2:時代という舞台の幕が上がる…
6月6日 0630時 【第一軌道宇宙港/住居エリア】
その日の明け方――。
少女は第一軌道宇宙港を取り巻く住居エリアの片隅から天頂の宇宙を見上げていた。
この港街の朝の景色は、人工的ではあったが確かに美しかったし、好きだった。
いつもの朝と同じように紫がかった空の中にオレンジ色の光が広がってゆく様は……例えそれがコンピュータグラフィクスの補正の結果だったとしてもやはり美しく、この自由都市の空気は、少女には好ましいものに思える……。
少女は思った――。
ミュローンのわたしがそう思うのは、既に人生の半ばほどを祖国から離れて育っているからだろうか……。でも、ここにはもう、居られなくなるかもしれない……。
風が――、人工の風が頬をゆるりと撫でていった。背後から声が掛かった。
よく通る声が耳に飛び込んできた……。
「ここへ来られたと言うことは――」
目線を向ければ繊細な面差しの若者がいる。その慇懃な声には聞き覚えは無かったが、彼の名は知っている。〝黒袖組〟のガブリロ・ブラム――。一月ほど前から数度、連絡をもらっていた。
「――…考えて頂けたようですね。エリン・エストリスセン」
少女の方は、そう言った彼の他に人はいないかと無意識に周囲の気配を探っている。
誰も居ないことを確かめると、少女は静かに口を開いた。
「困ります…… そのようにその名を口にしてもらっては」
少女がそう言うと、若者――ガブリロ・ブラムは居心地の悪そうな表情になって応える。
「失礼…… 不用心でしたか……」
「あなたの身の安全のために言っています」
それでガブリロは、ハッと、神経質そうな顔で周囲を窺った。おずおずとした態になって言う。
「あ… その……警護の者は――」
「心配はいりません。振り切って来ましたから…――巧く撒けたと思います」
そう言った少女をガブリロは疑わし気な目で見る。少女の方は心のうちだけで息を吐いたようだった。
少し、根競べのような間が二人の間を揺蕩う。
まだ暁の闇の名残りが周囲を薄暗く包んでいたが、もう間もなく、ここも明るくなる。
「まぁ、いいでしょう…… それでは――」 しばらくしてようやく少女の言葉を信じたのか、ガブリロ・ブラムが口を開いた。「――…そろそろ、行きましょうか?」
いよいよ覚悟を決めねばならなくなった少女は、気付かれないように小さく息を吸った。
「ええ……」 少女は覚悟を決めた。「行きましょう。案内を願います」
後年、少女――エリン・ソフィア・ルイゼ・エストリスセン――は思い返している…――。
そう……その時に、時代という舞台の幕が上がったのだ……。
それは悲劇だったのか、喜劇だったのか……。
わたしの役回りは何だったのか……。
その時のわたしは、道化者の差し出した手を取って、ただ駆け出すばかりだったけれど……。
6月6日 0800時 【第一軌道宇宙港/住居エリア】
宙港の警備隊基地を経由し、ようやく投錨中の練習艦〈カシハラ〉に直通回線を繋ぐことができたミシマ・ユウ候補生准尉は、受話器越しに現況を交換していた。どうやら艦には正規クルーがいないらしく、通話の相手は同期次席のツナミ・タカユキ准尉が出たのだった。
「じゃ、艦長以下全員がいないんだね?」
『――ああ。副長も各分隊長も皆不在。機関長も宙港との折衝で艦を下りてる……、幹部士官が丸ごと不在だ。こんなことってあるか? 普通――』
回線状態が悪く個人情報端末が使えないため街区の通話端末を使っている。――街区の端末は固定回線だから回線状態も少しはマシだからだ。
受話器越しのツナミの声音から彼の不機嫌そうな表情が想像された。そもそも星系自決権を求めて回廊中の運動家が集まって来ていたシング=ポラスに、練習艦とはいえ航宙軍の艦艇を入れたのが間違いだったのだ…――ツナミの声はそう言っていたが、ミシマもそう思ってはいる。
そのツナミが、苛立ちを隠し切れぬ声音で続けた。
『――ともかく、状況が全く解らん。『氷姫』が主機に火を入れた方がいいんじゃないかって言いだした――アマハの姐さんも同意してる……――』
「火を入れるのかい? 候補生だけで?」
ミシマのその問いに一瞬躊躇うような間があった。無理もない。戦闘でもないのに指揮命令系統が喪失するなんてことは、そうそうあるもんじゃないだろう……。
『――ああ……』
少し間の置かれたツナミの肯定の声を聴きながらミシマは、候補生同期首席――卒業席次1番の自分がこの状況で練習艦を離れたことは、迂闊なことだったかもしれないと思い始めていた。
「その方がいいんだろうね」
『――だと思ってる…… ともかく、帰ってこい――』
機関の始動に同意した途端にツナミの声音が軽くなった。恐らくツナミは、ナンバー3のアマハ・シホ准尉の同意があった時点で機関始動を指示していたろう。わかりやすい男だ。
「了解した。なるべく急いで帰艦するよ」
『――〝至急〟、だ。このままじゃ暴動に巻き込まれるぞ』
それに堅物でもある。
「わかったよ。至急、帰艦する」
しっかり言葉尻を訂正させられた。
ミシマが受話器を戻すと、傍らで覗き込んでいたイツキ――ハヤミ・イツキ候補生准尉が訊いてきた。
「――何だって?」
軍人らしからぬロングヘアが軽薄な印象を与えてはいるが、こう見えて卒業席次は4番で、航路を手繰らせれば頼りになる男である。その肩越しにマシバ・ユウイチ候補生准尉の落ち着いた顔も見える。
「艦に戻ろう。主機に火を入れるらしい」
ミシマは二人に言った。
「状況は?」 もう一度マシバが確認してくる。ハーフリムのメガネに人口の陽の光が当たるとハイライトが入った。「――何か動きがありました?」
「わからない。でも、ともかく帰艦した方がいい ……〈カシハラ〉は現在、ツナミが指揮を執ってるらしい」
「タカユキが⁉」
おかしそうに破顔したイツキが声を上げると、殊勝気に顔を曇らせたマシバと顔を見合わせる。
「そんな顔しちゃダメですよ……」
マシバは卒業席次の8番ながら技術科のトップで、イツキと共に艦の幹部士官役を務める優秀者でもある。少し年少なのを気にして年長の者に敬語を使う癖があった。
その時、三人は振動で地面が大きく揺れたのを感じた。自然と周囲に視線がいく。大通りを埋めるデモの人波に動揺が広がってゆくのが嫌な感じだ。
「それが賢明かもしれないな……」
イツキが言った。その表情は状況が悪い方へ転がる予感に曇っている。
「――確かにヤバいぜ、これは……」
6月6日 0800時
【第一軌道宇宙港/学生街 メイリー・ジェンキンスの下宿】
「じゃあミュローンは第一宇宙港の自由都市を占領する気なのかしら?」
その日の正午前。メイリー・ジェンキンスは、大学にほど近い下宿の自室で慌ただしく荷造りをしながら同居人のキンバリー・コーウェルに訊いていた。
「わっかんないよ、そんなこと」
屋根裏部屋へ立てかけた梯子から滑り降りてきたキムは、彼女の顔を見返しながら言った。「――そーいうことは、メイリーのお父さんからの情報の方が確実でしょ?」
しれっとそう言う彼女に他意のないことを解ってはいるものの、父の名が出てきたことでメイリーの気分は憂鬱なものとなる。
メイリー・ジェンキンスは政治家――…というより政治運動家の娘であった。
偉大なる『クリュセの父』、自治権獲得運動の『闘士』――ミカエレ・ジェンキンスの愛娘であるということは、彼女にとってはもはや苦痛なのである……。
そんなメイリーの心境を知ってか知らずか、メガネの下のキムの童顔――もっとも彼女はまだ17歳だ――は小机の上のノート型端末に向けられ、その女の子らしいかわいい顔立ちに似合わぬ鋭い視線で画面の情報に意識を集中している。そこに映し出されている画像やら電文やらを目で追っていた彼女は、程なく溜息を吐いて画面から顔を上げた。
メイリーにはよく理解していなかったが、テルマセク当局の回線に侵入してるらしい。
荷造りの片手間の小一時間で侵入したというのだからたいしたものである。キムは端末を回線から切断しながらメイリーに状況を説明してくれた。
「なんか警察回線も情報、更新されなくなってる…… これって……本格的な攻撃… 受けてるっぽい」
「ミュローンから?」
メイリーが問うと、キムは片方の肩だけをすくめてみせた。
「――ともかく、港湾エリアへ行きましょ」 メイリーは覚悟を決めたようにスーツケースの把手を掴むとキムに言った。「お父様はすぐにここを離れなさい、って言ってた……」
二人が廊下に出ると、すぐにアンナマリー・ムーフォゥの姿勢の良い姿が目に入った。
彼女はミカエレ・ジェンキンスが付けてくれている私設警護で、キュートな顔をしているけれど鋭い目が印象的な女性である。
メイリーはアンナマリーと目が合うと、小さく頷き合って階下へと降りていく。
下宿の玄関へと廊下を抜けしな、下宿の女主人、マクマホンさんに声を掛けた。
マクマホンさんはダイニングで公共放送のチャンネルを見ていた。緊急の特別番組がステーション各所で同時多発的に起こった暴動を報道していた。
メイリーが声を掛けると。マクマホンさんは途方に暮れた様子で言った。
「ああメイリー、ここを発つのね。そう…… 早い方がいいわ」
「マクマホンさん……」
短く交わした抱擁の後、女主人のほっそりした身体のあまりの頼りなさにメイリーは訊いていた。
「これからどうしますか?」
わからない、と女主人が首を振ったその時に、遠くからの振動を拾ったのか小さなダイニングテーブルが動いた。これまで経験のない強い振動…――ひょっとしてこれは爆発かしら、とメイリーは思った。
そして怯えた女主人の目を見た次の瞬間には、メイリーという少女は言っていた。
「一緒に行きましょう、マクマホンさん。宇宙港まで行けばクリュセまでの宇宙船に乗せてもらえると思います」
メイリーの目を見たマクマホンさんは頷く。そして身支度のため少し待っていて欲しい、とダイニングを出ていった。
肯いたメイリーにアンナマリーとキムも頷いてくれている。
いくらもしないうちに、マクマホンさんが手荷物だけを纏めて戻ってきた。
メイリーはこの時に決めていた。
私は私の出来ることをしようと。
何人かでも一緒に行動することで、心細い思いをしないですむかもしれない。
6月6日 0830時 【第一軌道宇宙港/住居エリア】
「クソっ。まったく動かない……なんでこんな……」
一向に進まない車道の車の連なりにガブリロ・ブラムは最初こそ困惑するばかりだったが、さすがにいまは苛々とした表情で車載のナビゲーションシステムを操作している。住居エリアの主要通路はどこもかしこも渋滞しているようで、港湾エリアへはとても辿りつけそうになかった。
「あなたも〝黒袖組〟なのでしょう?」
後部席のエリンはずっと冷静な声だった。
「確かにそうだが……こんな話は聞いていない」
ガブリロは面目ないという顔をして見せはしたものの、すぐに理不尽なものを感じている若者の顔になって反駁した。
そもそもこれは自然渋滞ではなく、隣接する星系国家スルプスカが昨年暮れに連合により併合され帝政連合領となったことへの抗議デモに端を発する騒擾事件の影響だった。
急進的な星系自決を求めたスルプスカに対し帝政連合は軍事介入し、『国軍』による4年間の占領を経て併合が宣言されたのが去年の事である。この間、隣接するシング=ポラスにはスルプスカから逃れてきた難民だけでなく、自治獲得・権利獲得の運動家が多く集まり抗議運動を展開していた。
ガブリロ・ブラムの繋がる〝黒袖組〟とは、それらの中で最も過激な主張をしている組織の一つである。
難民による帝政連合政府への抗議が帝国内の各星系による自治獲得要求へと発展することを危惧する帝国当局ととそれに連なるシング=ポラス自治府の画一的で強圧的な対応に、デモという行動が市民を巻き込んだ暴動へと変容していくのには、後から考えても不思議なほど時間がかかっていない。
民衆が暴徒と化していく様――そのエネルギーとスピードは、〝黒袖組〟のシンパではあってもシング=ポラス自治大学で政治を学ぶガブリロには、到底理解を超えていた。
「降ります」
動かない車の列に見切りをつけるようにエリンは車を出てドアを閉めた。何か言ってくるガブリロをとりあえず無視し、デモの人の流れを縫うようにして港湾エリアの方に向かって進む。程なくガブリロが追い付いてきた。
「危険ですよ……エリン……」
エリンは足早に歩きながらガブリロに言う。
「車は動かない…… 港湾エリアへ行くのでしょう? 歩いた方が早いし確実です」
その時、遠くに火柱が上がるのが見えたと思った。それから人工の地面を震わす衝撃を感じる。エリンが目線だけでガブリロを向くと、彼は与り知らぬというふうな驚いた顔を左右に振った。
この時にエリンは、この頼りにならない男の話に迂闊に乗ってしまったことをはじめて後悔した。
視線を戻した先に治安警察の阻止線を見てエリンは足を止めた。上空に何機かのドローンが飛来し群衆に向かって何事かを呼び掛けている。警官隊と群衆とが衝突するのにそれほど時間はかからないと思えた。
「こっちへ……!」
ガブリロに鋭く云い、エリンは踵を返して手近な路地へと身を躍らせた。
*
「(きゃ――‼)」
路地から飛び出してきた少女に取り出しかけた懐中時計――祖母から贈られた骨董だ――を弾き飛ばされたミシマは反射的にそちらを見やった。少女はしたたかに打ったらしい鼻頭を押さえその場に足を止めていた。
前髪の揺れるショートヘアの少女は、見た所まだ十代だろう。その瞬間にミシマは、時計の繋がれた銀の鎖の伝える張力を忘れ、少女の楚々とした所作の中の品の良さに惹かれていた。
「失礼――」「――ごめんなさい」
ミシマと少女の声が重なった。遅れて路地から出てきた少女の連れの男の声が、その後に続く。
「――エリン……大丈夫か?」
男はミシマを見て息を呑んだ――と言うより、彼の着る航宙軍の制服を見て顔色が変わったようだった……。
「エリン…――離れるんだ……」
「おいどうした……?」
男のその挙動の余りの不自然さに、ミシマだけでなく数歩先で振り見やったイツキも不審な者を見る目線になっている。
ミシマは少女から連れの男、イツキ、それからまた連れの男へと視線を移していった。
「…………」
男はあからさまに及び腰ながら、警戒の目線でミシマを見返している。
場の空気を察した少女が口を開いた。
「兄は思想家なのです ――ですが過激なことをする人間ではありません」
鼻頭を押さえた目頭に涙の少女のその浮世離れした言葉に、イツキが軽い口調で応えるまで少し時間がかかった。
「えーと、それはつまり……、お兄さんは当局に目を付けられてはいるが、危険人物じゃーない、と?」
「力のない者が力を頼ることは、儚いことでしかないでしょう」
少女は顔から手を下ろすとそう言って頷いた。彼女のその碧い瞳の色はあまりに真摯で、この滑稽に過ぎる情景の中で一際説得力を持っているように思われた。当の男の方の顔色は真っ白だった。
一方のイツキは、少女の整った顔立ちが露わになると思わず口笛を吹いていた。
「――ならだいじょうぶ。俺らは航宙軍の士官候補生で『国軍』の軍人じゃーないから」
わざと軽薄な印象で言ったイツキは大げさに肩をすくめてみせた。――それからそれが不謹慎だということに気付いたような顔になって手を下ろす。
「ミシマさん、時計……」
そんなイツキを半ば無視したふうに隣のマシバに言われて、ミシマは鎖の先で揺れていた銀時計を懐に戻した。
そんな彼に少女は言った。
「航宙軍の候補生なら……宇宙船に戻るのですね?」
ミシマのみならず三人の候補生が見返す。少女はハッキリとした視線と口調で言った。
「わたしはエリナス・ブラムといいます」 そして兄だという男を指し……、
「兄のガブリロです。わたしたちは星系同盟の市民権を持つ学生ですが…――港湾エリアまでご一緒させて頂いても構いませんか?」
形の上でこそ問い掛けではあったが、微かにミュローン訛りのあるその少女の言い様は、強い意志を持った強要のようにも聞こえた。
この時には、臆することのない彼女の瞳にミシマは興味を覚えていた。