六
来客。マーサのひとことで、ソフィアの気持ちはすっと落ち着いてしまっていた。
ほんとうは、父が王都から戻ったら、たくさん話したいことがあったし、このまま社交界デビューがないのであれば、かわりに各地を旅行したいと伝えてみるつもりでもあった。マーサにだけは、このことを打ち明けてあったのだが。
(今回の滞在期間には、お話はできないかしら)
半ば、諦めがあったのは、父の考えゆえだった。
基本的に父は、ソフィアを客人に会わせたがらない。娘が人目に触れることで、こころ無いうわさばなしの種になることを恐れているのだろう。見知らぬ他人のうわさごときで、娘のこころが深く傷つくものだと考えているらしい。そのせいで、来客中のソフィアは部屋にこもりきりだ。日課の散歩もできないし、父と食事を共にすることもなくなる。
うわさなんて、と、ソフィアは思う。社交界に縁がなければ、自分の風聞など耳に入らないし、たとえ侍女や弟妹経由で知ったとして、呪いを受けること以上にひどいことはない。
(今度のお客様は何日滞在するのかしら)
肩をすくめて、ソフィアはむくれる。
「サルゴウの凪ほどには、ならなければいいけど」
「サルゴウって、あの船の墓場のサルゴウですか?」
「ええ、そうよ。お客様って、気まぐれなんですもの。凪そっくりよ。ほんとうにいつ、ひきこもり生活が終わるかわからないのよ。ロビンが来るのがもう数日早ければ、『人魚姫』を読んで過ごせたかもしれないのに」
口を尖らせるソフィアをよそに、ロビンはいまひとつピンと来ないらしく、サルゴウの凪、サルゴウの凪と、口のなかでことばを転がしている。解説を施すべきかと悩んだところで、ようやく新しい従者は「あ!」と、小さく声を上げた。
「あれだ、食糧が尽きて泳ぐヤツ!」
その説明で通じる相手は、世の中にあまり多くないだろうと、ソフィアは口元に手を当て、くすりと笑った。
「そうそう、船を置いて泳ぐのよ、いちばん近い岸まで。何の解決もしないの。ただ逃げただけで」
辛辣に評してみせたのは、『海賊と姫君』の一幕だった。
サルゴウは、ロビンの言うとおり、船の墓場と呼ばれる海域だ。そこでは、現実にも時折、風が止まる。帆船にとって、無風ほど困ることはない。手で漕ぐにしても限度がある。そして、その凪は、朝凪夕凪とは性質が違い、いったいいつまで続くものかわからない。
「サルゴウの凪は、一度始まれば数週にも及ぶと言うわ」
ふつうの船は、数週間の凪を耐え抜く水や食料を積んでいない。周辺海域では、魚の影すら見当たらなくなると聞く。作中で海賊は、人質として連れていた姫君の楽天的な発言に対して、こうした現実をつきつけ、自分たちに訪れた危機をわからせる。
「船に乗らない海賊なんて、海賊じゃないわ。あの話では、海賊の部下は全員残らずいったん船を下りて、泳いだことになっているのよね。無理があるったら。いったいどこの世界に愛馬を戦場に置き去りにする騎士がいるのかしらね。海賊ものとして、信じがたいわ」
「考えてみると、あのあと、無くした船を取り戻すために積極的に努力するわけでもないんですよね」
「そうなの! クライマックスと同時に凪が終わって、船は潮の流れに乗って、偶然にも勝手に岸に帰ってくるでしょう。主人公の海賊のお頭は、姫君といちゃついて、彼女を悲惨な境遇から救おうとするだけで、海賊らしいことはほんとうに何にもしないんだから。たしかにね、船影が現れる瞬間の描写や、あのタイミングでの船の帰還、そして海賊との別れという筋書きは、感動的ではあるし、盛り上げ上手だとは思うけれど、やっぱりどう考えてみても、海賊ものとしてはいただけない!」
憤然と言い、ホラガイを侍女に手渡して、片付けさせる。
「ああ、もう、散歩ひとつできないなんて、不自由きわまりないわっ。お父さまは勝手よ。足のことを言われたくらいで傷つくような繊細な神経の持ち合わせは、わたくしにはないというのに」
愚痴をもらして、ソフィアはむくれて、ドレスの裾から覗くつまさきを見下ろした。
「……ねえ、ロビンはどう思う?」
ほんの少し裾を持ちあげて、膝下を空気にさらす。問いかけに不用意に振り向いたロビンは、ソフィアの足(と、ドロワーズの裾)を目にして、真っ赤になって顔をそむけた。
「ど、ど、どうって、何のことですか!」
「わたくしの足のことよ。よく見てみて。どう思ったか聞かせなさい」
美少女が自分から下着をみせるしぐさがどれほど淫靡で、健康な青年をどれほど刺激し、悩ませるものか。もちろん、そのようなことは、ソフィアは考えたこともない。ロビンは残像に苦しみ、眼鏡を外して手で目元を覆いながら、平静を装った声をしぼりだした。
「とても、きれいなおみ足だと」
「肉付きは?」
「にくづき……」
動揺に声が震えた。
白くてやわらかそうな肌だった。触れれば吸い付きそうな。そう口走りかけて、思いとどまる。
「細身ですが、体重を支えていないにしては、筋肉がついているように思います」
無難に答えると、そうよね、と、ソフィアはうなずく。
「わたくしの目にも、至って健康的な足に見えるのよ。それなのに、動かないだけでなくて、温冷の感覚も痛覚もない。歩くときも、上半身を使って振り子のように揺らしているだけですもの。腰から下にもう一本、生まれつき、杖がついているのと同じだわ。まったく不思議なものよねえ」
ふうっとためいきをつくと、ソフィアは窓の外をみて、あら? と、眉を寄せた。
「ねえ、ロビン」
「今度は何です。もう、スカートの裾は下ろしましたね?」
悲鳴じみた声で対応するロビンに、ソフィアはなおも声をかける。
「ロビン。お客様の馬車の紋章が見えるわ。あれは、鷲獅子ではないかしら」
「──何だって?」
ロビンはあわてて窓に飛びついた。目をこらすと、確かに鷲獅子の紋章がある。だが、ふだん見慣れた左向きに牙をむき、周囲を威嚇するような構図のものではない。右向きで、おとなしく寝そべっている。あれは、王への忠誠と服従を意味する構図だ。
「王の勅使でもいらしたのかしら」
「いいえ、お嬢様。右向きのグリフォンは、王家は王家でも、王位継承権第二位以下の者が使う紋です」
口にしながら、みるみる血の気が失せていくのを感じる。
「まあ、そうなの? おまえ、よく知っていたわね」
じゃあ、どなたがいらしたのかしら。初めていらっしゃるかただわ。
興味を惹かれたようすで、ソフィアは杖を手に取った。
「何をぼやぼやとしているの。行くわよ、ロビン!」
立ちあがるや、ソフィアは手でこちらを促す。
「行くって。待ってくださいよ。外に出てはならないと、マーサ様もさきほどおっしゃっていましたし、第一、お嬢様ご自身もそのように、」
「だから何だって言うの? わたくしの行動を決めるのは、わたくしよ。お父さまの許可がおりるかどうかは別の話だわ。お父さまがわたくしの足が動かないのを羞じていらっしゃるなら、羞じる必要がないことをお見せするまでだし、わたくしのためを思ってお客様と引き合わせないのならば、そのようなご心配はご無用だと示せばいいのよ」
つん、とした表情で言い放ち、ソフィアは歩きだす。数歩行って、部屋のドアまでくると、立ち止まる。
「……ああ、でも、見つかれば、おまえに累が及ぶのね、ロビン。それは困ったわ。わたくし、おまえのことは気に入っていてよ?」
この逡巡を渡りに船と、ロビンは主と並ぶ位置まで飛んでいき、説得しようと試みた。
「俺も、お嬢様のお側からは離れがたく思っていますっ」
「まあ、ありがとう。それでは、おまえにもついてきてもらうことにしましょう」
微妙にすれ違った会話を軌道修正する暇は与えられなかった。
口々に止める侍女を振り払い、ソフィアはドアを開け放った。琥珀色の髪を翻して左右を見回し、廊下の人通りを確認する。そうして、反駁しようとしたロビンにむかって、しーっと、人差し指をたてた。
瞳のなかの星々をなおいっそう輝かせて、ふふっと笑みかけ、ソフィアはささやく。
「心配しないで。だいじょうぶよ。何かあっても、わたくしがきっと守ってあげるわ」
廊下へ踏みだした背は小さいが、その足取りは確かで、頼りなさはどこにもない。ロビンの目には、自信に満ちた公爵令嬢の姿がいっそうまぶしく映っていた。