九
「わたくしは子どもではないもの。殿下に望まれるということがどういうことか、わかっているわ。そしてね、ロビン。きっといま、お父さまの頭のなかは打算でいっぱいよ」
「そんなことは」
「仮にも一族を統べる立場の者ですもの。複数いる娘のひとりを、それも嫁のもらい手もなかったような娘をよ、王弟殿下に嫁がせることができるとしたら、考えないわけにはいかないわ。年齢も見合うし、これ以上の縁談があるのかどうか、外の親類や他の貴族への影響はどうか、検討しないはずがないの」
困ったように笑って、「わたくしは平気だから、あなたも階下でゆっくりとお夕食をいただきなさい」と最後にささやき、ソフィアはよそいきの顔を装った。目指す部屋の近くに執事の姿があったのだ。
執事は、公爵と同年配だ。白髪の交じりはじめた髪をうしろになでつけ、ぴしっとフロックコートを身に纏った彼は、少し鋭い目つきでこちらを見た。
なぜ、おまえがいる。なぜ、お嬢様を抱き運んでいるのだ。瞳が雄弁に語っている。
ロビンが説明する間もなく、ソフィアが口を開いた。
「車椅子を早く乾かす術はなくて? 不自由だわ」
「善処いたします」
目を伏せて答え、執事は晩餐室の扉に手をかけた。
「旦那様とお客様はすでにお待ちです」
扉が開いたとたん、目に入ったのは、他より豪奢な内装と、派手好みの王弟がこちらを見て鼻白む顔だった。当然だろう。妻にと望んだ娘が従者とはいえ、他の男の腕に抱かれて現れたのだ。王弟の表情がまったく見えていないわけはないであろうに、ソフィアは突然の求婚をしてよこした客人にむかって、臆せずに微笑んだ。
「お待たせいたしました。車椅子の不具合がございましたの。不調法なところをお見せしておりますが、ご容赦くださいませ」
ロビンは王弟の背後から回りこみ、執事が席を教えるように引いた椅子へ、黙って足を進めた。王弟に背を向けたまま、ソフィアを椅子のうえに抱き下ろし、衣装の裾を少々整える。それから、執事と協力して、椅子を持ちあげるようにして前に出した。
ありがとう。声に出さずとも、ソフィアの目が言う。つい、微笑みを返したところで、王弟のむかいにいる公爵と視線が合った。しまったと思う間もなく、公爵の目が見開かれる。やはり、眼鏡ひとつでは顔立ちまでは隠しきれないらしい。
「あなたは──」
公爵の言及を恐れて口を開こうとしたロビンを最小限の動きで制して、執事が公爵に向きなおった。
「この者は、ロビンと申します。本日より、お嬢様の従者として参りました。騎士団より、紹介状が届いてございます故、身元も明らかです」
執事が口を挟んだことにも公爵は驚いたようだったが、そうした感情も、すぐに穏やかな笑みの裏へ隠れた。
「そうか、では、のちほど確認しよう」
あまりにあっさりとした反応のせいでかえって、背筋を嫌な汗が伝うのを感じたが、素知らぬふりをしてロビンは公爵に一礼した。その背に、機嫌の悪い声が届いた。
「騎士ふぜいが晩餐の席を汚すな。おまえごときの名など、知るだけ時間の無駄だ。用が済んだなら、早々に出ていけ」
ふりかえる。王弟はこちらを見ることもせず、顔をそむけている。その姿を意外に感じたが、いまはそのようなことを口に出すべき場でもない。ロビンは執事に従って王弟とは反対側、公爵のうしろを通り、先程とは違う出入口から部屋を抜けだした。
隣室に抜ける戸をくぐると、給仕たちがいまかいまかと出番を待っていた。給仕頭に手短に状況を説明し、執事は全体を見渡した。
「お客様には存分なおもてなしを。フーヴル・パルクの名に恥じぬように」
小さな声で士気を鼓舞して、執事はその場を給仕頭に任せ、廊下に抜けた。そのまま、廊下の隅にあるドアを開くと、ロビンを促した。
「食事を摂りに下りなさい。わたしも後からむかいます」
ロビンは使用人通路に下り立つと、人目がないことを確認して、胸ポケットを探った。襟飾りをつまみだし、元通りに紺の詰め襟につけたとたん、騒々しい声が耳を打つ。
「我が君ぃぃぃッ! このシフめとの約束をよもやお忘れですか! こたびのお忍びはおひとりでなさるとおっしゃるから、御身の安全確保のために、この襟飾りだけは身につけてくださるよう、あれほど、あれほどっ、お願いいたしましたのにっ。わかったとおっしゃったではありませんかあああ!」
「おい、ひとに聞かれるって。静かにしてくれよ」
そういえば、そんな約束もしたなと思いつつ、ロビンは周囲に目配りをする。こちらの会話は筒抜けで、声ぐらいは盗み聞いているのかと思いきや、存外、聞こえないものらしい。やはり、胸ポケットにしまいこんで正解だった。王弟の求婚など、シフに聞かれていた日には一大事である。
「とりあえず無事だ。安心しろよ。あとな、公爵が領地に戻ったぞ。それと、王都から客人が来ている」
「なんですとぉ? 公爵には顔は見られていないのでしょうな?」
「見られたし、たぶんバレた。晩餐が終わり次第、事情聴取されるかも」
あああああ、と嘆く声だけが襟飾り越しに響く。
「客人は、王弟のマーティアスだ。そっちとは、まだ顔を合わせてない」
おおおおお、と今度はうめき声が届く。
「我が君。これはおそらく、投了すべき局面です。隙を見て、直ちにお戻りください」
「悪いけど、それはできない相談だな。シフ、おまえの思ってる以上にこの屋敷の庭はだだっ広いし、人目につく可能性がすげえ高い。公爵にお願いして馬車をお借りして、外に出してもらおうと思ってる」
「……うまくいきそうな雰囲気なのですね?」
「五分だね」
ためいきをつかれ、ロビンはくちびるを尖らせる。
「公爵はあのとおり、食えない人物だ。でも、令嬢のほうはまるっきり違う。どうも、その、好意を持たれているらしい。だから、五分」
「…………。」
シフのうろんな表情が目に浮かぶような絶妙な沈黙だった。
「我が君、それはいつもの悪いクセではなく、ほんとうに好意を持たれていると?」
「──わかった。訂正する。男としてではなく、友人としての好意だと思う。きっとこれまで、海賊物語のことで話の合う人間がまわりにいなかったんだよ、彼女」
「そうした意味なら、あなたはうってつけですからね。もっとも、お立場自体はどちらかと言えば、海賊を討伐する側におなりですが」
シフのことばに、近づいてきていた式典を思いだし、ロビンは一気に憂鬱な気分になった。人前に出るのは堅苦しくて苦手だ。それに、式典に出るということは、すなわち、将来ががっちりと決まってしまうということでもある。
「海が好きだなんて、うっかりと父上に言うんじゃなかったよ」
「お嫌でしょうが、外せない大事な式典ですからね。これまでとは違って、気分が乗らなかったでは済まされませんよ。わたくしの命にかえても必ずや、出ていただきます」
重い発言に、ロビンはいまここでしゃがみこみたくなった。
「シフ、頼むよ。もう一回、襟飾り外させてくれ。令嬢とのやりとりだけは、見られたくないんだ」
「──はっ! まさか、手を出すおつもりではないでしょうね?」
「世間知らずの女の子に襲いかかるほど、鬼畜になった覚えはない」
ぷつん、と襟飾りを取り去り、また胸ポケットにしまいこむ。今度も抗議の声は聞こえた気がするが、シフの対応よりも、まずは腹ごしらえだ。長話で時間を空費してしまった。