53:号笛
7月5日 1400時 【H.M.S.カシハラ/左舷格納庫】
エリン・ソフィア・ルイゼ・エストリスセンは、自らの『旗』――第4皇女旗――を掲げる座乗艦、H.M.S.〈カシハラ〉の左舷格納庫をゆっくりとした足取りで進んだ。
――つい1ヶ月ほど前、ガブリロ・ブラムに連れられた彼女は、ミシマ・ユウら星系同盟航宙軍の士官候補生を頼り〝航宙軍艦〟だった〈カシハラ〉のこの場所でツナミ・タカユキ艦長代理に迎えられた。
いまその場所でエリンは、今度は候補生らに送られる。
離艦に用いる接舷航宙機動艇に架かる舷梯までの導線の両側には、乗組員が整然と堵列していた。
艦の航行のために各部署に残した最低限の人員を除く全員――元候補生13名、技官1名、そして帝国宙兵隊10名――が並んでおり、彼女が一緒に離艦することとなった8人の民間人と共に、随員に選ばれたことに不承不承従うアマハ・シホ上席宙尉と並んで姿を現すと、先ず艦長のツナミと副長のミシマが挙手の敬礼で迎えた。
ほぼ同時に、現在は士官となった候補生らが一斉に姿勢を正す敬礼をする。全員が通常礼装を着用し、凛々しくも若々しい顔を並べていた。
エリンは例によって微笑し〝ただ頷く〟ことで答礼とし、挙手を降ろした艦長へとゆっくりと進んだ。敢えて副長の方は見なかった――。
見れなかった。そのミシマも、初めて会ったとき同様のあの柔らかな表情を浮かべているものの、その目線を向けては来なかった。
懐に抱いた〝銀時計〟が強く意識される。
――大丈夫…… わたしは、上手くやれる……。
エリンは自分を励まして艦長の方を向いた。
そのときの彼女の表情はとても彼女らしく、美しい表情だったとミシマは記憶している。
「皆さんの献身を感謝します ――艦長……」
皇女殿下のその言葉に、今回こそはミュローンのプロトコルを正確になぞってツナミは応えてみせた。
「過分な御言葉、恐縮であります ――皇 女 殿 下…… 最後までお供する事叶わず、申し訳のないことです」
そんな艦長に、エリンの方が儀礼にない言葉を交えて応えてみせた。笑みが浮かんでいた。
「艦長はこの後、〝おとしまえ〟をつけねばなりませんね」
先の艦内放送の事を言っておられることはすぐにわかった。
「あ……」 言葉を失い、ただただ恐縮するばかりとなるツナミ。「――は……」
エリンは柔らかく笑って――それはとても魅力的な笑みだった――艦長に、そしてその隣に立つ副長に聴こえるように、言う。
「わたしは〝わたしのおとしまえ〟をつけに、ベイアトリスへ参ります――」 迷いも不安も微塵も感じさせない言い様だった。「……艦長と〈カシハラ〉も好きように―― 皆さんが力を尽くすことを信じます」
〝ミュローンの乙女〟は『戦の女神』というが、〈カシハラ〉の二人はこのとき確かにそれを感じた。
ツナミは美しく見えるよう意識した敬礼をし、近い将来にミュローンの〝国母〟となるであろう女性に応えた。
「〝殿下の艦〟はお預かりしました。お任せください ――殿下の航宙に加護の在らん事を」
最後にもう一度、自ら任じた艦長に頷き返すと、エリンは堵列した乗組員の方へと向き直った。
静かだが堂々とした足取りで堵列した士官らの前へと進み出る。エリンは敬礼する彼ら一人一人に頷いて答礼としながら歩んでいった。
号笛が聴こえてきた。
彼女からはもう見ない位置からそれを吹いているのは、ミシマ・ユウだった。
――下士官の全てが離艦して不在の〈カシハラ〉で、副長のミシマが敢えて買って出たことだった。〝自分が一番うまく吹けるだろう〟と――。
事実、彼が一番美しくサイドパイプの音を響かせることができ、皇女が短い舷梯を上がり切って接舷艇の気密外扉の中へと消えるまで、途切れることなくその哀愁を帯びた音色を響かせた。
その号笛を背中越しに聴く殿下の姿に、皇女付きの軍事顧問として付き従うこととなったアマハ・シホは、誰にも知られぬように涙を堪える皇女殿下の頭を、そっと抱き寄せてやりたくなる。
――おそらく、もう二度とエリン・エストリスセンとミシマ・ユウは会うことは出来ないだろう……。
少なくとも私人として会うことを許されない世界に、彼女は戻る――いや、〝足を踏み入れる〟ことになる。
〝エリン殿下は好き?〟〝決して報われない想いだとしても?〟
そう訊いたとき、ミシマは応えた。
〝…ええ……〟 ――と……
そうなるだろうことを理解した上で受入れ、それでも悔いはないという言い様だったのを覚えている。
殿下の方はどうだったのだろう……。
――十八歳の少女にとってそれは……真剣な初恋だったかも知れない。
器用であることに慣れた、ほんとは不器用なままで在りたかった若い魂……。
それがアマハが感じていたエリンという少女であり、そしてそれはミシマ・ユウにも感じたことだった。
アマハは二人に、いつしか置き去りにしてきた自分と好きだったあの男の姿を見るような気がしていたのだ。
だからだろう……。アマハには、このよく似た二人を放って置くことが出来なった。
姉のように振舞える距離を取り続けた。――それも、もう終わる……。
やり切れないな……。
そう視線を逸らせた。
すると、そこにイセ・シオリの揺れる瞳があった――。
蒼ざめた表情が伏せられそうになるのを必死に持ち上げているのが判るその顔に、アマハは小さく肯いて返してやる。同じ並びにユウキ・シンイチの姿もあった。ソウダ・シュンスケはいま、機関長のいる機関制御室に居るはずだ。
三人を営倉から出した時に、思い詰めた顔で残して欲しいと直訴してきたシオリを、アマハが他の二人ともども艦長に執り成してやったのだ。
もっとも、艦長と副長の側にして〝来る者は拒まず〟の姿勢は既定であった。
今回の〝反乱騒動〟の首謀者であるフレデリック・クレーク議員その人がお咎めなし――その議員は、いまエリン殿下と共に艦を離れようとしている――なのだから、それに連座したという三人にいったい何の罪があろう?
それに、そもそも自分自身に〝おとしまえ〟を付けたいという者を、ツナミ・タカユキとミシマ・ユウには拒む理由はなかったのだ。
だから三人はいま、それぞれに仲間の赦しを得て〝ここ〟に居た。
シオリはかつての仲間の何人かから軽く無視をされることで――、
ユウキはミナミハラ・ヨウに一発を喰らう前にイチノセ・アヤから平手打ちを受けることで――、
ソウダはオダ機関長から無言で二人分の機関設備に関するチェックリストを手渡されることで――、
再び仲間として受け入れてもらうべく努力することになった。
アマハは、ひょっとしたらもう自分はここに戻って来れないかも知れないと、そんな物寂しい予感を胸に堵列の中の〝仲間〟達を見遣り、皇女殿下を追って歩みを進める――。
ミナミハラ・ヨウは、エリン殿下とアマハ姐さんの後に続くメイリー・ジェンキンスの豊かな黒髪の横顔へと視線を遣る。その彼女の顔がこちらを向いて目線が合ったとき、最後のメールの素気のない文面が気になっていたミナミハラは、彼女の表情が怒っていないことに心底安堵している自分が可笑しくもあり、幸せであった。
彼女へ、その場で二人だけが判る小さな笑みを向けると、すぐにはにかんだ眼差しが返ってくる。
再び会えるだろうか……。
…………。
――〝会える〟と信じることにする。
少なくとも、もう一回目の奇蹟は起きている。一回でも起きるものなら、それは何回でも起きる。そう信じられないハズはないだろう……。
ミナミハラはそう想い、笑顔で彼女を見送った――。
情報支援室の自席のディスプレイ越しにキンバリー・コーウェルを見送っているマシバ・ユウイチは、画面の中の彼女が、おそらくは自分の姿を捜してさかんに首を回しているその姿に、再び心が痛んだ。
艦を離れるエリン殿下を送り出すこの瞬間、艦の運航制御に掛かる人員を最小限に留めるのならば、艦の機器を集中制御することのできる情報支援室に要員を配置するのが理に適っており、そうであればこの部屋の主であるマシバがその任に付くのが道理だった。
だからマシバは格納庫から見送れなかった。
別に思うところがあったわけではない。ただ、この支援室への配置を副長から告げられたのが、舷門送迎の直前であっただけだ。
――また怒らせたかな……。
そう思いながら、マシバはキーボードを叩き始める……。
――キムがそのメッセージの着信を知るのは、エリンらと乗った接舷艇が艦を離れ帝国軍艦〈トリスタ〉との接触コースに乗った頃合いとなる。
そうして最後にガブリロ・ブラムが接舷艇の気密外扉の中に姿を消すと、堵列は解かれ解散となった。帝国宙兵隊はガブリロの後から接舷艇に消えていき、乗組員らは格納庫内から退避していく。出艇のため、これから格納庫全体の空気が抜かれるのだ。
ガブリロは接舷艇の気密内扉を潜って船室のシートに納まると舷窓を覗く。そこに、最後まで格納庫に残り接舷艇をずっと見上げるミシマ・ユウが見えた。
思えば、彼もまた〝ミュローン〟であったと思う。
このような事態でなければ、自分のような人間は決して彼のような人間とは相容れなかっただろう。
鼻持ちならない、というのではない。むしろ市井の人々の感じ方を理解している、と振舞う傲慢さの方が、正直好きになれなかった。
だが〝善い人〟たろうとする意志は黙っていても伝わってくる、そんな人物ではあった。そしてそれは、我々が担ぎ出そうとしたエリン・エストリスセンもまたそういう人物であった。
気付いたときには自分はこれまでの自分を――ただ他者を批判するだけの自分を――恥じていて、そんな〝生き方〟を変えようと足掻くことになっていた……。
――オトシマエと言ったか? 私もまた、そのオトシマエとやらを付けなければならないな……。
舷窓の先の小さな人影が、最後にもう一度敬礼をして踵を返した。
ガブリロもまた、心の中で敬礼をして、勝手ながら約束している。
エリン・エストリスセンを、私は私のできることで支え、お護りする、と――。
* * *
エリン・ソフィア・ルイゼ・エストリスセンは、帝国宇宙軍大佐ガブリエル・キールストラ指揮する帝国軍艦〈トリスタ〉へとその身を移した。
皇女の随員はフレデリック・クレーク、アマハ・シホ、ガブリロ・ブラム、そしてメイリー・ジェンキンスの4人であり、一緒に5人の民間人――マシュー・バートレット、キンバリー・コーウェル、ビルギット夫妻、ベッテ・ウルリーカ・セーデルブラード――が艦を離れた。
同時に、装甲艦〈アスグラム〉から移乗してきた宙兵隊12名も、皇女の警護のため〈カシハラ〉を離れている。
彼らはこの後、巡航戦艦〈トリスタ〉の5パーセクの跳躍性能を活かし、一路、帝国本星を目指す――。そこには、一足先にベイアトリスに入ったキールストラの〝盟友〟カール=ヨーアン・イェールオース代将が待っているはずである。
一方〈カシハラ〉は、『作戦行動中行方不明』となったシンジョウ・コトミとアマハ・シホを除く16名の士官と、技官3名、艦医のラシッド・シラ――彼は航宙軍の軍歴があり、民間人の中で唯一人残ることを許された――の20名で、『自由回廊』の北の玄関口であるヴィスビュー星系を目指し、隣接するコーダルト星系へと跳躍することとなる。
様々な傍証から、もはや〝皇女殿下の座乗艦〟という盾の効用は失われていると考えられた。カルノー少佐指揮下の〈アスグラム〉宙兵隊もいなくなった。接舷されれば一溜りもなく制圧されてしまうだろう。
状況は不利である。
それでもツナミ・タカユキは自らの指揮艦を前進させることにした。
〝表向き〟の理由は、皇女殿下が帝国本星へ辿り着くに際し、本星系の帝国軍戦力を誘き寄せることで減殺する必要があること。――そこにもう少し政治向きの理由を付け加えるなら、この後の星系同盟の発言力を少しでも強化するための〝見世物〟として、何らかの戦果が必要であったこと……。
でも〝本当〟の理由は、自分自身が〝納得したかった〟からだ。
――〝落し前〟を付けたい……。
航宙軍人として――本星の〝本意〟を忖度してみせた結果とはいえ――命令に背いてまで艦を飛翔させてきたのだ……。
何かをやったのだという〝証〟が欲しかった。
つまらない意地なのかも知れない。ここまでの旅路で失ってしまった、〝失われなくてもよかった命〟に対して、果たして申し訳が立つことだろうかと、そう思わないでもない。
それでも、ここで終わりにしたのなら、何も残らない気がした。
――ミュローンが割れる中で、王党派の影に埋没し、この航宙の真実が失われるくらいなら…… 〝始めからやらなければよかった〟と、そう思う日が来るのは嫌だった。
それじゃコトミは浮かばれない。可哀想だ……。あの大桟橋の子だってそうだ。
ミシマは、皇女殿下の顔から本当の表情が失われれば、この先の人生を生きる意味を失くすだろう……。ベッテ・ウルリーカだってそうだ。小さな心に刺さった棘に、いつまでも苛まれることになる……。
同期の仲間たちも、癒すことのできない何かしらの傷を負って、ただ退場するというのは嫌なはずだ。
それじゃ負け犬だ。そんなものは願い下げだ。
――だから皆、残ってくれたんじゃないか……。
〝皇女殿下の艦〟〈カシハラ〉は、この艦だけが行える戦い方で、『新女帝』の闘いを援ける。
――いま、囮となることは、この艦にしかできないことだからだ。
青臭い感傷だ……。
〝若さ故の一時の熱情だ〟――と、他人は言うだろう。
それでいい。
なぜなら、自分たちは〝若い〟のだから――。
自分の若さを信じることも必要だと学んだ青年艦長は、もう迷うことをせずに艦に前進の指示を出す。
そうして、一時の間舳を並べて走った〈カシハラ〉と〈トリスタ〉の二隻は、やがてそれぞれの軌道へと別れていった。
…第4部(最終部)『そして旅は終わり、物語となった……』へ ――




