七
城のなかで王族のような高貴な客人が通される場所といえば、迎賓の間をおいて外にはない。ソフィアは、その迎賓の間の続き間である騎士の間にロビンを連れて潜りこみ、そっと息をひそめていた。
大昔であれば、護衛のための騎士を連れて訪問してくる客人も多かった。そのため、騎士が控えるための場所が必要であったのだろうが、平和ないまの世にあって、騎士の間はもはや、使われることのない部屋となっている。それは、この城に限らず、どこでも共通のことであろう。そして少なくとも、この城では、騎士の間はほとんど物置と化していた。
騎士の間は、もともと大人の男がふたり横たわればいっぱいになってしまうほどの広さしかない。その部屋に、車いすの通行のために邪魔になった調度品、花瓶や帳などの季節ごとの装飾のための品々などがところ狭しと収納されている。ソフィアは杖が割れ物に触れないように気をつけながら、置かれた長持に腰かけ、迎賓の間側の壁に耳を当てた。ロビンも迎賓の間に続くドアを挟んだむかい側の壁に耳を押しあてると、目を閉じる。
はじめに頬に響いたのは、ドアの開け閉めの振動だった。
「こちらのお屋敷は、実に手入れが行き届いておりますな。特に庭はすばらしい。庭園の名に恥じぬものです。エンマルク公爵家のフーヴル・パルクといえば、貴族のあいだでも、ひとめ目にしてみたいものよと、たびたびみなさまの口の端にのぼっていましたが、その秘密の園を今日、拝見できて、誠に光栄です」
大仰な口調のわりに、若々しい声音だった。
「光栄などと畏れ多い。我が庭が殿下のお眼鏡にかなったならば、幸いでございます」
先程の声の主は、殿下と呼ばれる立場の人間なのだ。ソフィアは身をひきしめた。
「もうひとつの『秘密の園』も、滞在中に目にすることができればと願っております」
「もうひとつの? ……はてさて、なんのことでしょうか」
明らかにわかっているようすながら、父は相手の問いをはぐらかす。
(もうひとつの秘密の園? いったい、何の隠喩なのかしら)
首をかしげるソフィアを、ロビンはなぜか青い顔をして、まっすぐに見つめていた。声には出さず、身振りで「どうしたのか」と問いかけると、彼は近づいてきて、ソフィアの前に膝を折った。そうして、ソフィアの手を取り、てのひらを指先で撫でた。
「……?」
はじめは、くすぐられているのだと思った。だが、二度、三度とくりかえされるなかで、意図を理解する。文字だった。声を出せば見つかってしまうからと、ロビンはソフィアのてのひらに文字を書いて、何事かを知らせようとしていた。
(おうていが、ねらう、あなた。『王弟があなたを狙っている』?)
単語を拾って、文章を読み解き、ソフィアは隣室の客人が国王陛下の弟君であることを知ったが、自分が狙われている、の意味はわからなかった。狙うとは、襲撃ということか? ソフィアはなおも文字を書こうとするロビンの手をつかまえた。そして、問いかえそうとして、彼のてのひらを指でなぞったとたんのことだった。
「……っ!」
真っ赤になったロビンが大きく腕を払った。弾みで、立てかけていた杖が、かたあんと高い音をたてて床に落ちる。ソフィアはもとより、ロビンも目を瞠り、息をのんだ。
「おや? 何の音でしょうか。こちらから物音がしませんでしたかな」
王弟殿下がいぶかしげに声を上げる。その声を耳にして、ソフィアは考えるより先に、即座に行動に出ていた。
足音が近づいてくる。ドアが開けられ、明るい光が騎士の間に白く差し込んだ。
「おまえ、このような部屋で何をしているのだ」
父の声が動揺に震えている。足の不自由な娘を、他人に不用意に見られたからか。そのことに少し傷つきながらも、いま取りかかっている仕事をやり遂げようと、声を無視する。
ソフィアは騎士の間の床に腰をおろし、重い長持の蓋を両手でようよう持ちあげていた。かろうじて空いた蓋の隙間から、すばやく一枚の布を膝先に取りだすと、あたかも花摘みでもしていたような風情で、悠然と父と客人を見上げた。逆光で、どちらも黒い影にしか見えないが、薄く微笑んで、問いに答える。
「花瓶敷きが気に入らなかったんですの。伯母さまのお気に入りがここに仕舞われていたのを思いだして、取りに参りました」
平然と言いつのり、お邪魔をいたしましたようで、と、杖を手に取る。迎賓の間をよぎって立ち去ろうとしたソフィアを呼びとめたのは、王弟殿下のほうだった。呼びかけられてあらためて、ソフィアは彼のことを認識した。
明るい部屋で見れば、目立つ容姿の男性だった。やわらかそうな金髪は少し長めで、色白で細面、エメラルドに似た緑の瞳からは、猫のような気まぐれで人懐っこそうな印象を受けた。細身のからだを包むのは、紺色の軍服めいた衣装だったが、けばけばしいまでに金糸で縫いとりを施した上着は、明らかにホンモノの軍服とは似ても似つかない派手な仕上がりだろう。
気づかれないように品定めしてから、ゆっくりと腰を折る。
「ご歓談中、失礼をいたしましたこと、どうかお許しくださいませ」
「顔を上げよ」
身分差を強調するようにはっきりとした発音で命じられ、ソフィアは腹に力をこめて堪えきり、面を上げ、視線は伏せた。
「うつくしいな。公爵が掌中の珠とかわいがり、領地に隠すだけのことはある」
「恐れながら、ひとをお間違えでしょう。わたくしには妹が二名おりますので」
「公爵家の呪われし娘は、当代にひとりきりであろう」
どういう意味だろう。ソフィアは殿下の足元をただ見つめた。
「どうだろう、エンマルク公爵。社交界に出さぬのなら、縁談もあるまい? まして、呪われた娘を望む者も少なかろう。ひとつ、私が娶ってやろうか。ちょうど、妃を選ばねばならないのだ」
ことばだけは優しげだったが、その口調におぞましさを覚える。肌が粟立つ。
「……そのような話は、親が内密に進めるものでございましょう。先に娘を部屋に帰してよろしいでしょうか」
切りだした公爵は、返答も聞かずにソフィアに近づくと、手を貸しながら迎賓の間の外へと、娘を促す。その顔は青ざめて、ソフィアに添えた手は冷えていた。
「ソフィア、晩餐に同席しなさい。いまの一件は他言無用だ」
耳打たれて、かろうじてうなずきを返す。迎賓の間の扉が背後で閉ざされたとき、はじめて、自分の手が震えていることに気がついた。