた管から、赤い液体を一滴。
管の底で両者が混ざるのを確認し、その混合液からスライドガラスへと一滴垂らして、顕微鏡で覗いた。
それを見届け、記録を付けると、朱璃は次のサンプルにも同じことをした。
次も、その次も、同じことを繰り返す。
朱璃の眼は、次第に険しさを増していった。
大浴場の戸を開けて一歩、なかに入った瞬間、凰鵡は「しまった」という意味で、「あ」と声を上げていた。
浴槽に先客。縁にもたれて、こちらに背を向け、胸まで湯に浸かっている。
男湯なのだから男が入っていても不思議ではないが、いまの凰鵡にはそれが、なにか不条理なものに感じられた。
何も考えずに脱衣所を抜けてきたことを後悔する。誰かいると分かっていたら、回れ右して、宿泊室のシャワーを使っていた。
「あ、よう」
その先客が振り向いて、凰鵡は少し安堵する。
翔だった。
が、その視線に、凰鵡はモゾモゾとした弱い不快感を覚える。
こんなことは初めてだ──翔とはもう何度も、一緒に入っているのに。
初めてといえば、この状況で(血で股を汚した姿で)一緒になるのが、初めてかもしれない。タオルで隠してはいるが、匂いで気付かれるかもと思うと、落ち着かない。
「今日はどうだったよ?」
「昨日と一緒。もうズタボロ」
極力、いつもの調子で答えつつ、シャワーブースに入った。仕切りで翔の姿が見えなくなる。カーテンがないのが口惜しい。
「翔は手、大丈夫だった?」
仕切りの陰から問う。
今日になってようやく翔も運動を解禁され、さっそく自主練に励んでいた。
「殴るとかは、まだ駄目っぽい。走るのはイケたわ。衆の医療技術もスゲぇけど、内功ってやっぱやべぇな」
こうまで治りが速いのも、負傷した直後に真嗚が(こっそり)処置していたおかげだ。
「凰鵡って、内功はまだ使えねぇの?」
「……うん、まだね」
翔の言いかたにトゲを感じつつ、シャワーのコックをひねる。
「お前でもまだ出来ないなんて、よっぽど難しい──って、おい大丈夫か⁈」
ザバッと湯から上がる音がする。
「え⁈」
「どっか怪我してんのか⁈」
ハッとして見下ろすと、流れ落ちた湯水が真っ赤に染まって、ブースの外にも広がっていた。
ピタピタと足音がせまる。
「あ──待って!」
仕切りから上半身と手を出す。あやうく突き飛ばしそうな距離で、翔は立ち止まった。
「えっと、血は出てるけど……怪我じゃないから」
おずおずと体を引っ込める。ストレートに言えないのがもどかしい。察して欲しいが、それを前提に話すのは卑怯だとも思う。
「あ、そうか……怪我じゃねぇんなら、よかった」
それでも翔には伝わったようだ。
「じゃ、オレは上がるわ。お前はゆっくりしてけよ」
「んーん。ボクも体洗ったら上がるから……」
嘘ではない。最初から湯船に入るつもりはなかった。
そして、翔に去って欲しいわけでもない。
本当は寂しいのだ。ひとりになったら、また気が沈んでしまう。
ただ、いまの姿は見られたくない。
これまで男として接してきた自分が、今さらこんな態度を取るなど身勝手もいいところだ。それでも、恥ずかしさが勝ってしまう。
「ごめん。気を……使わせちゃって」
自分のなかの矛盾を何もかもぶちまけられたら、どんなに楽だろうか。
だが翔には言えない。
「気にすんな」
翔の声が隣のシャワーブースに入った。
凰鵡がどんな無理を言っても、翔はいつもこうだ。だから安心できるし、甘えたくもなるし……そして少し、不安にもなる。
それだけに、これ以上、自分という重みを背負わせたくない。いつも気楽な友人であってほしい。
「なぁ、朝飯食ったら、こはるちゃん捜しに行かね?」
本当は全部察しているのではないか。翔には、そんな疑念を抱いてしまうときがある。
「うん、そうだね。行ってみよっか」
互いの姿も見えぬまま、汗が流れてもシャワーを浴びつづけ、ふたりはそのまましばらく、談笑した。
街有数のタワーマンションの屋上。
足下にひろがる世界は、顗には平穏そのものに見える。
どこかで鳴り響く緊急車両のサイレンすら、自分にとっては鳥のさえずりに等しい。
もう一度、何としても廣距達を見つけ出すために、あらん限りの知覚を動員して、街を見下ろしていた……はずだった。
ガシャン──その音を、背後から聞くことになるとは、夢にも思わなかった。異世界から現れたとしても、気配くらいは感じられたはずだ。
がしゃん──もういちど、遊環が鳴らされる。
下界から音が消えた。風も止んだ。空があり得ない色に染まっている。
昨日追い出したかと思えば、今日は引きずり込む。
怪僧の目的はなんだ。
「おぉ⁈」
訝った瞬間、見えない圧力が、顗もろとも屋上の一角を吹き飛ばした。
空中に投げ出された身体は数秒の自由落下を経て、無人の車道に、足裏から着地する。
砕け散ったのはアスファルトのほうである。
(やろう──ッ⁈)
マンションを見上げた瞬間、右頬を錫杖で薙ぎ払われた。
が、堪えもせず、顗は杖の根元に向けて、無理やり踏み込んでゆく。
ドッ、と衝撃波が四方に弾け、街を揺らす。
退いたのは顗だった。腕が、ジンジンと疼く。
雲水の鳩尾に肘を直撃させた瞬間、衝撃が返ってきたばかりか〝なにかが流し込まれた〟という感触があった。
そして、その〝なにか〟は、体内で破裂した。
まさかという疑念と、間違いないという確信がせめぎ合う。
肉体は硬化させていた──表面や筋肉だけでなく、骨から臓器、血管に至るまでだ。
にもかかわらずダメージを免れないこの技を、顗はよく知っている。
三度目の接触にして、顗はこの怪僧に戦慄し、死を感じた。
末席とはいえ、闘者の最高峰と呼ばれる斗七山の一角……そして顕醒を友と呼ぶがゆえに、絶対の自信をもって言えることがある。
いまの技は《内破》。
この雲水が使うのは、世界に三人しか使い手がいないはずの《不動》に相違ない。
朝食には朱璃も誘おうとしたが、すでにひとりで済ませたらしい。いまは時間給を取って研究室に籠もっている、と真嗚が教えてくれた。
最近はじめたという妖種研究の続きだろう、と翔が言い、凰鵡もそう思った。
ふたりして胃に詰め込むようにモーニングセットを平らげ、外出許可を申請した。追跡用の呪符をそれぞれポケットに突っ込んで、街に繰り出した。
こはるが消えた場所を探れば、なにか手がかりがあるのではないかと考えたが、空振りに終わった。なんの名残もない。
そもそも、こはるがなぜ消えたのかも判っていない。
「維さんもいたのに、なんも感じなかったってンだもんなぁ」
「昨日も会ってないみたいだし、遠くに行っちゃったのかな」
異空間を操っているのが彼女で、自在に行き来しているのだとすれば一応の説明はつく。
そうだとすれば、こちらから逢いに行くのは絶望的だ。自分に異空間へ突入する力はない。だが、こうして探しているのを知れば、向こうから出てきてくれないだろうか。
(また逢える。また、逢いたい)
強く願えばきっと叶う──翔がそうだったように。
そんな無根拠な希望を胸に、ふたりは街なかをぐるぐると歩き回った。
そのまま昼になり、コンビニのおにぎりで腹を満たし、作戦とも言えない作戦会議をして、今度は逆に、ひと気の少ない場所へと足を運んでみた。
繁華街から少し出ると、大通りを挟んでオフィス街が広がっている。
とはいっても、裏通りは旧市街という趣が強く、道も狭くて車も少ない。スナックや雀荘を入れたビルもあるが、看板に灯が入っている店は稀だ。逆に、空っぽのショウウィンドウやシャッターに貼られた『テナント募集』『管理』の貼り紙の多さが目立つ。子供が遊びに来るような場所もない。
いま誰かが通り魔に遭ったとして、誰が現場を目撃できるだろう……と、凰鵡は寒気を覚える。
「翔、あれ」
その少女は、街を流れる疎水に石を投げ入れていた。魚を狙っているのだろうか。
見覚えのないダッフルコートを着て、髪も束ねていない。
それでも目のいい凰鵡には、遠くからでも背格好と横顔で判る。
声を掛けに行こうとしたが、距離が半分も埋まらないうちに、疎水沿いを離れて、建物の陰に消えてしまった。
ふたりが足を早めて角を曲がったときには、少女は少し先に見える、テナントビルの地下へと降りてゆくところだった。
近づいて、歩道から階下を覗いてみると、コンクリートの階段の向こうには扉がひとつ。もとはバーか喫茶店か。看板の跡だけが戸板のなかに四角く残っている。
「ここに住んでるのかな?」
「いや、住めるもんなのか?」
「ノックしてみようか」
「ちょっと待て」
逸る凰鵡を抑えて、翔はスマートフォンを取り出し、通話を架けた。
「翔どうした?」
受話口から聞こえる声で、紫藤と分かる。
「こはるちゃんを見つけた。こっちの──ッ⁈」
その瞬間、背後から音もなく伸びてきた触手が、ふたりを雁字搦めにした。
三日目に入って、維の試練はいよいよ激しさを増した。
イルマと香音、両者からの愛撫だ。
二枚の舌、二〇本の指……そんな単純な足し算ではない。
意識が爆散しそうになる。ひたすら快感を流し込まれるだけの拷問だ。
「しっかりなさい。なんのためにこうしてるか、忘れちゃ駄目」
しかも快楽を甘受しようとするたびに、香音が喝を入れて、束の間の正気に引き戻してくる。いっそ狂ってしまうほうが、どれだけ楽か。
(そうね……しっかりしなきゃ)
昨日は、兄貴にあれだけの啖呵を切ったのだ。凰鵡達にも涙を見せてしまった。
自分らしくもない。恥ずかしくて、あのあとは誰とも顔を合わせられなかった。
掻けるだけの恥を掻き、張れるだけの意地を張っている。こうなれば、ヤケのひとつでも起こしてやろう。
勝つためなら、この体くらい、連中にくれてやる。
そう決意したとたん、快楽のすべてが、どうでもよくなった。意識が体から抜けて、自分を見下ろしているような気分になる。
だが、たしかに自分の感覚はそこにある。高まる感覚と、迫りくる絶頂、自分のなかに渦まく力──それが、まるでゲームのパラメーターを見るように認識できる。
これか、と確信した瞬間だった。
「維お姉さん──!」
室内に響いた声に、三人は動きを止めた。
そして部屋の隅を見て、目を見開いた。
チェックのインバネスを着て、パンダのぬいぐるみを抱いた少女────
「こはるちゃん!」
「知り合い?」
この家のセキュリティは厳重だ。しかし誰も彼女に気付けなかった。さまざまな理由で困惑する大人たちを尻目に、少女はもう一度叫んだ。
「お願い! 凰鵡お姉さん達を助けて!」
その顔は、いまにも泣き出しそうだ。
「凰鵡ッ⁈」
藐都夫妻を弾き飛ばすように、維はベッドから飛び降りた。
その目の前で、こはるはフッと消えた。
「待って! こはるちゃん!」
「維くん、どうなってるの⁈」
「ごめん! 行かなきゃ……と思う!」
ズボンとジャケットだけを着て、階段を駆け上がる。
「こっち!」
外へ飛び出すと、通りの左からこはるが招く。
走り出すと消える。そしてまた遠くに現れて自分を呼ぶ。
その先に凰鵡がいる。そして危機に陥っている。維はそう確信していた。
顕醒に任せることも出来た。凰鵡や自分の居場所なら、彼は即座に察知できる。きっと今も先行しているだろう。
それでも、じっとしていることなど出来なかった。
維の予想どおり、顕醒は誰よりも早く駆け出していた。
屋根から屋根へ、電柱から電柱へ。精緻にして静謐──無音、無風、無影。衆の使い手のなかでも至高を極めた雲脚をもって、ぐんぐん弟の気配へと近づいてゆく。
が、その脚を捉えたものがいた。
がしゃん──遊環の音が顕醒を包んだ。
否、音だけではない。
車道のまんなかで、顕醒は急停止した。
無人の街……怪色の空…………
と、顕醒に向けて、巨大な砲丸が飛んできた。
身をひねってかわすと、それはアスファルトに着弾し、地面を深く抉って、立ち上がった。
「そこは受け止めろよな!」
顗だった。肩で息をし、目は焦点を見失いつつある。服もボロボロで、汗に張り付いた土砂が全身を灰色に汚している。
それでも、素肌に傷や腫れはいっさい見当たらない。
そんな友を無視するように、顕醒は明後日の方角を見つめる。
数百メートル離れた街灯の穂先に、顗を撃ってよこした──そして顕醒をここに招いた主が佇ずんでいる。
「おい、いま何時だ?」
隣に並んだ顗に、指で時刻を示す。
「くそッ、えらく遊ばれた。つーか、お前も引きずり込まれたのか。外はどうなってる?」
「逼迫している」
「そういうことかい、あんのクソ坊主が。おい、ありゃお前の親戚か?」
「ありえん。お前は出口を作れ」
「ふたりでボコるほうが早ぇぜ」
顗が言い切るより先に顕醒は走った。数百メートルを数歩で駆け抜け、雲水との距離を詰める──はずだった。
二歩目で震脚に切り替え、掌を突き出した。
目の前に現れた雲水の掌が、それを受け止める。
両者のあいだに、光の壁が広がった。
衝突で生まれた熱、風圧、音……すべてのエネルギーが放射状に拡散したのだ。それはレーザーのように、地面からビルまで、触れるものすべてを溶断した。
完全な拮抗──と見えたのも束の間。
「……!」
顕醒が無言の呻きを漏らした。
「つッ⁈」
遠くうしろで、顗の声が上がる。
無傷だった生身……その頬が、拳で撃たれたような赤みを帯びていた。
光の壁が勢いを失った。
雲水は微動だにしない。
一方、顕醒の腕は、小さく震えていた。
冷え切ったリノリウムの床へと、翔は投げ出された。積もった埃をまともに吸い込んでしまって、激しく咳き込む。
もとはバーだったらしいが、使われなくなってしばらく経つようだ。店主が夜逃げしたのか、調度品や装飾はそのままで、カウンターの棚には酒瓶も並んでいる。なぜか電気も通っているが、その理由は翔には判らない。
「こいつら、こはるに目ぇつけてやがった」
狡猾そうな肥満ぎみの男──顗の言っていた阿都志だ。
翔を投げた触手はスルスルと腹に戻ってゆく。妖種の力を得たと聞いていたが、こいつもチャクラメイトのように蟲を植え着けられたのだろうか。
凰鵡はまだ、残った数本に四肢を絡められてる。
(よくよく触手に掴まる奴だな……)
こんな状況にもかかわらず皮肉が浮かぶ。まだ心に余裕がある証拠だ。
凰鵡のほうは不安げな眼差しをこちらに向けている。もう少し様子を見て情報を集めるか、全力で逃げるか、迷っているようだ。
(オレは大丈夫だから、動くな)
眼でそう伝えたつもりだったが、届いたかどうか…………
「誰だよテメェら。オイこはる、知り合いか?」
ボックス席のソファに座っていた厳つい男が睨みを利かせてくる。これが長男の武流だろう。
「だぁれ?」
カウンターの奥──厨房の方から、少女がホールへと姿を現した。
初老の男が寄り添っている。
「こはるちゃん! ボクだよ、凰鵡!」
凰鵡が必死に呼びかけるが、反応は芳しくない。忘れているのか、そのフリをしているのか。
「知らない。怖いこと言わないでよ」
いや、やはり根本的に何かが違う。服装と髪型だけではない。たたずまい、表情、言葉遣いも声のイントネーションも……よく似た同名の別人と言われたほうが納得できる。
「こは──ッァ……!」
凰鵡が息を詰まらせた。服のなかに、阿都志が手を入れたのだ。
「てめぇ──ぇッ⁈」
不埒者に殴りかかろうとした瞬間、翔の視界は九〇度回転し、明滅した。
「──翔!」
立ち上がった武流に足を払われたのだと悟ったときには、翔の顔は硬い床と、砂まみれの靴底とのあいだに挟まれていた。
両腕で踏ん張り、押し返そうとするが、衝撃と痛みで力が入らない。
「阿都志ぃ、オレに黙って女に手ぇ付けんじゃねぇ!」
「いいじゃねぇか。アニキには温香がいンだろ? それにコイツ、生理中だぜ」
「ちっ、ならしゃあねぇな」
ぞわ……と、胸を灼くような痛みとは別の熱気が、翔のなかに湧く。決して許せないことを、コイツらはやろうとしている。
「お、なんだこりゃ、お宝か?」
「あ、それは──!」
パーカーの胸ポケットから倶利伽羅竜王が奪い取られる。金色のそれを少し眺めてから、阿都志は自分の上着にしまった。
「その人達、家族にするの?」
こはるの言葉は、翔にも凰鵡にも理解できなかった。
〝家族〟という響きを、こんなにも禍々しく感じたことがあっただろうか。
「彼女のほうはもらうぜ。温香に似て俺好みだしなァ。彼氏のほうはどうする?」
「消すに決まってンだろ。面倒くせぇな。オヤジがやれよ。こはる見てなかったテメェのせいだろが」
「……わかった」
連中の会話すべてが、人間のものとは思えない。コイツらとの対話は無意味だ。苦みと憤りが、翔の熱を加速させる。
「やめて! ボクは好きにしていいから、翔には酷いことしないで!」
またこれか。翔は奥歯を軋らせる。いつだって凰鵡は自分を投げ出す。〝鸞〟と呼んでいたときから何も変わっていない──それが、下衆を煽るだけだとも気付かずに。
「お、じゃぁさっそく、好きにさせてもらお」
阿都志の手がパーカーの襟を掴んだ。
まるで紙を破るように、すべてが、ひと息に引き裂かれる。
その音を聞いた瞬間、翔の怒りは爆発していた。
(ぶっ殺す──!)
武流の足首を両手で掴み、強引に頭を抜いた。
その勢いで体を捻りつつ、立ち上がりながら相手の顎にアッパーを入れた。
──片手で受け止められた。
嘘だろ、と思った直後には、壁に叩きつけられていた。
息を整える間もなく、たちまち翔はサンドバッグにされた。
速いうえに、一発一発が重すぎる。ガードしても、腕ごと押し込まれる。木槌で殴られているのと何も変わらない。
クズでも維の兄か。体格、技量、経験……すべてにおいて格上の相手と闘うというのは、こういうことなのか。
衆に入って約半年間、普通じゃ考えられないような訓練をして、信じられないような技も身につけた。それでも駄目なのか。自分の弱さが、ほんとうに恨めしい。
「──唵!」
「がァッ⁈」
光が閃き、阿都志が悲鳴を上げた。
触手がバラバラになり、凰鵡が縛めを脱する。その右手には、相手に渡ったはずの宝剣が握られていた。念によって、空間を無視した物体転移を行ったのだ。
そのまま、武流に向かって光刃を揮う。
「ちっ⁈」
跳び退いた巨漢の二の腕に、ザックリと切れ目が走った。
噴き出した真っ赤な血が、凰鵡の頬から胸にかかる。
「翔、しっかり────あッ!」
倒れ込んだ友を左腕で支えた瞬間、それまで動かなかった宗豪が踏み込んで来ていた。
拳先から伸びる細剣のような刃が、凰鵡の右腕を貫いた。
竜王が落ちる。
ふたたび絡みついた触手が翔から凰鵡を奪い、テーブルのうえに叩きつける。
すかさず戻ってきた武流が両手を押さえた。
「へんな力使いやがる! 手ぇ切り落としてやれ!」
宗豪が腕全体を斧状に変え。
「逃げて──!」
みずからの危機にも、凰鵡は翔へと必死に呼びかける。
だが、今の翔には自力で立つこともままならない。
(やめろ……クソぉッ……!)
動け、動け、と自分に檄を飛ばす。
伊東肇……金花蛍……そして父親の姿が、脳裏をよぎる。
大事な人がいいようにされるのを、自分は見ていることしか出来ないのか。
今度は、凰鵡を失うというのか。
(チクショウ……チクショオォ‼)
怒りがたぎる。だが、その矛先は廣距ではない。
自分自身──その弱さが、何よりも憎く、何よりも許せなかった。
(やってられるかァ‼)
フッと、痛みが消えた。
手を突いて、床を蹴る。
宗豪を壁に叩きつけた瞬間、すさまじい音と振動のなかで、翔の意識は飛んだ。
「翔──‼」
何が起こったのか、凰鵡は即座に理解した。
雲脚による特攻──だが、それは禁じ手でもある。直撃の反動に耐えうる肉体か技を持っていなければ、壁に体当たりするのと何も変わらないのだ。
案の定、翔は糸の切れた人形のように倒れ込んだ。右の前腕が、ありえない方向に曲がっている。治りかけていた手の傷も開いて、おびただしい血を流していた。
そのうえに、別の血滴がしたたり落ちる。
「お……ぁ……ッ!」
宗豪が吐血していた。かなりのダメージを喰ったようだが、意識を失うまでには至っていない。双眸に怒りをみなぎらせ、翔めがけて、腕の刃を振り上げた。
(やめて──! 兄さん!)
絶望が、凰鵡に兄の救いを願わせる。
そのときだった。
ダァン──酒場の扉が吹き飛んで、阿都志の頭を下敷きにした。
凰鵡はすかさず、緩んだ触手から両脚を抜いた。
身体を「つ」の字に曲げて、武流の頭を両側から挟むように蹴る。
「が……ァッ⁈」
耳孔を強打され、さすがの巨漢もたまらず手を放して、頭を押さえる。
「らぁぁッ!」
入口から飛び込んできた人影が、その武流を部屋の奥まで蹴り飛ばした。
「維さん──!」
「翔を! 早く!」
扉を踏んで阿都志を押さえつけながら、維が叫ぶ。
(──竜王!)
なぜ、ここが分かったのか。なぜ兄は一緒ではないのか。
いくつもの疑問を殺して、凰鵡は左手に宝剣を呼び寄せた。
光刃を宗豪へ突き付けると、相手はあっさりと刃を納め、部屋の奥へと跳んだ。
「翔! 翔ッ‼」
血まみれの右腕で翔を抱えて、維の後ろに退く。指に伝わる感触で、あばらが何本か折れているのが分かる。右手からの出血が酷い。口からも、濁った血が漏れている。息が……浅い。
(死なないで! お願い‼)
内功が使えたら……今日ほど、そう思ったことはない。
自分の無力が恨めしい。すぐにでも支部に連れて帰らないと。
「は⁈ お前……温香? 温香じゃねぇか」
武流がゆうゆうと立ち上がって、喜色満面そのものという(それでいて、見ている凰鵡を怖気だたせる)笑みを浮かべた。
「お母さん⁈」
カウンターの裏に避難していたこはるが飛び出してきた。
「こはるちゃん⁈」
彼女の姿に、維は目を丸くして固まる。
「お母さん帰ってきてくれたの⁈ なんで家族を置いてったの⁈」
「違う! どういうこと……⁈ アタシは、あなたのじゃ……!」
たちまち会話が成立しなくなり、維の体が震えはじめる。
「維さん!」
「──あッ⁈」
凰鵡の声で我に返った維に、触手が巻き付いた。
「温香だってェ?」
足蹴にしていたドアの下で、阿都志が息を吹き返したのだ。
「凰鵡、逃げなさい!」
「でも!」
「命令よ!」
凰鵡は愕然とする。
命令──たしかに、上位の維にはその権限がある。だが、そんな言葉で凰鵡を動かしたことなど、一度もなかった。
否、こんなことは以前にもあった。そのとき自分は、維を失いたくない一心で、いつも以上の力を発揮した。ここで踏みとどまれば、今度も奇跡を起こせるのではないか。
「オレの嫁ェ!」
迷う凰鵡の足にも、阿都志は触手を伸ばしてくる。
(しつこい──!)
怒りと嫌悪を籠めて、凰鵡は剣を振りかざした。
「みんなもう、やめてぇ‼」
悲痛な絶叫が部屋を満たした。
誰もが彼女を見つめ、その存在を理解出来ずに、固まった。
(こはるちゃん……?)
部屋の奥にいるこはるではない。
そのこはるは、まったく離れた部屋の隅にいた。
チェックのインバネス。結わえた髪とバレッタ、そして朱璃にもらったパンダ…………
こはるが、ふたりいる。
双子──そう思った凰鵡だったが、奥のこはるのひと言が、それを一蹴した。
「あんた……誰⁈」
隅のこはるは問いに答えず、畳み掛けるように訴える。
「お父さんも、お祖父さんも叔父さんも、もう酷いことはしないで。この人はお母さんじゃない。お母さんじゃないの! この人はお姉さんで、叔母さんなの!」
支離滅裂な三人称の連続。だが廣距家のあいだに動揺が走ったのを、凰鵡は肌で感じた。
そして、決定的なひと言が叩きつけられた。
「だって、私達のお母さんは──もう死んでるんだから!」
「だまれぇぇぇえええ‼」
奥のこはるの怒号が、もうひとりの声を呑み込んだ。
びんっ、と……こはる達のあいだに、何かが繋がった。
(なに……これ……?)
部屋のなかの全員に、それは見えていたらしい。
まっ黒い靄のような線──モザイクでぼかした髪の毛のようだ、と凰鵡は感じた。
そして思うと同時に、それが何かを思い出した。
過去に二度、自分はそれを見たことがある──それも、妖種の精神のなかで。
因果の糸。
なぜ、それが今、この現実世界で見えて、ふたりのこはるを繋いでいるのか。
それを理解する前に、事態は急速に動いてゆく。
「そいつがお母さんよ! そいつがお母さんよ! お前なんか消えろオオオッ!」
耳を塞ぎ、瞼を閉じながら、奥のこはるが絶叫した。その全身から〝影〟としか言いようのないものが膨れあがり、糸を通じて、隅のこはるを包みこんだ。
「お姉さん、さよなら」
「こはるちゃん──!」
糸に引っぱられ、凰鵡達の知るこはるは、一瞬にして奥のこはるへと吸収された。
そして、ひとつになったこはるの影が、爆発した。
そばにいた武流と宗豪は声を出す間もなく呑まれた。
「凰鵡!」
振り向いた維も消えた。
天井から床まで、一面の闇。
だがその膨張は、見えない壁に阻まれるかのように、凰鵡の目の前でピタリと止まっていた。
何が……と混乱している数秒のうちに、闇は消えた。
荒れた無人の酒場……凰鵡と翔のほかには、誰もいなかった。
ふと、悪臭がして、視線を落とす。
足に絡んでいた触手だ。闇の境でスッパリと斬られたそれが、融解をはじめていた。
浅い水路のなか、雲水の奇妙な仕草に、顕醒も顗も、黙って様子を覗うしかなかった。
周囲は、瓦礫が埋め尽くす廃世界と化していた。
枯れた川。流星群でも降り注いだかのような無数のクレーター。ビルは鉄筋ごとバラバラに砕けている。不動の力がぶつかり合った結果だ。
顗は上半身の服を完全に失い、金剛を極めたはずの肉体は、裂傷と打撲痕で覆われていた。満身創痍。片膝で立つのがやっと、という有り様だ。
顕醒はまだ両脚で立っていたが、唇の端に血を滲ませ、肩を上下させている。砂まみれのジャケットにも、大きな裂け目が目立つ。
かたや雲水は無傷そのもの。息ひとつ乱していない(呼吸をしているかも怪しい)。
勝敗は完全に決していた。
そんな折、雲水はとつぜん、明後日の方角に向けて、掌をかざしたのだ。
だが、それも数秒で終わり、何かを悟ったかのように天を仰いだ。
がしゃん──錫杖が大地を突き、遊環が響く。
瞬間、周囲の空気が変わった。
流水、風、鳥……音と街がよみがえり、空は青に戻る。
だが、怪僧は跡形もなく消えていた。
顕醒は水路から飛び出した。
兄が駆け下りてきたとき、凰鵡は震えて、泣いていた。
光を無くした眼には、見捨てられた子供のような絶望感が映る。
翔を抱えながら、どうしていいか、何が起こっているのかも分からず、ただひたすらに誰かの助けを待っていたのだ。
「お願いです……翔を…………」
顕醒はかがみ込んで、ふたりの身体に触れた。
「兄さん……維さんが…………」
そこまで言って、凰鵡は顕醒の様相に気付いた。
今まで見たことのないボロボロの姿だ。
維しか来なかった理由がこれか。あの兄が、いったい誰と闘ったらこうまで痛めつけられるのだ。
顗? いや、雲水だ──確信が凰鵡を揺さぶる。
──怖がらないで。
夢で聞いた声が、耳の奥によみがえる。
無理だ────兄から流れてくる温かな気ではどうしようもないほどに、凰鵡の心は凍てついてゆく。