四
セリフを覚えてしまうほど慣れ親しんだ海賊物語は、読みこまれすぎて小口が黒ずんでいる。固い革製の表紙を開き、彩色された口絵に目をとめる。夕景のなか、海に浮かぶ海賊船を望みつつ、若い娘が岩に寝そべっている。娘の下半身には、二本の足のかわりに、青い魚の尾がついていた。第三章で海賊船を危機に陥れる半人半魚の魔性だ。人魚のうつくしい歌声に惹かれて船首をむけた先は浅瀬。水面の下には岩礁が待っている。近づいていけば、もれなく座礁するというわけだ。
この下りを読むときほど、人魚に怒りを覚えることはない。人魚は、人間を食べるためにおびき寄せるわけではない。ただ、歌で誘いこみ、船を難破させるのが楽しくてしかたがないらしいのだ。
「なんて性悪!」
口絵の人魚を睨みすえて、ソフィアは低く唸った。この性悪が、どうやって人間の王子と恋におちるというのだろうか。というか、王子と人魚が並んでは、見栄えが悪すぎやしないだろうか。
一般に流布する伝説では、この『宝島まで二千ファーリ』に描かれるのと同様に、人魚はひとびとの暮らしを脅かす存在として描かれている。うしろすがたや歌声こそ、うつくしい娘のようすを想像させるが、実際の面差しを見てみれば、魚のように顔の左右についた目尻はつり上がり、耳元まで裂けた口からは、錐のように尖った歯がのぞいているのだと言う。まったくもって、恋物語のヒロイン像とはかけ離れている。
エンマルク公爵家において、人魚の話は禁句だ。この家は、人魚に呪われたアデーレ妃の血を引くとされる旧い家柄だ。そして、その証として、いまも脈々と受け継がれているものがある。
ソフィアは杖を握りなおした。自分の両足にあらわれているこの忌まわしい症状こそが、古より『魔性の呪い』として公爵家の女性にのみ受け継がれてきたものだ。この呪われた両足のおかげで、エンマルク公爵家は数百年経ったいまでも、王宮内で一目置かれる存在であり続けている。
ソフィアが生まれる前に亡くなった伯母も、その伯母も。どの世代にもひとり、かならず、ほぼ切れ目なく、エンマルク家には己の足で歩けない娘が存在した。系譜をたどっていけば、特に記載がなくとも一目瞭然だった。
その女性が死ねば、次代の呪われた娘が生まれる。逆に言えば、新しい呪われた娘が生まれるとき、先代の娘の寿命は尽きていく。
伯母のときがまさにそうであったと、父は口惜しそうに言う。まだ四十にもならない伯母は、身重の義妹をよく散歩につれだした。妊婦は歩いたほうが丈夫な子が生まれるのだと、朗らかに笑って、車椅子を漕いだ。
大勢の侍女を付き従えて、のんびりと庭園のなかをめぐっているときだ。小さな石に義妹がつまずいた。伯母はあわてて手をさしのべた。それがいけなかった。均衡を崩した車椅子が転倒し、投げ出された伯母は頭をしたたか打ちつけた。その場では平気な顔をしていたが、翌朝、眠るように息をひきとっていたと言う。
数か月の後、義妹の腹から産まれたのがソフィアだ。
ソフィアの身に巣くう『魔性の呪い』は、何の罪科もない伯母の生命を喰らった。いつかはソフィア自身がこの呪いに喰われ、新しい赤子が呪いを引き受ける。次代の娘は、幼い弟妹たちか、ソフィアか、どちらかの子か孫であることはまず間違いない。万が一、次がソフィアの子であれば、それはすなわち、自身の死と引き替えに、呪われた娘が産まれるということだ。
『宝島まで二千ファーリ』を本棚へ戻し、窓の外にきらめく湖を見やる。
「海って、どんなものなのかしら……」
薔薇色のくちびるから零れたことばを、聞きとがめるひとはない。
公爵家の庭で、湖の小さな波に翻弄されるソフィアには、大海の荒波など想像もつかない。潮風はどのように香るのだろう。酔いを催す船の揺れとは? どこまで行っても縁の見えない海原とは? 深い海の色は、ほんとうにロビンの瞳のような色なのだろうか。
ああ、それどころか、この屋敷から出る日は、果たして来るのだろうか。
たとえば、伯母には配偶者がなかった。伯母は社交界にもデビューしなかった。家族のほかにはほとんど、だれの目にも触れず、ひっそりと生きた。
父は、いったい自分をどうするつもりだろうか。伯母のように、邸内で静かに息をひそめて暮らすことを望まれているのだろうか。
ソフィアは強くかぶりを振って、ふたたび杖を取り、窓へ歩みよった。錠を外し、外へ押すと、音も立てずに窓は開く。屋敷の壁をなぞった横風が、いたずらに窓から入り込み、琥珀の髪をなぶる。
ここから見る湖は遠い。それでも、一ファーリの三分の一の距離すらないことを知っている。二千ファーリは、たぶん途方もなく遠いのだろう。それほどの距離をたどらなければ、宝島になど着かないのだ。
「海が、見てみたいわ」
ふたたびつぶやいて、ソフィアはそっと目を閉じ、新しい風が頬をなでるのをじっと待っていた。
同じころ、屋敷の一角で佇む青年があった。
黒髪に海色の瞳、長身を従僕らしく地味な衣装で包んだ青年は、人目を気にしながら物陰に目を当て、声を低くした。
「見てるんだろ、シフ」
「はい、我が君。ここにおりますよ」
妙齢の女の声は、いつもながら笑いぶくみで耳にひびく。だが、その姿は見当たらない。
「何が『おりますよ』だ。どっか道中の城にでもいるクセに」
「当たり前でございますよ。わたくしがこちらを離れれば、術も解け、我が君の影が消えます。いまはなんとかごまかせていますが、時間の問題でしょう。どうぞ、くだらぬ遊びなどよして、お早くお戻りください」
青年とシフの言う『城』は、このエンマルク公爵家の屋敷を指すのではない。王都から街道に沿って、貴族の屋敷を訪ね歩く途中、彼はひとり抜け出してこの屋敷へやってきた。シフは遙か遠く離れた場所から、古い術式を使って青年の身のまわりをのぞき見しているのだ。
間違って会話がだれかに聞かれてしまっても構わぬよう、自分たちに関する固有名詞を可能な限り避けながら、ふたりは小声でやりとりを交わす。
「しかし、うわさどおりにおうつくしい姫君でしたね。下級騎士どものうわさも、時には真実を言いあてるものなのだと、感心いたしましたよ。それだけに、足が不自由でらっしゃるのは、まことにおいたわしいことです」
琥珀色に透きとおるまっすぐな髪、揃いの長いまつげ。白い肌は作りもののようにおそろしくなめらかで、くちびるの薔薇色が映える。何より目を引いたのは、瑠璃色の双眸だ。星空を写したように、金銀のひかりが細かに入る不思議な虹彩は、視線があえば、思わず息をのむような風合いをしていた。
「いつまでたっても社交界デビューしないが、たいそうな美人とうわさの公爵令嬢。ひとめ見られたのですし、お気が済んだのでは?」
「……」
青年──ロビンは、答えも返さずにだまりこんだ。