ずっとずっと初恋
引越しのトラックを見送る頃になって、ようやく二人の新生活が始まるのだと、少しずつ実感がわいてきた。
私は並んで見送っていた彼の方へ視線をまわした。それに気付いた彼も私の目を見て、いつものように優しく微笑む。
いよいよだね、と彼が言い、いよいよね、と私も返す。
トラックが見えなくなると、どちらからともなく手をつなぎ、庭にある桜の花びらをくぐって玄関へと入った。
引越し直後とはいえ、家の中はそれなりに片付いている。収納までを引越し屋さんがやってくれるサービスを選んだのは正解だった。
リビングを見渡し、私たち二人は、また微笑みあった。大きな窓からは優しい春の陽が差し込んでいる。窓にあるカーテンの色は彼と少しもめたが、一階は私の好きなピンクの花柄、二階の寝室は彼の選んだ白ということで決まった。
中古とはいえ、多少無理をしてでも一戸建てを買ってよかった。おかげで今までの貯金はほとんどなくなってしまったが、ゆったりとしたリビングと、それなりの広さの庭はずっと憧れだった。この家で、二人だけの新しい生活が始まるのだ。私の胸は、新鮮な空気を思い切り吸い込んだときのような、清清しい幸せでいっぱいだった。
私は思った事をそのまま、幸せね、と言った。彼も、幸せだね、と返す。
越してきたこの町は、閑静な住宅地が広がっていて、住環境は申し分ない。少し足を伸ばすだけで、都心へも行ける。
私は、少し落ち着いたら街へ出て服を買いたい、と言った。彼は、自分もそう思っていた、と言って笑った。
それから私たちは濃いお茶を飲んで、近くのスーパーへ食料品を買いに出かけた。
私たち二人は、お互い初恋の相手だった。
世間一般には、初恋の相手と結ばれる、というのは珍しいかもしれない。でも、私たちにとってはとても自然な事だったように思う。出会ってすぐに二人は恋に落ちた。
なんだか、それが当たり前のようだった、と彼はいつも振り返る。私もそう思うのよ、といつも答える。周囲からも、どうやらそう思われていたようで、二人はまるで磁石が引き合うようにすんなりと結婚した。
咲き誇った桜が並ぶ住宅地の坂道を二人歩く。坂を上りきって少し行くと、そこにスーパーがある事は、家探しの時にしっかりと確認していた。
犬を散歩させている近所の人とすれ違い、軽く挨拶を交わす。仲がよろしいですね、と言う近所の人に、お陰さまで、とにこにこしながら彼は答えると、私の手を握った。節くれだった、温かい手。
寒い夜など、彼は冷え性の私の手を、いつも握って温めてくれる。冷たいでしょう、と私が断ろうとしても、彼は自分の手は特別温かいから、と言うことを聞いてくれない。じんわりとしたぬくもりに、いつも心までが温められる。
やがて見えてきたスーパーは、ごくごく普通のお店。ただ少し違うのは、入り口に屋台風のお店があること。たい焼きの香ばしい香りに、思わず私の意識はそちらへ向いた。彼はそれを素早く察知すると、後で買おうね、と言ってくれた。甘いものは苦手なくせに。
買い物を終えると、私たちは最後に買ったたい焼きを近くの公園で食べることにした。風は少し肌寒いけど、春の日差しは暖かい。自動販売機でお茶を買うと、ベンチで寄り添うようにして、私たちは焼きたてのたい焼きを食べた。目の前では、小さな子供たちが楽しそうな声をあげて走り回っている。砂場で遊んでいる子もいれば、勢いをつけてブランコをこいでいる子もいた。その様子を、彼は目を細めて眺めている。
「子供はすぐに大きくなるな」
ぽつり、と彼は呟くと、小さく笑い、背を丸めてお茶をすすった。私はそんな彼の姿を見つめていた。幾分寂しそうな横顔。
彼は私の視線に気付くと、半分ほどになった手元のたい焼きを示し、要る? と言ってきた。その時、私の分はもう平らげてしまっていた。彼を見つめていたのは、たい焼きが欲しいからではないけれども、私はその好意をありがたく頂戴することにした。
手渡されたたい焼きが無くなり、手元のお茶も飲み干した頃、私たちはベンチから立ち上がると、もと来た道を歩いた。私の手は、彼の体温ですっかりと温かくなっていた。
家に戻った私たちは、部屋の細かい整理をした。
いくら引越し屋さんが収納までやってくれるとは言っても、あくまで大雑把なもので、本棚や小物などは、やはり自分たちの手で最後を仕上げたい。私たちは分担して、それぞれ違う場所を受け持つことにした。私はどうしても食器を直したくて、キッチンへと向かった。
しばらくすると、キッチンにいた私のところへ、リビングから彼の声が聞こえてきた。どうやら私を呼んでいるらしい。
「どうしました?」
彼は本棚を整理している所だった。来てみろという風に手招きすると、一冊の古い本を見せてきた。
アルバムだった。
「懐かしいなあ。こんな頃があったなあ」
アルバムには、出会った頃の私たちが、白黒の景色の中で微笑んでいた。途端に私の胸に、その時の光景が色鮮やかに蘇ってきた。
「本当ですね」
私たちは、部屋の整理もそっちのけで、思い出の詰まったアルバムに見入った。
結婚式の写真。出産の時の写真。ページをめくる度に、二人が過ごした日々が思い出される。
「本当に子供はすぐに大きくなるもんだ」
彼は感慨深げに言いながら、アルバムのページをめくっている。
アルバムは年が進むと私たち二人の姿はめっきりと減り、子供たちが大きくなっていく様子の写真が目立つようになった。私たち二人が父親と母親として過ごした日々がそこにはあった。
「今度、孫を連れて子供たちが遊びに来るって、言ってましたよね」
「ああ。僕らが新婚みたいに若返ったって、驚かせてやろう」
彼は、悪戯っぽく笑った。最後のアルバムのページには、孫と一緒に私たちが映っている写真があった。
そう。私たちは結婚してもう五十年。私はおばあちゃんで、彼はおじいちゃん。
子供たちはみんな結婚し、孫までいる。長年同居していた長男家族が新しい家を建てるのに際して、私たちも住み古したマンションを出て、二人だけで新生活をしよう、と決めたのだった。
子の面倒にはならず、年を取った二人だけで暮らす。当然、皆は反対した。何かあったらどうするのか、と。でも私たちは残りの人生を、二人だけで過ごしたい。そう思った。そう、まるで恋人同士のように。出会った頃の、あの時のように。
人生はあとわずか。だからこそもう一度、二人だけの時間があってもいいはず。恋人である時間があってもいいはず。彼がそう言ったときには耳を疑ったけど、やっぱり私は嬉しかった。
私たちの初恋は、まだ続いているのだから。
「そうだ、写真を撮ろう。この家に越してきた記念だよ」
彼が突然言い出した。もちろん、私は大賛成だった。桜の花びらが舞う玄関へ出ると、三脚とセルフタイマーで二人並んで写真を撮った。
「これからも、ずっとよろしくお願いします」
「ああ。これからも、ずっとよろしく」
一人になってみると、小さな家だと思っていたのが随分と広く感じるものだ。彼女と二人だけの時間は思ったよりも短いものだった。
僕は一人、真っ暗なリビングで、久しく口にしていなかった酒を飲んでいる。リビングの窓からは、去年と同じように、きれいに咲いている桜が月明かりに照らされているのが見えた。
新しい家で二人で暮らそう。そう言ったのは僕だった。それは、残されたわずかな時間を、どうしても彼女と二人だけで過ごしたかったからだ。
彼女は癌だった。
それが分かった時には、もう手の施しようもなかった。何の病気なのか知りたい、という彼女の意思を尊重して、その言葉を二人で聞いた。
はじめ僕には、医者が言っていることの意味が分からなかった。頭の中でその言葉を何度も繰り返して、ようやく理解できた。そして、ただただ狼狽した。どうしても信じられなかった。悪い冗談だ。嘘に決まっている。夢ならば早く覚めてくれ、と。
だが、そんなうろたえる僕に、彼女は微笑みながら小さく首を横に振った。そして、僕の震えるこぶしにそっと手を置いた。
温かい手だった。いつもは冷たいはずのその手が、僕にはとても温かかった。その温かさを通じて、彼女が僕の心に語りかけてきた気がした。
――大丈夫。私は急にいなくなったりしないわ。
そう言っているようだった。僕は知らずに泣いていた。
涙が乾いた頃、僕は決心した。残された時を、僕は彼女とずっと一緒にいようと。一秒でも無駄にせず、二人でいようと。
彼女との別れの時。
無機質な病室で、彼女はわずかに目を開けると、弱々しく僕の手を握った。僕は夢中でその手を握り返した。
彼女はもう話すことはできなかった。ただ、薄く開けられた目は、微笑んでいるように見えた。
その時、僕は彼女に何か言ったか覚えていない。ただただ名前を呼んでいただけだったかもしれない。でも、彼女の最後のその笑顔だけははっきりと覚えている。
僕は君を幸せにできただろうか。僕は君を愛しぬけただろうか。些細なことで言い争いをしたり、喧嘩をしたりしたことばかりが頭に浮かんできた。ただただ申し訳ない思いでいっぱいだった。もっと一緒にいたかった。もっと二人でいたかった。
何も言わないまま、やがて彼女は静かに目を閉じた。
僕は半分ほどになった酒のグラスをテーブルに置いた。リビングにあるクローゼットの前には、彼女のワンピースがかかっている。この家へ越して間もない頃、街へ出て購入したものだ。今年ももう少し暖かくなったら着られるね、と話していたのだが、彼女が再び着ることはなかった。言い知れない寂しさが胸に溢れてくる。
彼女はどんな思いで逝ったのだろう。最期の言葉は聞けなかった。
僕はその答えを探すかのように、本棚からアルバムを取り出した。どっしりとしたアルバムの中に詰まった、出会ってからずっと二人が歩んできた記録。一年前にこの家に越してきた日、二人でこうして写真を見ていた事がまるで昨日のことのように思い起こされる。もう決して戻らない、幸せに彩られた日々。室内は暗かったが、アルバムからは、ぱあっと暖かく心地よい光が溢れてくるようだった。
しばらくの間、僕は無心でページをめくっていた。
「懐かしいなあ。こんな頃があったなあ」
一人つぶやく言葉に、返事はない。
アルバムの最後のページには、ポケットに収められず挟まれたままの写真があった。この家に越してきた日に二人で撮った写真だった。玄関の前で、彼女が、僕が幸せそうに笑っている。
その時、花柄のカーテンが揺らめいたかと思うと、庭の桜の花びらと一緒に春風が吹き込んできた。その風にふかれて、僕の手元からその写真がひらりと舞った。
僕ははっとした。
足元に落ちたその写真の裏には、彼女のきれいな文字が並んでいたのだ。その上には吹き込んだ桜の花びらが数枚、まるであしらわれたかのように散っていた。春風が運んできた手紙のように。
――最後の時間を二人で過ごせたのは私の人生の宝物です。永遠の初恋をありがとう。
次第に文字は涙でぼやけていったが、僕は彼女を失ってから初めて微笑むことができた。
第4回べた恋企画参加作です。
ぜひとも他の作者様の作品もお楽しみ下さい。
最後に企画主催者様に、このような機会を与えて下さった事をあつく御礼申し上げます。