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三十三

「人魚の呪いの解きかたがわかったかもしれないな。……試してみても、いい?」

「どうすればいいの?」

 事ここに至っても、ふしぎそうにするばかりのソフィアがかわいらしくて、ローベルトは世間知らずの彼女の耳元で愛をささやく。そうして、無防備なくちびるを軽くついばむようにした。

「あっ……!」

 てっきり、くちづけに驚いたものと思って、ソフィアのあげた小さな声に微笑む。そんなローベルトを見上げて、彼女はみるみる真っ赤になった。

「あのっ、あのね、足が」

「──足?」

 見下ろして、自分のしていたことに気づいて、ローベルトは飛び上がった。人魚のひれに触れていたはずの手は、いつのまにかもとの人間の足に戻ったソフィアの白い太ももに置かれていた。

 ドレスの裾を戻して、ソフィアは頬を赤く染めながら首を傾げ、自分でも足にふれるしぐさをした。その表情がたちまち、驚愕に染まっていく。

「感覚が、ある……」

 足首が、ぎこちなくくるりと回る。動かなかったはずの五指が握られる。

「動く、動くわ、ローベルト……っ」

 ソフィアが両手で顔を覆う。感極まったようすの彼女を抱き上げて、ローベルトはそっと、小さなはだしの両足を床におろしてやった。小刻みに震える細い足は、しかしながら、しっかりとからだの重みを支えている。

 顔を覆っていた手を外し、ソフィアは歓喜に顔を輝かせ、歩きはじめの子どものように両手をさしだした。一歩踏み出し、ローベルトに抱きついて問いかける。

「いったいどんな魔法をかけてくれたの?」

 自分で提案したにもかかわらず、まさか、ここまでうまくいくとは思っていなかったローベルトは、自身の不純な動機に恥じ入りながら、ぎゅうっとソフィアを抱きかえした。

「ものがたりの人魚姫は、愛するひとの愛を得られたら人魚から人間になれる魔術をかけてもらっていたんだ。だから、もしかしてと思って。……数百年ものあいだ、子孫に受け継がれ続けていた魔術が、たったいま、ソフィアの代になって発動したんだよ、たぶんね」

「そんなことって、あるのかしら?」

「あったんだよ、こうするだけで発動する魔術が」

 ローベルトは言い、半信半疑の人魚の末裔のくちびるを塞ぐようにして、もう一度、とてもやさしい口づけを落とした。




『世界一かわいらしい孫娘へ

 おたんじょうびおめでとう

 おまえのすきなあおいごほんを贈るよ

 おじいちゃんより


 ソフィアへ

 まだ読めない文字も多いと思うので、手紙も本も、おまえが読み聞かせてやるように。殿下にもくれぐれもよろしく伝えて欲しい』

 ごくごく短い手紙を書き終えると、公爵は今度は本棚のまえでぼんやりとする。ソフィアから生まれることなど考えもしなかった孫娘の誕生祝いに、どの本を贈ってやろうかと悩むのは、思っていた以上に幸せなひとときだ。

 エンマルク公爵家の書庫には、世に言う青本なる禁書があふれている。これは、代々の当主たちが懸命に集め続けてきた本だ。

 青本の多くは、単に表紙が青いというだけで所持を禁じられているが、そのなかの一部にだけ、ほんとうの禁書があるという事実は、もう、この公爵家を除く貴族も王族も、覚えてはいないだろう。

 青本のいくつかの背に押された鱗模様とも波の模様ともつかない焼き印は、これらが禁書である理由と深い繋がりがあると、祖先たちの日記は記す。

 焼き印は、初代公爵の母であるアデーレのものした童話であるという証だ。アデーレはいくつもの童話を世に出したが、そのうちの一冊がもとで、青本のすべてが禁書になったのだと言う。

 公爵もまた、姉を亡くしたころから青本の蒐集に熱を入れていたが、禁書との端緒となるべき本はいまだ見つかりはしなかった。

 その一冊さえ見つかれば、娘を救うことができるかもしれない。アデーレは、呪いのなんたるかを知っていたはずだ。その詳細を書いた童話が発禁となったに違いないのだ。祖先も公爵も、そう考えていた。

 そんな折だ、王太子が青本の、それもアデーレの童話を知っていると気がついたのは。幼いころから何度も親しんだ童話の話題を、王太子はどうやら禁書の内容だとも知らずに口にしているようすだった。

 ──王宮の書庫には、あるいは。

 王太子は、王宮ではあまり支持されていない。行いの悪さが取り沙汰されるばかりの青年だったが、近づいてよく観察してみれば、何のことはない、彼は王太子という立場や責務から、逃げ惑っているだけだった。

 王宮で次期国王として望まれているのは、品行方正とうわさの王弟だった。かたや相手のひととなりをよく見極め、分け隔てなくだれにでも気さくに接する青年と、真面目でありながら時折、自分本位な一面が覗く王弟。どちらの人品をも見定める機会をと、ふたりを自邸に誘い入れたのは、公爵の策略だ。

 王弟は、足の不自由な娘を見て馬脚を現し、王太子はその娘にいたく気に入られた。娘の目を頼むまでもなく、どちらを推すべきかは明らかだった。

 ──もとより人魚の呪いなど、どこにもなかったのだとは、あのときは思いもよらなかった。王弟の犯した罪を引き合いに出すまでもなく、魔術は使いかた次第で身を滅ぼすものであったということか。

 物思いに沈んでいた公爵は、何度も本をとりかねていたが、ようやく一冊を手に取ると、矯めつ眇めつする。幼いころ、ソフィアの気に入っていた焼き印入りの青本だ。

 魔術の描かれた物語は、ものごとの分別もつかない孫娘には、まだ早いだろうか。考えて、笑みを浮かべ、公爵は小さくかぶりを振る。

 魔術のなんたるかを身をもって知るあのふたりならば、きっと、正しく導くことができるだろう。そう信じてしまうのは、親の欲目だろうか。

 公爵は青本の背を撫でる。鱗模様とも波模様ともつかない焼き印の丸みを指でたどり、自身にも流れているであろう遠い人魚の血に思いを馳せる。

 春のうららかな日差しのなか、フーヴル・パルクの湖には漣が立つ。水辺には、車椅子の娘はもういない。エンマルク公爵家の最後の『人魚姫』はいまごろ、小さな王女とともに、王宮の庭でも散歩しているだろうか。そんな微笑ましい光景を胸に描き、公爵は青本の背をもう一度、指先で撫でた。

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