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 部屋に引き取り、花瓶敷きを机に放る。窓辺の椅子までたどり着いて、ソフィアは呆然と目の前の本棚を見つめた。

 だれかにこの気持ちを伝えたい。共有したい。共感して欲しい。だが、それを見越して、父は他言無用と言ったのだ。ソフィアは気持ちをもてあましたまま、しばらくじっと椅子に腰をおろしていた。

 父から晩餐への同席を聞いたのだろう。着替えをするように侍女に促され、しかたなく寝室に移る。ベッドに腰を下ろしながら、ドレスを昼のものから宵のものに着替えた。

「車椅子はまだ乾かない?」

「ええ、明日晴れれば、明日の夕方には乾くと存じます」

 侍女の答えに嘆息し、重たくそれでいて華奢なドレスの生地に目をむける。杖を脇に挟んだら、よれてちぎれてしまわないか気が気では無い。

 瑣末なことを考えていたところへ、隣室の書斎から女たちの騒ぐ声がした。

「お嬢様!」

 ばん! と、勢いよくドアを開けて、下女もろとも寝室になだれ込んできたのは、ロビンだった。勢いあまって床に膝をつき、あわてて立ちあがる。そのさまを見て、侍女が眉をつりあげた。

「淑女の寝室に足を踏み入れるとは、何事ですか! わきまえなさい!」

 しかりつけ、追い出そうとしたのを、ソフィアは手で制した。

「ロビン、書斎で話しましょう」

 取ろうとした杖は、ロビンに脇から奪われていた。ロビンは怒ったような顔で何も言わずにソフィアを抱きあげ、書斎の椅子のひとつに運んだ。宵のドレスは肌の露出が多い。背に直接ふれるかたちになったロビンの手の熱に、びくりとする。

 鏡台から離れてしまうことに弱ったらしく、侍女は呆れた調子で問いかける。

「御髪はいかがなさるおつもりですか」

「適当に結ってちょうだい」

「しかし」

「あら、おまえも参加する? この新しい従者どのはね、海賊物語にとても詳しいのよ」

 そう言うと、侍女は勘ぐった自分を羞じたように、それ以上の主張は控えた。ソフィアは身支度を調えると、ロビンにむきなおった。

 ロビンはむすっとした顔をいっさい崩さずに、腕をくんで、文句を垂れた。

「まさか、いきなり長持に詰め込まれるとは思いも寄りませんでしたよ」

「悪かったわ。でも、おかげで叱られずに済んだでしょう?」

「暗くて狭苦しいし、暑いし、外の音も聞こえづらくて難儀しました。いつ、迎賓の間からひとが立ち去ったものかもわかりませんでしたしね」

 疲れた! と、ためいきをつき、ロビンは眼鏡を外し、前髪をかきあげた。確かに、きちんと整えられていたはずの髪もくしゃくしゃに乱れ、少し汗ばんでいるようにも見える。

 ソフィアは彼の面差しをみつめ、王弟殿下がロビンのように海賊物語に親しんでいるとは思えないなと考え、足元がなくなるような不安に襲われた。

「ねえ、ロビン。あれって、わたくし、王弟殿下に求婚されてしまったのよね?」

 ぽろりと、禁じられたはずのことばが口をついた。そのことばが、ロビンの表情を驚愕と憤りに染め上げるのを見て、ああ、長持のなかには聞こえていなかったのだと知った。

「求婚って、そんな話がいつのまに?」

「騎士の間にいるのが見つかった直後よ。娶ってやるって言われたわ」

 そう口にして、くちびるがしびれるような感覚があった。ソフィアは続けざまにこころのうちを吐露した。

「冗談だと思ったわ。でも、お父さまが。わたくしは一生、嫁ぐことなんてないと思っていたのに」

 すぐむかいにいるロビンにすがるように片手を伸ばす。筋張った手の甲に指が触れる。それがぎりぎりの距離だ。ロビンが身じろぐ。だが、振り払われることはなかった。

「ロビンみたいなひとが相手ならよかったのに」

「えっ」

 ソフィアのひとことに、彼は声をもらして、みるみるうちに耳まで赤くなった。

「おまえみたいに、好きなことをいっしょに楽しめるひとなら、いくらだっていっしょにいられるわ。過保護に世話を焼きたがるひとは苦手だし、頭ごなしにしか話せない居丈高なひとはもっと苦手」

 それにね、と、ことばを切って、ソフィアはロビンから手を離した。

「ロビンは、ふしぎだわ。わたくしのこころを覗いているみたいよ、どうしてわかるの」

「何がですか?」

 眼鏡ごしの瞳は、先程の照れを残したまま、それでもソフィアを見下ろしている。

「さっき、なぜ、わたくしを抱えて運んだの?」

「なぜって、当たり前じゃないですか」

「きちんと、理由をことばにして」

「ですから、ええと……、杖を使ったらドレスが傷みそうでしたし、袖のない服だから、肌だって直接、杖とこすれて痛いだろうと思いましたし」

 尻すぼみになりながら理由を列挙して、ロビンは意味がわからないという顔をしている。ソフィアはその姿をみて、つい、笑みをこぼした。

「あなたには、それがふつうなのね」

 ロビンは決して、ソフィアの足が不自由だからと抱きあげたのではなかった。

 ふだんであれば、女主人であるソフィアのからだにふれるなど、あってはならないことだ。だが、ふだんなら禁じられていることでも、ときには必要とされる局面がある。ごく自然に、無意識に決断を下せるロビンを、得がたいと、ソフィアは感じた。

 書斎の戸が外から叩かれる。食事の支度がととのったのだろう。ソフィアはロビンに目を向ける。

「もう一度、運んでくださる?」

 問いかけに答える腕は、すぐに背中に添えられた。



 ほんとうは、公爵や客人の前に姿をさらすつもりは、毛頭無かった。

 その気持ちに変化が生じたのは、『求婚』のひとことをソフィアの口から聞いたときだ。

 年齢はとうに妙齢と言ってさしつかえないうつくしい令嬢が、少年のようにはつらつと振る舞い、己の振りまく色香にも気づかずに幼い言動をくりかえす。ソフィアはまるで、明日には花開くことを知らぬ蕾のようだ。うっすらと緩んだ花弁の隙間から、馥郁としたかおりをあたりに漂わせていながら、咲き初める姿はだれも目にし得ない蕾そのものだ。

 王弟は、いまだ機を迎えていない蕾を無理にこじ開けようとしている。それも、親に打診することもなく、本人に直接声をかけるなど、公爵令嬢にすべき振る舞いとも思えない。

 ソフィアは軽んじられたのだ。そのことに、瞬間的に怒りが湧いた。

 王弟のことを、ロビンはうわさでしか知らない。実際には式典などで見かけたことはあるものの、ことばを交わしたことなどついぞなかった。相手は派手好みで軽薄な見た目ながら、中身は真面目な堅物であったことから、おまえとは大違いだと、父などからはよく言われたものだ。

 ロビンは黒髪が地味な印象を与えるし、お忍び好きのせいでおとなしい服装を纏うことが多い。そのくせ、行事や儀礼など堅苦しいことからは散々逃げまわってきたせいで、序列やしきたりを重んじるようなむきからはたいそうウケが悪い。その点、王弟は一分の隙も無い人気ぶりなのである。見るたび、あんなひとが兄弟にいなくてよかったと思ったものだ。

 その王弟がソフィアを軽く扱う理由が、いまひとつロビンにはわからなかった。社交界に現れないソフィアと、個人的な確執があったとは考えにくい。だからと言って、公爵と何かひと悶着あったなどとも聞いたことはなかった。

 ソフィアを慎重に抱きあげ、会食の会場へむかう。基本的にだれもいない廊下を歩きながら、ただ静かにからだを預けてくる令嬢が愛おしいと思った。まだ会ったばかりで何を考えているのだろうと、自分でも感じる。

 これだけ近くにいるいまであっても、星空を写したような瞳は穏やかに前をむくばかりで、ロビンの顔を見上げることはない。だから、一方的で自分勝手な感情なのだと、端からわかっている。

 許されることなら、額にくちづけて、彼女の動揺を慰めたかった。だが、それもまた、身勝手な欲望だと知っている。慰めるどころか、よりいっそう動揺するに決まっている。そうなれば、たちまち、親しみをもって遇されていたロビンであっても、王弟と同じく、ソフィアを脅かす存在へと落ちぶれてしまうのだろう。

「すぐに駆けつけますから、お食事がお済みになりましたら、呼んでください」

 晩餐のあいだだけ我慢すれば王弟から解放されるのだと言外に伝えると、ソフィアは初めて、ロビンの腕のなかから彼を見つめた。

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